第九章 正義の所在(2/3)
午後五時に仕事を終え検閲局を出た久賀と私が約束していた喫茶店に到着すると、そこには以前と比べてどこかすがすがしい表情をした光川が表通りに面した席でコーヒーをすすっていた。彼は私たちに気付くと手招きをした。
「よう、久しぶりだな。案外元気そうじゃないか。心配して損したよ」久賀は冗談めかしてそう言いながらテーブルを挟んで光川の正面に座った。私は久賀の右隣に座った。
「それにしても悪かったな、わざわざ呼び出したりして。この界隈には当分近寄りたくなかっただろうに」そう言うと久賀はにやりと笑った。
「まあそのとおりなんだが、未払い分の給料を取りに来る用事もあったからな。あと、急に辞めたせいで世話になった人にろくな挨拶もできてなかったが、ついでにそっちも済ますことができた。良い機会だったよ」
光川は以前よりもよく笑うように思われた。それはどこか憑きものでもとれたかのようで、私にはまぶしく映った。
「光川、驚いたよ。急に辞めるもんだから。たしかに以前からこの仕事は向いていないとは言っていたが、それにしてもあまりにも唐突だろう。一体何があったんだ」私は最も尋ねたかった質問をすぐにぶつけた。
「いや、別にたいしたことでもないさ。ただ、例のテーブル・マスターにいつものようにねちねちと翻訳のケチをつけられて、つい頭に来て言い返したら、もうお前みたいなヤツ7は必要ない、クビだって言われたもんだから、俺も良い機会だ辞めてやるって啖呵を切っちまったんだよ。後はとんとん拍子に事が進んで、晴れて退職さ」
「本当にそれだけで辞めたのか」
私は彼の至極単純な、いや幼稚とすら言える動機に拍子抜けした。もっとその行動の根底には明確な動機や思想的な裏付けがあるはずだと期待していたのだが見事にそれは裏切られた。
「テーブル・マスターなんて無教養な馬鹿しかいないんだから、イエッサー、イエッサーと言って相手にしなければ良いのに。どうせお前のことだから、次の働き口も見つけずに辞めたんだろう」久賀が呆れたように言った。
「ああ。今は小さな仕事をいくつか掛け持ちでこなしてどうにかやってるよ。たしかに稼ぎが以前とは比較にならないうえ過酷な仕事が多い。でも、俺は自分の行動が間違ってなかったと確信している。こうやって会社(我々は外部で「検閲局」という言葉は使用しなかった)から離れてみて良く分かったよ。俺はテーブル・マスターと口論になって辞めたが、それは所詮きっかけに過ぎなかったと今は思う。やっぱり心のどこかで辞めなくちゃならんという自覚はあったんだろう。あんな仕事は絶対に日本人としてやっちゃいけないんだ――こんなこと、いまもあそこに残っているお前らに言うべきではないのかもしれないが。だってそうだろう、いくら生活のためだと取り繕ったところで、結局は裏切り以外の何物でもないんだ。ついこの間まで、国のためだと言って数えきれない人間が死んでいったのに、死に場所を見つけられず生き残った俺たちがこんなことをして許されるわけがないんだ」
「一体誰の許しが必要だというんだ。俺たちは生きるために生きてるんだ。死ぬために生きてるわけじゃない。そんな当たり前のことすら許されなかった時代が狂ってたんだ。俺の周りでもたくさんの人間が死んだし、そいつらを侮辱するつもりはない――ただ、そういう時代だったから仕方がなかったんだ。だが、今は違う。この国は大きく変わろうとしているし、どいつもこいつも我先にと宗旨替えを始めている。お前みたいにいつまでも過去の因縁にとらわれているヤツは損ばかりする。現につい先日それを証明したところじゃないか」
「久賀、いくら時代が変わったところで、やはり普遍的なものはあるよ。お前は信じないかもしれないが」
「あまり真剣に議論する気にもなれないね。もしあるとすれば――そうだな、死への恐怖ぐらいじゃないか。まあ、それをどうにか乗り越えようとしてきた徒労の集積こそが人類の歴史なのかもしれないが」
「たしかにそれも普遍的なもののひとつだろう。だがそれだけじゃないはずだ。俺は倫理を信じるよ。どれだけ裏切られようと嘲笑されようとやはり倫理は存在するし、人はそれに従って生きるべきなんだ」
「信じているというより、それはお前の願望だろう。そうあってほしいと願っているだけだ。お前は現実を見ちゃいないよ」久賀は首を振りながら言った。
二人の間に気まずい沈黙が続いた。おそらく久賀の意見の方が当時の世相をより端的に表していたのかもしれない。だが、それでも私は光川の主張を支持したかった。ずっと二人の会話に耳を傾けていたがとうとう私は我慢しきれなくなった。
「俺は光川の方が正しいと思う。ただ漫然と欲望に従って生きるだけなら動物と変わらないじゃないか。倫理や思想も持たずに生きて、そんなの本当に生きているって呼べるのか」
私の発言を聞いて久賀と光川は少し驚いた様子を見せて、互いに顔を見合わせた。そして久賀の方が苦笑しながら次のように言った。
「早見、お前はいつもこの仕事を否定するが、何というか光川ほどの説得力がない。俺にはそれがお前の心からの発言とは思えないんだ。お前は、自分の言葉や思想で己を語らない――いつも他人から借りてきたもので取り繕うとする。そして主体性や意志にも欠けている。自分の中にある醜い部分から眼を逸らすくせにキレイ事ばかり並べたてる。この際はっきり言わせてもらうが、お前は俺以上にこの仕事に向いているんじゃないかとさえ思えるんだ。どれだけ否定しようとお前はこの仕事に生きがいを見つけているし、現にお前はこの仕事を否定しつつ、光川とは違っていまだに残り続けている。何の説得力もないよ」
「そんなことはない」私は語気を荒げ、椅子から立ち上がらんばかりになったが、周囲の客の視線を感じ、どうにか昂った感情をなだめた。
「分かった――分かったよ。ずっと悩んでいたことだったが、今日やっと決心がついたよ。俺は辞める。もう後ろめたい思いをしながら生きていくのは嫌だ。そして久賀の言うとおり、辞めないで今の仕事にぶら下がり続けているヤツが何を言ったってまったく説得力がないからな」
「おいおい早まるなよ。俺がこんなこと言うのもなんだが――あまり一時的な感情に任せない方が良いんじゃないか。お前は同居している叔母さんに負担をかけたくないって言っていたじゃないか。あの仕事は、待遇は悪くないんだから」
慌てた光川が必死になだめようとしてきたが、私の決心はもう揺るがなかった。
「それは何とかするさ。探せば何かしらの仕事はある」
「まあ、お前が本心からそう望んでいるなら止めはしないが――後悔しないようにな」
「後悔――なぜ俺が後悔するんだ」
「いや、何でもない」光川は一瞬考え込むような素振りを見せたが、それをごまかすようにコーヒーカップに口をつけた。
「早見、お前は一番幸せになれない人種だよ」久賀が吐き捨てるように言った。
本音を言えば私自身どうすれば良かったのかは分からなかった。しかし、ああまで言われてこのまま検閲局で働き続ける気にはどうしてもなれず、辞職のきっかけを待ち望んでいた私にとってこれは降ってわいた幸運にも思われた。加えて、検閲に呑み込まれそうになる自分に恐怖を感じていたということもあった。吾平伯父さんの言うところの「死の舞踏」は、私にはあまりにも荷が重すぎた。それが舞踏者をそのまま死へ誘うものだとすれば、私にはそれを運命のように甘受し身をまかせることはできなかった。そのような蛮勇あるいは諦観を持ち合わせていなかったのだ。だからこそ、どのような手段を使ってでも己の運命を捻じ曲げる必要があったのだ。だがそれは、結局のところ私の臆病さのあらわれでしかなかったのかもしれない。私は所詮自身に課せられた試練に恐れをなし逃げ出した卑怯者に過ぎず、神話に登場するような英雄についぞなれはしなかったのだ。




