第三章 伏魔殿(1/3)
松村教授に突然呼び出されたのは九月末のことであった。教授は私の通うK大学で近代英文学を研究しており、私も何度か講義を受講したことがあった。しかし呼び出されることに対して特に思い当たる節のなかった私は少し不安な気持ちで教授室をノックして静かにドアノブを回した。
「ああ、早見君よく来たね。適当なところに掛けてくれ」ちょうど書類を整理していたのか机の上にはいくつも紙の束がうず高く積まれており、そのなかからひょっこり顔を出した教授が軽い口調で言った。
私は指示されたとおりどこかに腰掛けようと思ったが、どの椅子の上にも本が積まれており仕方なくそれらをどかしてようやく座ることができた。研究者に特別珍しいことではなかったが、松村教授もまた整理整頓が苦手な部類であるらしく、書架に収まりきらなかった本がところ構わず平積みされていた。
「いや、散らかっていてすまないね。どうも片づけを後回しにしてしまうとこうなる。今もこうやってたまった書類を整理しているんだが、後になってやるとやはり時間がかかる――よし、とりあえずこんなものか。いや、待たせてすまなかったね、こちらから呼んでおいて」
教授は立ち上がると、小卓を挟んで私の正面に置いてある椅子の上から本をどかせてそちらに座った。
「さて、簡潔に要件から話すとしようか。今日呼んだのは、君に紹介したい仕事があるからなんだ。ほら、以前仕事を探しているって話していたじゃないか。それで中央郵便局に入っている進駐軍が翻訳者やタイプライターを募集しているらしいから、応募してみたらどうかと思ってね。ただ、採用されるには試験に合格する必要があるらしいが、君の語学力なら多分問題ないだろう」話している間、教授はさかんに口髭をひねっていた。戦時中、教授陣のなかには戦局が悪化するにつれて髭を落としたり、極端なものは官僚のように頭を丸めたりする者もいたが、松村教授はその立派なカイゼル髭を断固として守り抜いた。
「翻訳ですか。あまり得意ではありませんが」
「受けるだけ受けてみれば良い。さっきも言ったように君なら大丈夫だろう。何か不都合でもあるのかね」
「いえ――ただ、進駐軍の下で働くのがどうしても抵抗があります」
「まあ、気持ちは分からんでもないがね。だが日本は敗けたんだ。現実を受け止めなくてはならんよ。これから日本はきっと良くなる。そのためには君、アメリカから多くを学ぶ必要があるとは思わんかね。とにかく試験だけでも受けてみなさい。実際にそこで働くかどうかは合格してから考えても遅くはないだろう。試験は来週の金曜日だそうだから、悩んでいる時間はないぞ」
「たしかにおっしゃるとおりですね」私は渋々そう答えるほかなかった。
「ただ、ひとつ付け加えておくならば――ここから先の話は、良いかね絶対に他言無用だぞ――翻訳者やタイプライターを募集しているというのはあくまで表向きであって、その真の業務内容は郵便物の検閲らしい」
「検閲ですか」教授の口から出たその忌まわしい単語に私は思わず顔をしかめた。
「そうだ。君はあれが日本人の手によって行われていると知っていたかね」
「いいえ、てっきり日本語に堪能な進駐兵がやっているものかと思っていました」
前年末ごろからしばしば郵便物の封が切られ、検閲印を押した上に検閲済と英語で記されたセロファンテープで封印され、一週間からときには一ヶ月近く遅配されるようになっていた。そして受取人はこれが「自由の国」を標榜する国家の正体かと苦々しく思いながらテープを剥がし、何の変哲もない手紙を読むのであった。わざわざ周囲に聞いてまわったことはないが、私を含め国民の大半がこういった検閲を日本語に堪能な進駐兵が行っていると勝手に思い込んでいたのではないだろうか。街を闊歩する米兵が初歩的な日本語も話せないことは経験上分かっていたが、なかには日系二世、三世とおぼしき顔も散見されたため、そういった一部のものが担当していてもおかしくはなかったのだ。
「私も信じたくはなかったがね。しかし、ちょっと考えてみれば子供でもおかしいと気付くはずなんだ。進駐軍の中に一体どれだけ日本語のできる者がいるかは知らんが、日々交わされる膨大な量の郵便物を彼らだけで検閲するのは物理的に不可能だ。おまけに手紙なんて、クセ字だったり口語体で書かれていたりするものだから、なおさら彼らの手に負えない。日本人がやるしかないのだろうね」教授はどこか皮肉っぽい引きつった笑みを浮かべた。
「しかし、仕事の内容がもし本当に検閲だというのであれば、なおさら私にはできません」
「まあそう言うな。報酬は良いし、食事もつくらしい。それに勤務時間の融通も利くようだから、学生にはもってこいだろう。何より選り好みなんてしている場合でもないだろう」
「しかし――」
「さあ、私からの話はこれで終わりだ。試験の受付は来週金曜日の午前九時に中央郵便局でやるそうだ。とりあえず受けてきたまえ」
ひととおり話を終えた教授は立ち上がり、私は追い出されるようにして教授室を後にした。