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鬼火  作者:
第三章 伏魔殿
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第三章 伏魔殿(3/3)

 壁時計が午後一時を指したので、私は先ほど受付の女に指示されたとおり、相変わらず暇そうにしている係員の所へと向かった。

「午前中に申し込みをした早見ですが」

「ああ、ついてきてください」係員は不愛想にそう言うと大股で歩きだした。

「こちらの部屋で試験を行います。説明は中で行いますので担当者が来るまで座って待っていてください」

通された小部屋には中央に机と椅子が一組ぽつんと置かれているだけであった。指示されたとおり座って待っていると、間もなく若い女性係員がぶ厚い書類の束を抱えて部屋に入ってきた。妙に肉感的な臀部の持ち主でついそちらに視線がいった。女はつかつかと歩み寄り書類を私の机に置くと、事務的な口調で説明を始めた。

「それでは今から試験を始めます。問題は全部で五十題あります。可能な限り早く解答するようにしてください。正答数と解答に要した時間の両方から採点します。なお、一時間を超えた時点で失格となりますので悪しからず。分かりましたか」

「ええ」まくしたてるような話しぶりに私はやや気圧されながら返事をした。

「それでは試験を開始します」女は腕時計を確認して解答用紙に開始時間を書き込んだ。

 問題は複数の選択肢の中から正解を選ぶといった形式で、一問あたりの難易度は簡単と言って良かった。ただ、問題数がどうしても多いため、正確さと速度の両方が求められた。おそらくそれらの能力も膨大な量の郵便物を扱う検閲官には必要となるためこのような試験内容にしたのだろうかと問題を解きながら頭の片隅で考えていた。

 四十分程度で全問題の解答を終えた私は、女性係員に答案を提出した。しばらくの間控室で待っているとやがて私の名前が呼ばれ一次試験の合格が告げられた。そこはかとなく喜びや優越感と呼ぶべき感情が心の奥底から湧いてくるのに気付いて恥ずかしくなった私はそれらを急いで押し殺した。このように簡単な一次試験を通過したくらいで何だというのだ。それに、彼らが我々日本人を試すという構図自体が敗戦を如実に示しているようで不快であった。幼少期から英語をみっちり仕込まれたが、まさかそれがこのような使われ方をするとは教えた父も夢想だにしなかったであろう。そして私がこのような試験を受けていることを知ったなら父はどう思ったであろうか。

 二次試験は手紙の英訳であった。こんどは大部屋で他の応募者とともに受けることとなった。周囲を見回すと先ほどまであふれんばかりであった受験者は三分の一程度にまで減っていた。各人に問題として配布された手紙は、この試験のために作成されたものではなく本物の手紙であった。私を含めその場にいた受験者の目つきが急に険しいものになった。それもそのはずである。この瞬間をもって我々もまた進駐軍と罪を共有する加害者の側に立ったのだから。それでも私は罪悪感や不快感と同時に、罪を犯す際に特有の甘美な法悦をわずかに感じながら、手紙を必要以上に丁寧に開いて行った。私の手許に来たのは、病気の母親が遠く離れた所で暮らす息子に宛てた手紙であった。母親はすでに夫に先立たれたらしく行間からは孤独がにじみ出ていたが、それを必死に押し隠して我が子を励ましその身を案じるいじらしさに胸を打たれた。混沌とした世の中で、こういった真心のこもった手紙は何もかも失った日本人が最後まで手放すことのなかった宝石であり、私は唯々救われたような気がした。しかしその一方でそれを出歯亀のようにのぞき見ることに罪悪感を抱かずにはいられなかった。それは一種の冒涜であった。心の機微に触れる手紙を、まるで乱暴に草花を摘んで標本にするかのように翻訳して進駐軍に捧げる。私はまだ検閲官になったわけでもなかったが、もし仮にそうなった場合には今後何百何千もの手紙を同じように「処理」することを考えると寒気がした。それでも私は心を鬼にして手紙を英文におこしていった。どれだけ不名誉なことであると頭では分かっていても、それを正当化するだけの言い訳には事欠かなかったし、何も考えず眼前の作業に没頭することには長けていた。このとき私は命令をただ忠実に遂行するだけの機械でしかなかった。

 三十分が経過し、私は答案を提出した。それなりの手応えはあった。ただ私は翻訳を苦手としていたし、素直に合格を祈る気分にもなれなかった。採点には一時間程度を要するとのことであった。かといって時間を潰す方法もなく、私と同様に試験結果を待つ者たちも手持ぶさたにしていた。金や体力があればちょっと外へ出て軽食でも摂るのであろうが、あいにくどちらもなかった。動く分だけ腹が減るのであるから、じっと何もしないのが一番賢明である。ほどなく、慣れない試験で張りつめていた神経が弛緩したのか急激な眠気に襲われた。


 私は母校である大阪の尋常小学校の教室にいた。当時仲の良かった級友とくだらない話題で盛り上がっていると、突然教室に入ってきた教師が私を呼びつけ、平然とした顔で母親の危篤を告げた。私は血相を変えて学校を抜け出し家路を急ぐのであるが、一向に前進しない。まるで全身が鉛に変化したかのように重く、走ることはおろか自由に動かすことすらままならないのだ。それでもどうにかして自宅へたどり着くと、母親はすでに息を引き取っており、納棺まで済んでしまったという。なるほど目の前には不自然なまでに巨大な棺が置かれ、屋内の調和を乱していた。父や兄弟、親戚らはどうして早く来て母の死に目に会ってやらなかったのかと私を咎めた。そして挙句の果てには母が助からなかったのは私の到着が遅かったからだと言い出す始末であった。私は必死に弁解しようとするも喉が締めつけられたかのように声が出せない。とぎれとぎれかすれた声を出したところですぐに彼らの罵詈雑言にかき消されてしまい、結局私はまともな反論もできないまま家を追い出されてしまった。


 ここで私は夢から醒めた。無理な姿勢で眠っていたためか首のあたりが傷んだ。二十分程度寝ていたらしい。いかにも夢らしい荒唐無稽な内容であったが、先ほどの罪悪感が尾を引いていたのか少し不吉なものを感じないでもなかった。寝ぼけた頭を覚ますために三十分程度外をぶらぶら歩いて、再び元の場所に戻って待っていると、私の名前を呼ぶ声がした。呼んだのは四十代ぐらいのすでに頭髪が寂しくなり始めた男であった。男のもとへ行くと素っ気なく合格を告げられ、詳細については翌日話すので午前八時にもう一度この中央郵便局に来いとのことであった。事務的な話を終えると男は一瞬ためらった様子をみせた後、次のように言葉を継いだ。

「ミスター・ハヤミ、大学はどこに通っている」

「K大の英文学です」

 私の回答に、男は少し意外そうな顔をした。

「君の翻訳は良くできていたのだが、我々が特に高く評価したのは文体がドライだった点だ。文学に慣れ親しんだ者はついレトリックに走りがちになるものだが、どうやら君は違うようだな」

「私としてはごく自然に翻訳したつもりなのですが。それに手紙なんて本来情緒的なもので、レトリックを取り除いてしまえば後には些細で私的な近況報告くらいしか残らないのではありませんか」

「たしかにそのとおりなのだが、要はバランスだ。レトリックを重視して事実を歪めたり、目立たなくしてしてはならない。当然自己主張する翻訳などももってのほかだ。君はそこら辺のバランスが大変良い。まあ詳細については明日話されるだろうし、働いているうちにおいおい分かってくるだろう」

 私は狐につままれたような気分でその場を離れた。ひとつはっきりしていたのは私の翻訳能力が評価され検閲官として働くことができるということであった。ただそのことを素直に喜ぶことはできなかった。松村教授の勧めでここまで足を運び試験を受けてはみたものの、心のどこかで落としてくれと祈っていた節があった。一応受けてみた結果不合格ならば、やるだけのことはやったと言い訳は立つのだ。だがそういった当てが外れてしまったものだからいよいよ困ってしまった。明確な意思も持たず、どっちつかずの気持ちで、それでいて全力で試験に臨んだ結果合格する。すべてがちぐはぐで一貫性に欠けていた。

 建物を出ると前方に見覚えのある背広姿が眼に入った。昼前に声をかけてきた初老の男であった。向こうもこちらに気付いたらしく、ちょっと帽子を掲げて会釈をしてきた。

「いかがでしたか。私はダメでした」男は苦笑いしながら言った。

「私は受かっていました」少々気まずかったが正直に答えることにした。

「それは良かった。色々つらいこともあるでしょうけど頑張ってください。この国はこれからあなたみたいな若い人たちが変えていかなくちゃならない」

 男は決して嫌味を言ったつもりではないのだろうが、そのどこか無責任で他人事のような口ぶりにあまり良い感情を抱かなかった。

「受かっておいて、こんなことを言ってはいけないのかもしれませんが、素直に喜べないんです」

「それはまたどうして」

「やはり検閲という仕事にまだ抵抗がありまして」

 男は、ならばどうしてわざわざ試験を受けに来たのだと言わんばかりに困惑した表情を浮かべたが、すぐに優しく微笑んで慰めるような口調で語りかけた。

「昼にお会いしたとき私は偉そうなことを言いましたが、あれは気にしないでください。ああでも言わないと自分を許せそうになかったものですから。たしかに検閲なんて胸を張れる仕事ではありませんが、だからといって誰もあなたを責める資格なんてありませんよ。みんな生きるために必死で、盗みや殺しだって珍しくない。それらに比べれば、これからあなたがやろうとしていることなんてかわいいものですよ。いい加減自分を責めるのはお止めなさい。実際、私を含めてあなたをうらやましいと思う人間はたくさんいる。それを忘れてはいけませんよ」

 男にそう言われると私はもう何も反論することができなかった。少なくとも、他人の食扶持を奪って私は仕事を得たのだ。彼らには守るべき家族がおり、それこそ藁にもすがる思いでここに来ていたはずだ。私にはもはやきれいごとを言う権利などなかった。

「それではここで失礼します。頑張ってください」

「はい。ありがとうございます」

夕暮れに照らされた男の背中を眺めながら、私は言いようのない思いを抱いていた。もはや誰にもすがることなどできないのだ。私は今後一生この業を背負い独りで耐え抜いていかねばならない。そう考えたとき、この丸の内にそびえる建物群から不気味な印象を受けた。帰宅時のまちには仕事を終えた進駐兵の姿がそこかしこに見られ、まるで自分が異国の地に迷い込んだかのような錯覚に陥った。私は少し身震いをした後、東京駅に向かって急いで歩き始めた。

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