第九章 正義の所在(3/3)
翌日、私はミス・ヤマモトに辞職を申し出た。彼女は私の言葉を静かに聞いていたものの、その灰色の瞳は動揺の色を隠し切れていなかった。
「理由を聞きましょう。もし待遇に不満があるというのなら私から上にかけあいます。そろそろあなたの昇格を推薦するつもりでしたし、あなたほど優秀な職員をみすみす辞めさせる手はありませんから」
「いえ、待遇の問題ではないんです。ただ、やはり自分にこの仕事は向いていないと思いまして。ずっと悩んでいたんですが色々と考えさせられることがありまして、辞める決心がつきました」
「色々なこと――それは再検閲のことですか」
私は再検閲という言葉を聞いてドキリとした。吉野の一件が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。ミス・ヤマモトは自身の軽率な発言を悔いるような表情を一瞬見せたが、そのまま話を続けた。
「あなたには話していませんでしたが、年の瀬にあなたが検閲した手紙のうち一通が再検閲に引っかかったのです。詳しい内容は明かせませんが、その手紙がとあるヤミグループを検挙する端緒となりました。私はあなたがこのことを誰かから聞いて心境の変化があったのかと思いましたが――どうやらその反応だと私の早とちりだったようですね」
ミス・ヤマモトは具体的な名前を出さなかったものの、吉野の手紙について言っているのはほぼ間違いがなかった。ただ、さすがに彼女も吉野と私の関係までは把握していない様子であった。そこで面倒事を避けるために私はあくまでしらを切り通すことにした。
「ええ、初耳です。ただ、それならばなぜ私の処遇が問題にならなかったのですか。本来なら減給の対象になってもおかしくはないはずですが」
「必ずしも再検閲に該当すれば減給というわけでもありませんから。この件も手紙の文面上、一目でヤミ取引に関するものとは分からないような工夫をしていたので、気付かなくても仕方なかったのです。それにあなたは優秀ですし、これまでの行動を鑑みればわざと見逃したとは考えにくいと判断しました」
「そうですか――そんなことがあったんですね」辞職することによって恩をあだで返す形となった私は何とも心苦しくなった。
「さてそうなると、あなたの言う『色々なこと』とは何でしょうか。他に考えられるとすれば――先日、あなたと同年代の方が辞職したことですか」
「それもあります。しかし、それだけではありません。私の個人的な事情もありますし――ただやはり最も大きな理由は、この仕事が向いていないということです。やはり検閲は生理的に受け付けません」
「向いていないことはありませんよ。以前言ったように我々はあなたの翻訳を高く評価しています。あなたはそういった技能的な観点からではなく、性格上向いていないと言い張るかもしれませんが、読み手である私から言わせれば、あなたは検閲という作業を(こんなことを言われて気分を害するかもしれませんが)楽しんでいる節があった。少なくともあなたの翻訳を読んでいて、間違いなく訳者がその作業を『やらされている』という感覚で行っているのではないというのは明らかでした。実際、そういうのはすぐ分かるものですよ、特に何千、何万という訳文を読まされていればなおさら。あなたの辞めたいという動機は、一種の後ろめたさからなのでしょう。向き、不向きで言えば、間違いなく向いていますから。あなたは認めたくないでしょうけれど」
「ひょっとするとそうなのかもしれません。そして、あなたのおっしゃるとおり後ろめたさもたしかにあります。ただ、これは倫理の問題なんです」
「と言いますと」
「どれだけ体裁の整った理屈を持ち出そうと、検閲は倫理的に決して許されるものではないのです」私は自身の発言を耳にしながら、これが結局光川からの借りものでしかないと感じ、どこか気恥ずかしくなった。
「検閲の妥当性についてこの場で議論するつもりはありません。ただ私としては、近視眼的な倫理観で自身の可能性を放棄するのは、とても惜しい――いえ、罪深いといっても過言ではありません。なぜなら、天から賜った才能をあなたは無駄にしようとしているのですから。そんな性急に答えを出さず一度ゆっくりと考え直してみませんか。あなたのためなら私は助力を惜しみませんよ」ミス・ヤマモトの瞳は、再び暗い情念の輝きを見せていた。
「だめです――だめなんです。多分私はいまだに倫理や正義というものを信じているんです」
「正義ですか。今の日本人の口からは久し振りに聞いた気がしますね。でも、あなたは本当にそんなもの信じているのですか。先の戦争で、多くの兵士が自国の正義を信じて(あるいは信じさせられて)命を落としましたが、結局そんなものどこにもなかったのではありませんか。そんな血なまぐさいものを宝物のようにいつまでも大事に持ち続けるなんてナンセンスです。それにもし仮にこの仕事を辞めたところで、あなたはきっと別の場所で正義に反した行動をとらざるを得なくなる。そんな理不尽な時代に生きているのですよ、私たちは」
「たしかにそうかもしれません。それでも――私は検閲を続けるわけにはいかないのです」
しばらくの間、私たちは無言で見つめ合っていた。やがてミス・ヤマモトは「寂しくなりますね」と消え入りそうな声で呟いた。私の翻意を促すにあたって彼女が並べ立てたどんな理屈よりもこの一言が最も堪えた。
「すみません。でも分かってください」
「そこまで言うのでしたらもう止めません。非常に不本意ではありますが。また違った形であなたの才能が発揮できる場所が見つかれば良いですね。一度見つけた悦びを忘れることは難しいですから」
「そういうものですか」
「そういうものです。虚しい退屈な日々を過ごすのは辛いものですよ、あなたが想像しているよりもずっと」
ミス・ヤマモトは寂しそうに笑うと右手を私の方へ差し出した。私もそれに応えるように右手を差し出し固い握手を交わしたが、華奢で柔らかな掌の肉厚を感じつつ、今さらながら彼女についてもっと知っておきたかったと後悔した。他者と比べて私が彼女について知っているのはせいぜい甘い嬌声と心地良い体温くらいであったのだ。しかし彼女自身の口から彼女のことを語らせ、私自身の口から私のことを語っていればこの関係は少し違ったものになっていたかもしれず、ひょっとすると互いの人生に分かちがたい強固な結びつきができていたのかもしれない。そんな馬鹿げた考えに襲われた。
ミス・ヤマモトに辞意を伝えた後、高橋家に戻ると正子叔母さんの姿が見えず、代わりに割烹着姿で忙しそうにしている倉持の奥さんを認めた。
「倉持さん、正子叔母さんは外に出ているんですか」
「ああ、早見さん、お帰りなさい。違うのよ、正子さんまた体調崩してしまって。すごく具合が悪そうだったから、本人は大丈夫だって言い張るんだけど、とにかく無理やり寝かしつけておいたわ。今ちょうどお粥をつくっているところだから、出来上がったら持って行ってちょうだい」
「また具合が悪く――分かりました。すみません色々と」予期せぬ事態に動揺した私はせいぜいこの程度の謝意しか表せなかった。叔母は年末に体調を崩してからしばらく床に伏していたが、それ以降は以前より休みがちであったものの終始元気な素振りを見せていた。私たちはその様子を見て胸をなでおろしていたが、叔母の性格を考えればそれは私たちを心配させないための演技であったのかもしれない。
「この前のこともあるし、ちょっと心配ね。一度きちんとお医者さまに診てもらった方が良いんじゃないかしら」倉持の奥さんは鍋の中でクツクツと音をたて始めた粥をゆっくりかき混ぜながら心配そうに呟いた。
「そうですね――僕もそう思います。叔母さんは嫌がるでしょうけど、念のために診てもらった方が安心ですから」私はどこか空虚な自分の声を聞きながら、出来上がった粥を倉持の奥さんが器に盛り付けるのを眺めていた。
「さあ早見さん、正子さんの所へ持って行ってちょうだい」
粥の乗った盆を手渡された私は叔母の寝室まで運んでいった。ふすまの内側からは物音ひとつ聞こえなかった。
「叔母さん起きてますか。入りますよ」
廊下からふすま越しに呼びかけると中から小さな返事があったため、私は静かに入っていった。寝室は真暗であったため、突然廊下から差し込んだ光に叔母は顔をしかめた。薄明かりのなかではっきりとは分からなかったが、その顔はいつもより青ざめて見えた。
「具合はどうですか」
「少し寝たらだいぶ良くなったわ。ごめんね、心配ばかりかけて。電気を点けてくれるかしら」
私は立ち上がり、言われたとおりに電気ひもを引いた。叔母はまぶしそうに掛布団を深くかぶると小さく「ありがとう」と呟いた。
「倉持さんがお粥をつくってくれました。もし大丈夫なようなら食べませんか」
「そうね、いただくわ。そこに置いといてちょうだい。ところでヨシ君、昨日の話は結局どうなったの――やっぱり辞めることにしたの」
昨晩私は叔母に辞職の決意を打ち明けていた。短期間で辞めることの気恥ずかしさもあってあまり言いたくはなかったが、私が職を失い経済的に困窮すればひいては叔母に迷惑がかかるのだから隠しておくのは不適当であった。そして何より、予め宣言することで決意が鈍るのを避けたかった。打ち明ける前はどういった反応があるか不安で仕方なかったが、叔母はたいして理由も聞かず私のやりたいようにすれば良いと優しく後押しをしてくれた。私は安堵すると同時に良心の呵責に苛まれた。なぜなら私は終始叔母に対して検閲の仕事を「翻訳」と偽り続けていたからであった。辞職を機に真実を語ろうかとも考えたが、結局何も言えずじまいであった。
「ええ――本当に勝手なのですが、辞めることにしました。今週いっぱいは働くことになっていますが、来週からは別の仕事を探します。本当にすみません」
「良いのよ。ヨシ君はまだ若いんだから、自分の好きなようになさい。それに今だから言うけれど、翻訳の仕事をするようになってからヨシ君何だか怖かったわ、何かに憑かれたようで。今は何だか晴々してる。お金の心配なんかしなくて良いのよ。若いうちからお金のことばかり考えてると、ろくなことになりませんよ」
弱々しく笑う叔母の顔を見ながら、やはり女の勘を侮ってはいけないと思った。そして同時に吾平伯父さんが、母親は子の人生に対して平凡な幸福しか望まないと語ったことを思い出した。未練がましいようだが、おそらく叔母にあのときたしかに存在した充実感や陶酔を説明したところで困惑されるのが眼に見えていた。彼女にしてみれば、私が憑かれたようで怖かったというそれだけで、その奥にある狂気、人間を超えた何かに至らしめる熱狂に理解を示すことはなかっただろう。しかし、そのことに対しては何ら不満はなかった。叔母にはずっとそのままでいてほしかった。そうであれば、私はもう少しの間まっとうな人生を歩めると思えるからであった。




