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鬼火  作者:
第四章 天才
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第四章 天才(2/4)

 それから数日間は検閲要項の暗記試験やヒアリング、ディクテーションなどの訓練が行われた。内容自体は比較的簡単なものでさほど苦にもならなかったが、まだ検閲が始まらないうちからこの職場に蔓延する力関係に私はすでに参ってしまいそうであった。というのも私のような日本人検閲官と日頃接して指揮監督するのは日系二世の進駐兵であったが、彼らの大半が我々と同じ東洋人の顔立ちをしていながら、露骨に我々日本人を見下した言動をとり、とにかく横柄であった。私よりも先にこの職場に入った者の話によれば、これに我慢できず辞めていった者も少なくないという。特に検閲官のなかにはインテリやかつては社会的地位のあった者が多かったため、無教養な下士官から理不尽な命令や侮辱を受けとうとう我慢できずに罵り合いとなって解雇された例もあったという。私自身は格別教養があるわけでもなく、学生の身分であったことからさほど自尊心は強くなかったが、それでも二世の態度に思わず顔をしかめそうになることは多々あった。私でさえこうなのだから我慢ならない人間がいることは十分すぎるほど理解できた。そして日本人を監督する二世の上には白人将校がいたが、直接我々と顔を合わせる機会はほとんどなかった。ただ、噂によれば白人将校もまた二世を差別するらしく、それが嫌で辞めていく二世もいるという話を聞くと、差別意識の根の深さを改めて思い知らされた。

 私がこういったちょっとした情報を入手できるようになったのも、数日働いているうちにいくらか顔見知りができて彼らからこの職場に関する噂話を聞かされるようになったからであった。検閲局においては進駐兵が大声でおしゃべりしている一方で、日本人検閲官は私語を交わすことも許されずただ黙々と働かされるだけであった。そして休憩時間になっても心のどこかで後ろめたいものがあったため、誰かと仲良くなろうとか己の素性を明かそうとかそういったことを避けている節があった。だがその一方で誰かと会話したいという人間の根源的な欲求を皆抱えていたため、互いの素性や私生活に一切踏み込まないがそれでも仲良く会話するという奇妙な人間関係が醸成されていたのだ。

そんななか、私が知り合った検閲官の一人に久賀(たまう)という名のT大生がおり、彼が検閲局にまつわる様々な情報を最も提供してくれた。久賀と私はともに大学生であったため講義のかたわら変則的な勤務時間で働いていた。始業から十時くらいまでは講義を聞き、その後急いで検閲局へ向かい五時間ほど仕事をする。その後大学へとんぼ返りして夕方の講義を聞くといった多忙な毎日であった。検閲を専業としている者とはそもそも仕事に充てられる時間に雲泥の差があるのだから、多少無理をしてでも時間を捻出する必要があった。それは私に限らずここで働く学生に共通した悩みであり、必然的に勤務時間が重なる傾向にあった。たまたま久賀とも休憩時間中に少し会話したのをきっかけに知り合いとなり、その後も顔を合わせる機会が多かった。私よりも三ヶ月ほど早く検閲局で働き始めた彼は、すでに局内の人間関係や裏事情に精通しており、右も左も分からない私にとっては重要な情報源であった。久賀は冗談(その大半がブラックユーモアの類であったが)を好み飄々としてはいるが、勤務評価は良かった。すでに研修期間を終え検閲に従事していた彼は翻訳が正確かつ迅速ということで、この十月で初級から中級へと昇格したという。わずか三ヶ月で昇格するということは滅多にないようで、ちょっとした天才なのではないかという噂さえあった。だが、私自身は久賀という男が人間的に好きになれなかった。その理由はなかなか言葉で表現することは難しいのだが、何よりも不誠実であると思われたからだ。それはある日の休憩時間中に交わした次のようなやり取りに由来するものであった。


「なあ久賀、俺も来月から本格的に検閲をすることになるって言われたんだ。実際のところ、やってみてどうなんだ」窓のない小さな休憩室の中、隣で洋モクをふかしている久賀に私は軽くせき込みながら尋ねた。

「どうって言われてもなあ。まあ結構楽しくやってるぜ。最近給料も上がってきたしな」

「楽しいってことはないだろ、他人の手紙を盗み読みして。おまけに進駐兵にあごで使われて」

「普通じゃ絶対見れないものを拝めるんだから面白いんじゃないか。まあ、馬鹿なアメ公にへこへこするのは不愉快だが、今じゃどこで働いたってあいつらには逆らえねえよ」

「それでも不誠実だろ。かつての敵国に自国民を売っているようなものだ。まるで売国奴だよ」私は普段から久賀の言動を快く思わないことがあったが、この日はどうしても腹に据えかねた。

「そこら辺のヤツの手紙を翻訳したところで何だっていうんだ。些細なことだろ。もし仮に検閲のせいで逮捕されたところでそんなのは自業自得だ、俺の知ったことじゃない。それに、そこまで言うならなぜお前はここにいるんだ。お前の立派なご高説は結構だが、言動がまったく一致していないんだよ」

「それは――どうしても金が必要だから――」私は口ごもりながら答えた。

「そうだろ。それはよく分かる。俺だってそうだ。俺とお前は何も変わらないよ」

「いや、違う」私はむきになって食い下がった。

「何が違うっていうんだ」久賀は人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべて尋ねた。

「それは――思想だ」

「思想――思想か、ハハハ。なるほど、たしかにそうかもな」久賀は私の言葉を聞いて大笑いした。

「何がそんなに可笑しいんだ」

「いや、思想なんてろくなもんじゃないと先の戦争で嫌ってほど学んだはずなのに、まだ言ってるのかと思って。『東亜の救済』や『八紘一宇』、『大東亜共栄圏』とか様々な〈思想もどき〉が生まれて、国中が踊らされた結果が敗戦じゃないか。まあ見てろ、今度はマルクス主義に踊らされるやつが出てくるぞ」

「あれは思想に行動が伴っていなかったからだ。東アジアは間違いなく救済されるべきだった」

「思想に行動が伴っていない――まさにお前自身のことじゃないか。行動に責任をとれないヤツが思想を語る資格なんてない。そうじゃなきゃ悲劇が起こる。まあ、そんな顔するなよ、別に俺はお前を責めているわけじゃない。検閲局の連中の『マッカーサーのより良い占領政策を手助け新日本建設に役立つ』なんていう言葉を無理やり自分に信じ込ませているヤツらよりははるかにまともだ。自分自身を騙している輩は救いようがないからな。だが、お前はちょっと真面目すぎる。もっと気楽にやれよ。刺激があって案外楽しい仕事だぜ検閲は」

 私は何も言い返せず奥歯を固く噛みしめていた。久賀に対する怒りよりも、何も言い返せない自分がどうしようもなく情けなかった。

「さて今日は早くあがらせてもらうよ、ちょっと用事があってな」久賀はそう言うと、ドス黒く濁った水の張ってあるブリキ缶に煙草を投げ入れ、椅子にかけていた上着と帽子をとった。私は彼の手にしたえんじ色の鳥打帽に見覚えがあった。新宿で吾平伯父さんと会った帰りに見かけた青年のものに良く似ている気がした。そして改めて久賀の顔を見てみると、あのときの青年とよく似ているように思われた。

「なあ、久賀。人違いだったら悪いが、お前八月の中頃に新宿駅前にいなかったか」

「新宿駅前――尾津組のマーケットのことか。あそこなら時々顔を出すが」

「まさかとは思うが、そこで浮浪児に泥団子を渡したりしていないよな」

 久賀は私の質問には答えずそのままドアへと向かい、こちらを振り向きざまにやりと笑ってただ一言「俺は面白いことが大好きなんだ」とだけ言い残して部屋から出て行った。


 久賀賜という男はたしかに仕事の面では優秀であるのかもしれないが、人間的には問題があるとしか思えなかった。彼とのやり取りで露呈したように、たしかに私は思想と行動が矛盾していた。だがそれでも思想や志を持たず、ただ己の欲望のままに生きる彼と同列に扱われることに憤りを感じずにはいられなかった。この時代に安っぽい思想は一文の価値も持たない。それでも私は己を軽蔑したくないがために、その安っぽい思想にすがり続けていた。このような荒んだ時代になっても、まだ自分自身を見捨てたくはなかったのだ。

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