第三章 伏魔殿(2/3)
結局散々迷った挙句、私は松村教授に紹介された検閲官の試験を受けることにした。教授の言ったとおり選り好みなどできなかったうえ、金がないという現実はどうしようもないほど重くのしかかっていた。
しかし問題は正子叔母さんであった。叔母にこのことをどう説明しようか迷ったが、合格する保証もないのだから無用な心配をさせまいと進駐軍の翻訳係の仕事に応募するとだけ言って家を出た。叔母は優しい女性であったから、私が検閲のような不純な仕事に手を染めようとしていることについて自身を責めるかもしれなかった。そして何より私は彼女に軽蔑されるのを恐れていた。
東京駅に着いたのは午前九時前であった。周囲を見渡すと興味深いことにあれだけ空襲によって東京中が火の海になったにもかかわらず、ここ丸の内や皇居は奇妙なほど被害が少なかった。進駐軍は日本に上陸して間もなく大量の土地建物を次々と接収していったが、マッカーサー率いる連合軍総司令部が入り「ダイイチ」と呼ばれた第一生命ビルを筆頭とした丸の内の主要な建物には進駐軍の中心機関が軒並み入っていた。そのため米軍はあらかじめ丸の内を占領の本拠地とすることを想定し、空襲の際はあえて目標から外していたのだという噂もあった。その真偽のほどは定かでないが、もしそれだけ精密な攻撃をするだけの技術があったのだとすれば、はなから先の戦争において我が国に勝ち目などなかったのだろう。
占領によって国中が大きく様変わりしたが、特にここ丸の内はその最たるものであった。碧眼の支配者が大股で歩きまわり、いたるところでアメリカ製の車を見ることができた。占領の影響は地理的な分野にも及んでいた。即ち、日本名の道路は進駐軍には分かりにくいということで、皇居を中心に放射状に延びる道路を「○アヴェニュー」と名付け(○の中にAからZまでが入る)、都内の環状線道路を皇居に近い順で「○ストリート」と名付けた(○の中に1stから66thまでが入る)。こういった様々な変化によって、この国が占領下にあるという生々しい現実を我々は見せつけられるのであった。
進駐軍の用語に従えば、私は東京駅を丸の内側に出た後「Xアヴェニュー」をさらに西へ進み、「4thストリート」を南下し、右手に見える東京中央郵便局に到着した。建物の内外はすでに私と同様「翻訳係」や「タイプライター」に応募する者であふれかえっていた。人混みには角帽が散見され応募者の年齢層は比較的私と近い傾向にあるようであった。ただやはり語学に自信のある者が集まっているだけあって、皆私などよりもはるかに利発そうであった。それまで検閲作業に対してあれこれ思い悩んでいたのは取り越し苦労でしかなく、心配せずともはなから合格の望みなどなかったのではないかと思い始めていた。この場に集まった者たちは、生まれてくる国や時代が違えばこのようなみじめな職を求める必要などなく、もっとまっとうな人生を送ることができたのであろうと考えると複雑な気持ちになった。
一階受付に “INFORMATION’’ と書かれた札が立っており、そこにはすでに長蛇の列ができていた。私はその最後尾に並んだ。日頃から配給などで行列には慣れていたため、さして苦にもならなかった。かといってすることもなくぼんやり遠くを眺めていると、前方に並ぶ男二人の押し殺したような会話が耳に入ってきた。
「――やっぱり検閲らしいな、ここの仕事は。都内の郵便物は一度ここに集められて、そのうちいくつかが検閲されているらしい。女房にこの仕事を話したら、最初は反対されたよ。でも給料のことなんかを話したら、途端に背中を押すんだぜ。ゲンキンなもんだよ」
「どこもそんなもんだろうよ。食ってくためには何だってするのさ。主義や思想で腹は膨れないんだよ。それに、一体誰が俺たちを責められるんだ。国中が進駐軍に媚を売っているっていうのに」
私は彼らの中に己の投影を見たような気がしていたたまれなかった。彼らの論理こそ私が今こうやって並んでいる理由そのものであり、いかに彼らを軽蔑しようとそれは同族嫌悪に他ならなかった。だがそれでも、つい最近までは日本中が御国のために命を捧げるのが当然だという論調であったのに、戦争が終わった途端、自分が生き残るためには他人を蹴落とすことも正当化されるという転向にはなじめなかった。浅はかな人間はそれが自由主義なのだとしたり顔で言ったりしていたが、そのような輩は己の低俗さをごまかすために既存の概念を曲解したに過ぎない。そのようなものは倫理観の欠落したただの言葉でしかなく、誰の心にも響くようなものではなかった。ただ、そのようなきれいごとばかりを言っていれば、次の日には路頭に迷ってしまうという精神と肉体が引き裂かれるような時代であったのもたしかであった。ぼんやりとそんなことを考えているうちに一時間ほど経っただろうか、前方で並ぶ人間が減ってきてようやく私の番が回ってきた。
「お次の方どうぞ」茶色がかった黒髪で毒々しいくらい真赤な唇を塗った女性が、どこかぎこちない日本語で私を呼んだ。顔は東洋人風でありながらどこか異国的な雰囲気があったため、すぐに日系二世だと分かった。名前、年齢、学歴等ひととおり事務的な質問を投げかける間、女はピクリとも表情を動かさずいかにも眼中にないといった露骨に見下した態度に、私は内心不快で仕方なかった。
「ミスター・ハヤミ、申し訳ないのですが午前中の応募はすでに一杯で、午後一時にまた来てください。その際は列に並ばず、向こうの係員に声をかければすぐ試験会場に入れます」女が指差した先を見ると、ホールの端で退屈そうにあくびをしている男が一人立っていた。
「分かりました。そうさせて頂きます」私は獅子脅しのように心のこもらない一礼してからその場を離れた。
局内の時計を見ると十時半を指しており、約束の時間までだいぶ待つ必要があった。特別することもないので、私は適当に座れる場所を見つけると背嚢から正子叔母さんが用意してくれた握り飯を取り出した。
「お隣よろしいですかな」
握り飯にかぶりつこうとしているところを話しかけられた私があわてて振り向くと、そこには茶色の背広をピシリと着こなした初老の男が立っていた。五十代の後半であろうか、柔和な笑みを浮かべてはいるが浅黒く焼けた肌に刻まれた皺は深く、どこか陰のある顔つきをしていた。
「ええ、どうぞ」私は右にずれて一人座れるだけの空間をつくり、何事もなかったかのように食事を再開しようとした。元来人見知りのする性格であったうえ朝からずっと憂鬱な気分が続いていたため、他の応募者のように嬉々として世間話をする気にもなれなかった。だが男は私の隣に腰掛けるとお構いなしに話しかけてきた。
「いや、それにしてもものすごい数の応募者ですなあ」
「ええ、私も来てみて驚きました」無視するわけにもいかなかったので私は渋々相槌を打った。
「まさか皆さん、本当に翻訳者やタイプライターの求人だと思って集まっているわけではないと思うのですが――あなたは御存知でしょう、ここの本当の業務内容を」
「検閲官だとうかがっていますが」自身の口から飛び出した単語に、私は気恥ずかしいものを感じた。
「そう――嫌な仕事です。それなのにこれだけの人が集まるのですから、みじめなものですなあ」
「誰だって好きでこんな仕事をしたいとは思っていないはずです。しかしどうしても金が要るんです。どうしようもないんです」男が言っていることはつまるところ自分が先ほどから感じたことと相違なかったのだが、何やら自分が侮辱されたような気分になってつい苛立った声を上げた。
「ああ、気分を害されたのなら謝ります。この場に来ている私自身、そのことは嫌というほど分かっているつもりなのですが、どうも皮肉な考えに襲われてしまうのです。ところで、あなたは学生ですか」
「ええ、大学生です」
「そうですか、最近は学費が上がって大変だそうですね。私は以前勤めていた会社が潰れてしまって、どうにかして稼がなくてはならないものですから、やむを得ずこの仕事に応募したのです。仮に会社が存続していたとしても、とても給料だけでは家族を養っていけずヤミに手を出したでしょうから、潰れてくれたおかげで踏ん切りがついたのですからかえって良かったのかもしれません」男はそういうと寂しく笑った。
私は何と答えて良いか分からず黙っていると、少しの間気まずい沈黙が流れた。
「試験は午後からですか」男は唐突に尋ねた。
「ええ、午前はもう一杯だと言われたものですから」
「私も午後です。お互い受かっていると良いですね」
「ええ」
男は丁寧にお辞儀をして立ち去った。その後ろ姿を眺めながら、実のない空虚な会話であったと思うと同時に、ここに集う者が世間話に興じる理由が少し分かったような気がした。皆、心のどこかで後ろめたさを感じているのだ。誰だって本当はこんな仕事に従事などしたくない。だが経済的な事情からやむを得ず就くのだ。それをお互い確認し、慰め合うためにそわそわと話し相手を求めるのだ。握り飯を食べ終えた私は指についた米粒をひとつひとつ丹念に舐めとりながら、眼の前で蠢く群衆を少しだけ許せるような気がした。