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鬼火  作者:
第四章 天才
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第四章 天才(1/4)

 私は前日指示されたとおり午前八時に中央郵便局を訪れた。受付で名前を告げると大部屋に通された。そこには他の合格者も集合していた。前日と同様全体的に学生風の者が多く、なかには女学生とおぼしき若い女もいた。すでに打ち解けた様子で話をしている者もいれば、他人を寄せ付けず部屋の隅で読書している者もいた。

 この日は主に勤務条件や福利厚生に関する説明が行われた。検閲官は上級(Senior Examiner Translator: Sr. Ex. Tr.)、中級(Ex. Tr.)、初級(Jr. Ex. Tr.)と格付けされており、業務成績に応じて昇給や昇進がなされるとのことであった。新規採用者は一律で初級検閲官から始まったが、前日の試験結果によってすでに給与額に差がつけられていた。私は好成績であったらしく七百円であるという。昇給や昇進は完全に能力主義であり、年齢や性別、経歴等は一切加味されないと強い口調で説明があった。この場にいた女学生はすでにそのことを聞き及んでいたらしく、それでこれだけの数が集まったのかと合点がいった。比較的裕福な家庭に育った彼女らは、一部の例外を除けばヤミに関わることさえ親から禁じられていた。しかしながら物価や学費は高騰し続け親の稼ぎだけではどうしても足りなくなる。そういったなかで、検閲という仕事は、後ろめたいものはあるにしろ、魅力的に映ったことは間違いないだろう。

 ここで簡単に検閲局に関する説明をしておこうと思う。正式名称はCCD(Civil Censorship Detachment)。「民間検閲局」などと訳されるが、我々は単に「検閲局」と呼んでいた。GHQの一部局であるCCDは、日本本土(一時期には旧植民地をも含む)の郵便、電話といった通信からメディア、映画まで幅広い検閲活動を一手に担っていたため、他の部局に比べて突出した人員を抱えており、その業務の性質上から構成員の大半は日本人であった。CCDは昭和二十年九月に発足した。日本の主要都市(一時期には韓国にも)本部もしくは支部を置いており、私が勤務していた東京中央郵便局には東京本部の郵便部が入っていた。日本人は進駐軍が検閲を行っているということには気付いてはいたものの、進駐軍はCCDという組織の存在を含め検閲の存在を公式に認めなかったため、いわば公然の秘密のようなものであった。

 この日の説明は午前中に終了し勤務可能な日時を紙に書いて提出した後、解散が告げられた。初出勤は二週間後であるという。丸の内に用事もないので私はそのまま高橋家に戻った。前日、正子叔母さんに「翻訳者」として雇ってもらえそうだと告げたところ彼女は非常に喜んでくれた。そしてどこから調達してきたのか、その晩の食卓には銀シャリと鶏肉が並んだ。少なくとも彼女がこの合格について喜んでくれたのが、私にとって唯一の救いであった。ただ問題は、彼女に対して真実を打ち明けるか否かであった。試験を受ける前は合格するか分からないと心のどこかで余裕があったが、いざ合格してみると真実を打ち明ける勇気に欠けていることを痛感した。結局私は本当のことを話せないままでいた。そしてだからこそ叔母の優しさがありがたいと同時に辛くもあった。

 帰宅した私に叔母は仕事のことを尋ねた。

「まだ今日は説明だけでした。二週間後にまた来いとのことです」

「上手くやっていけそうなの」

「どうでしょうか。でも向こうは僕のことを評価してくれているみたいです。給与は七百円。これだけじゃまだまだ足りないですけど、働き次第ではもっと上がるそうなので頑張ろうと思います」

「あまり無理しちゃいけませんよ。それにあなたのお父さんからも言われているの、お金の工面は色々と大変だろうけど学業を疎かにするようになったら本末転倒だって」

「それは分かっています。僕だってこんな仕事に熱をあげるつもりはありませんよ」

 私は何気ない口調で叔母の追及をかわして逃げるように自室へ引き上げた。


 二週間後、再び大部屋に集められた検閲官の新規採用者は、まず業務上の守秘義務に服する旨の宣誓書を日英両文で提出することを求められた。予め用意された書類に署名捺印をするだけであったので格別手間がかかるものではなく、守秘義務に関しては二週間前にしつこく言われていたのだが、改めてこういった重みのある書類を前にするとやはり抵抗があった。それでも、これを提出しないことには仕事に携わることができないため、どうにでもなれという自暴自棄な気持ちで万年筆を手にした。

 次に検閲要項の説明があった。これは検閲の際に用いる手引きのようなものであり、郵便物のうちどういった内容を含んだものは摘発すべきかが書かれていた。要項は、旧日本軍や進駐軍を讃美したものや反対に非難したもの、ヤミ取引に関するものなど列挙すればきりがないほど多岐にわたった。そしてこれらに該当したものを英訳し提出するまでが検閲官の仕事であった。その翻訳された手紙がどのように使われるのかまでは説明されなかったが、後日噂で聞いた話ではどうやら主に検挙や統計に利用されるとのことであった。

 大量の郵便物を検閲するいじょう、いちいち要項を確認していては時間を浪費する、一時間後に試験を課すからその場ですぐに暗記しろと命じられた。仕方なく我々は必死になって暗記を始めた。まるで軍人勅諭だなと横でぼそりとつぶやく声が聞こえた。機密保持の観点から使用した要項はその日に必ず返却を義務付けられていたが、そこには根本的に我々日本人に対する不信感が存在するようにしか思えなかった。

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