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鬼火  作者:
第二章 偽らざる者
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第二章 偽らざる者(1/2)

 群衆が生み出す喧騒と熱気にあてられ軽いめまいを覚えながら、私は吾平伯父さんと人波を掻き分け歩いていた。

「それにしてもいつ来てもエライ人混みやな。熱うてしゃあないわ」そうぼやいた伯父は懐から扇子を取り出し小粋に開いてみせると胸元をパタパタと仰いだ。鳥打帽をかぶり開襟シャツの上に背広を羽織った伯父は、私を含め日本人の大半が戦後も着るものがなくやむを得ず国民服を何度も修復しながら着続けていた当時としては、洒落者の部類に入ったであろう。

 吾平伯父さんは母方の実家である島田家の三男であった。母にとっては兄のなかで最も年齢が近かったということもあり一番なついていたようで、幼少期はよく一緒に遊んでもらっていたらしい。しかし、年齢を重ねていくにつれ伯父の周囲には「悪い友人」が増えついには学業を半ば放棄して盛り場を渡り歩くようになっていった。そんな伯父に祖父は手を焼いてとうとう勘当してしまった。伯父はたくましい人であったから家の後ろ盾を失ったとしても平然としており、日替わりで知人の屋根を借りながら雨露をしのぎ、危なげな手伝いをしては小遣いを稼いでその日暮らしを続けていた。結局、良い歳になってもまともな定職に就こうとはせず妻帯もしなかった。ときおり母のもとに顔を出しては大量の土産物と土産話を置いていき、たらふく飲み食いしてはすぐに去って行った。両親には黙っていたが、私は子供心にその姿を風来坊のようで格好が良いと憧れたものであった。だがある日を境に伯父はぱたりと音信不通になってしまった。満州に渡ったとか軍を相手に商売をしているとかといった真偽の定かでない噂が親族間で飛び交ったが、それくらい伯父には謎が多かった。そして、どこから入ってくるのかやけに羽振りが良かったため、それが一層謎と疑惑を深めた。普段、母は伯父が唐突に訪問してくるといかにも迷惑そうな顔をするくせに、いざ伯父からの便りが途絶えるとひどく心配そうにしていたのが可笑しかった。とうとう伯父は戦争中もずっと音信不通のままであった。

 そんな伯父が例のごとく唐突に高橋家を訪ねてきたのは戦争が終わってめまぐるしい一年が過ぎ去ったころであった。前月から私と同じように間借りするようになった倉持さんの子供たちが家の前で何やら騒いでいるので、叔母が様子を見に玄関へ出てみると伯父が飴を与えていたらしい。それが米国製のものであったことからその喜びようは大変なものであった。長い間砂糖不足が続いていたため皆甘いものに飢えており、その状況は戦争が終わっても変わらないかむしろ悪化していた。ヤミ市では甘くない汁粉が平然と売られてさえいた。思えば伯父は常に与える側の人であった。たまに母の所へ寄ってたらふく飲み食いすることはあっても、金を無心したという話は聞いたことがない(もっとも、仮にそんなことをしたならば父が二度と我が家の敷居をまたがせはしなかったであろうが)。むしろこちらが驚くほどたくさんの土産を置いて帰り、そのなかには素人目にも高価なものが含まれていた。

 遠巻きに眺めていた叔母に気付いた伯父は帽子をひょいと持ち上げて簡単に挨拶をした後、私に会いに来たと告げたらしい。私はちょうどそのとき大学の友人に本を返しに行っていたため、叔母がその旨伝えるとそれではまた翌週訪れるので時間を空けておくよう言付けを頼んですぐに帰ってしまった。そしてこの日私は約束どおり再訪した伯父に連れられ新宿のマーケットを歩いていたのだ。

「伯父さんはよくここに来るんですか」バラック小屋が乱立し、人混みで視界が悪い通りを慣れた様子で歩いていく伯父に尋ねた。

「まあ、仕事の都合でな。東京で働き始めたんは戦争が終わる前で、そんときはジュクもただの焼野原やってんけど、戦争すぐに関東尾津組が、マーケット開くから売りものになるなら何でも引き取る言うたら、あっという間にこんな規模になったもんなあ。あんときは人間のたくましさを見せつけられた気ィしたわ」私は生粋の大阪人である伯父が気取って「ジュク」などという隠語を使っているのが少し可笑しかった。

「今はどんなお仕事をされてるんですか」

「まあ、ちょっと米兵にコネがあってな、アイツらの官給品をヤミに流しとんのや」

 予想だにしなかった伯父の返答に私は一瞬ぎょっとなった。伯父に会うたび同様の質問を浴びせては、はぐらかされ続けていた私にとって、仕事の内容もさることながら答えてくれたこと自体が驚きであった。

「何やねんその顔は。質問してきたのは自分の方やないか」伯父は苦笑いを浮かべた。

「いえ、すみません。何というか意外だったので。だって伯父さん、僕に仕事の話をしてくれたことないじゃないですか」

「まあ、他人に言えんようなことにもそこそこ手ェ出しとったからな。それに、自分に変なこと教えたら君江に何言われるか分からん」

「じゃあ何で今日は教えてくれたんですか。官給品の横流しなんて、それこそ他人に言えないことじゃないんですか」後半は少し押し殺した声で尋ねた。

 私の質問に伯父は一瞬困ったような表情をしたが、少し間を置いた後、口を開いた。

「段々とそういうやましいことを隠して生きていくのがアホらしなってきてな。周り見てみいや。こんなかにテキヤやヤクザもたしかにおるけど、売ってる方も買ってる方もほとんどはついこの間までいわゆる『善良な市民』やった人らや。それが今となっては、どんだけ警察がヤミは違法や言うたところで、配給だけで生きていくことなんてそもそも無理やからヤミに手ェ出す。挙句の果てに取り締まる側の警察ですらこっそりと買い出しに来る始末や。別にそのことをアカン言うてるわけやない。人は生きてくためには何やってするもんや。つまり俺が言いたいのは、こんなふうになった今の日本に善悪なんてもんは大した意味を持たんっちゅうことや。みんなその日を生きていくのに必死やし、そのためやったらヤクザまがいのことも平気でやる。善悪なんてキレイごとは、命の保証があって初めて言えることや。日本が敗けて、みんな必死でみじめな生活を抜け出そうとしとるなかで、自分が食ってくための手段を隠して何になんねん。ああ能啓君、ちょっと小腹が空かんか。そこで、うどんでも食おう」

 伯父は無数に建ち並んだバラック小屋のなかで、素っ気なく「うどん」とだけ書かれた張り紙のある店を指差した。二、三畳ほどの広さで木箱をそのままテーブルと椅子に代用した店内はすでに客が五名入っており、これ以上入る余地はなかった。伯父は、ねじり鉢巻きをした額に汗を浮かべて黙々とうどんをゆでている老人のもとへ歩み寄ると親しげに話しかけた。

「おっちゃん、今日もエライ繁盛しとんなあ」

「ああ吾平さん、ひさしぶりだねえ」

伯父に気付いたうどん屋の親父は、その皺だらけの顔を一層くしゃくしゃにほころばせてしきりに頭を下げた。

「うどんを二杯頼んます。今日は大事な甥っ子を連れてんねん」

 親父と眼が合ったので私は軽く会釈をした。

「申しわけないんだが、ご覧のとおり店内は満席だから外で食べてもらうしかないんだよ。構わないかい」親父はすまなそうに言った。

「構へん構へん。うどんは外で食うのが一番やさかい」伯父はそう言うと大きな口を開けて笑った。伯父は何でもこうやって笑い飛ばすところがあり、なかにはこの癖を不快に思う人もいたが、私はどちらかといえば好感が持てた。

「ええと――何ぼやったかな」

前金であったため、伯父が懐から財布を取り出そうとすると親父は慌ててそれを制止した。

「島田さんから金は受け取れねえよ。おまけに今日は外で食わせるんだから。これくらいでしかあんたに恩返しできないんだから、どうか何も言わずに食ってくれよ」

「まあ、それやったらお言葉に甘えさせてもらうわ。能啓君、そこで食おうか」

 親父からどんぶりを受け取ると伯父と私はバラック小屋のすぐ脇にある屋根も椅子もない立ち食い用の卓へと移動した。

「伯父さんはあの方の知り合いなんですか」

「まあ、以前色々手助けした縁でな。あのおっちゃんがあそこでうどんつくってんのも考えようによっちゃあ俺のおせっかいがあったからかもなあ――とまあ、偉そうなこと言ってるけど俺にできんのは金や物で解決できることだけやねんけどなあ」伯父は寂しそうに笑った。

「もしかしてタダにしてもらえると思ったからあの店に寄ったんですか」私は少し悪戯心が芽生えて尋ねた。

「能啓君、人聞きの悪いことを言うたらアカン。別に一杯数円のうどんの勘定なんてなんぼでも払うたる。でもそれ以上にあのおっちゃんの気持ちを無下にしとうなかっただけや。さっきの話の続きになるけど、国中がこんな地獄みたいな状況になって殺伐としてるなかで、人はやっぱり人情いうもんを残してんのもたしかや。他人に施させな成立しない人情もあんねん。ひょっとするただの自己満足かもしれんけど、この御時世ではそうでもせんと人としての尊厳を保つことは難しいんとちゃうか。ああ、すまん。また説教臭いことを言ってもうたな。はようどん食おう。のびてまうわ」

 私は軽率な発言を悔いながらさして味のしないうどんをすすった。ふちがところどころ欠けたどんぶりに浮かぶ具材は貧相なものであったが、それでも他の客よりは明らかに多く入れられていた。

「おっちゃん、おおきにな。また来るわ」

「ああ、また来ておくれ」

 空になったどんぶりを店に返した後、私たちは再び人混みに合流した。


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