第九章 正義の所在(1/3)
吾平伯父さんには検閲を辞めることについて考えてみるとは答えたものの、二月に入っても私はずるずると検閲官を続けていた。人間は怠惰な動物であるから何かしらの選択を迫られた際に逡巡してしまうと結局現状維持に走ることが多い。何もしないという選択が最も容易なのだ。ただ、このままではいけないと十分すぎるほど理解していたため、辞職の決断を後押ししてくれるきっかけを心のどこかで期待している節があった。我ながら実に他力本願で都合の良い願望であると思ったが、検閲局で働くことに充実感を覚えているなか、意志の弱い私が自力でこの泥沼から脱け出せるとは到底考えられなかった。通常このように浅はかな望みは、現実を前にして無残に砕け散るだけだが、このときばかりは違っていた。私の前に一本の蜘蛛の糸が垂らされたのだ。
大学の講義が終わり、いつものように検閲局へ向かうと、局内の空気が普段と違うことに気付いた。局で働く日本人の検閲官が好奇心に満ちた表情でひそひそと囁き合っている。ときおり漏れてくる「辞めた」という単語を耳にしてようやく合点がいった。また誰かがこの検閲局を辞めたのだろう。入局する際にも聞いていたが、実際働き始めると周囲で辞めていく人間は多く、気が付けば私が入る前からいた職員よりもその後から入った職員の方が多いような気すらした。仕事内容が生理的に受け付けなかったり、白人将校ともめたり、他にもっとまともな仕事を見つけたりというのが代表的な退職理由であった。ただ、こういった好奇の眼が散見されるのは大抵、局内でもめ事を起こして辞めさせられるときであった。私はこの手のゴシップじみた話を好まなかったため、少し不快に思いながら控え室に上着と鞄を置き作業部屋へと向かったが、その途中で長内氏と鉢合わせた。
「ああ早見君、今出勤か。もう少し早く来れば良いものが見られたのにな」長内氏は例の皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「誰か辞めたんですか。さっきから皆噂しているようですが」
「ああ。個人班の若いのがテーブル・マスターと一悶着おこしたんだ。今日付けでクビだとさ」
「誰なんですか」
「ええと――光川っていったかな。俺は面識がないんだが、テーブル・マスターとよくもめ事を起こすって有名らしく、今日までクビにならなかったのが奇蹟だって言う人もいたな。何だ、君の知り合いだったのか」長内氏は、光川の名を聞いて私の顔色が変わったことを見逃さなかった。
「ええ、何度か話をしたことがあります――彼は今どこに」
「さあ、もう帰ったんじゃないかな。相当頭に来てたみたいだから、ここに長くとどまりはしないだろう」
「そうですか――ありがとうございます」
その場で長内氏と別れ自分の持ち場に着いた私はしばらくの間仕事が手につかなかった。たしかに光川は検閲を嫌悪していた。しかし、私と同じように嫌だ嫌だと言いながらもこの仕事を続けていくのだと思っていた。彼もまた検閲という魔物に呑み込まれ罪を重ねていく、いわば同類であると勝手に思い込んでいたのだ。しかしどうやらそれは私の勘違いであったらしく、ひとり取り残されたような気分になった私は言いようのない喪失感と焦燥感に苛まれた。
とはいえ、いつまでも仕事をしないわけにもいかず、どうにか気持ちを切り替えて検閲を始めた。身内の安否、金銭、食糧、男女関係――手紙の内容は特にいつもと変わり映えせず、その単調さがいつも以上に検閲に対して嫌悪感を抱かせた。それでも私は乱暴に手紙を開封しては読み進め、検閲要項に該当するものを順次翻訳していった。そして次第に自分の中で鬱積した感情が消えていくかのように心は落ち着き、頭脳は冷静さを取り戻していった。それは以前ミス・ヤマモトが語った情緒的な手紙が無機質な翻訳に変換されていく過程で生み出される副作用かもしれなかった。出来上がった訳文を読み返してみると、この日のそれは自分でもぞっとするくらい無機質なものであった。それはもはや手紙から文芸的な要素を排除し、読み手に必要な情報のみを選り抜き構成し直した限りなく記号に近いものであった。私はそこに自覚のない悪意すら感じた。手紙に対して何か許せないことでもあるかのように、どこまでも徹底的かつ偏執的に無機質なものをつくりあげようとしている。私はずっとそれを見つめているうちに気分が悪くなり、ちょうど休憩時間になったので急いで便所へ駆け込んだ。
だいぶ気分が落ち着いてきたので休憩室に入ると、ひとりで煙草をふかしている久賀を認めた。彼もこちらに気付きひょいと左手を挙げた。
「おい具合でも悪いのか。酷い顔してるぜ」久賀が心配そうに私の顔をのぞきこんできた。
「もうだいぶ良くなったから大丈夫だ。それよりも久賀、光川のこと聞いたか」
「ああ、俺はちょうど口論しているところを遠巻きで眺めていたよ。いつかはこうなると思っていたが、本当にやるとはな。馬鹿なヤツだよ。いや、ある意味賢明なのかもしれないな、最後に言いたいことを言って後腐れなく辞めるっていうのは。アイツはどのみち検閲なんて向いてなかったんだ、辞めて正解だよ。それにどうせ俺たちも遅かれ早かれアイツの後を追うんだ。『残る桜も散る桜』とはよく言ったもんだな」
「『後を追う』ってどういう意味だよ」
「おいおい、何を言ってるんだ。お前はこんな仕事いつまでも続けるつもりなのかよ。検閲制度なんてどうせあと数年もすれば廃止される。そもそも新憲法では検閲を禁じているのに、御丁寧に検閲印まで押してそれを続けていること自体が驚きだろう。いや、むしろこっそりやるよりかは、露骨にした方が後で批判が少ないって考えてるのかもしれないけどな。いずれにせよ、この仕事はそう長続きはしないだろうから、もらえるだけ金と食糧をもらって、さっさと次の仕事を見つけて辞めるのが賢明だよ。おい早見、何だよその顔は。ひょっとしてお前、あれだけ嫌だ嫌だって言っておきながら、この仕事に惚れこんじまったんじゃないだろうな」
「冗談じゃない。そんなわけがないだろう。ただ、てっきり俺はお前がこの仕事に愛着やこだわりみたいなものを持ってるもんだと思っていたから――」私は慌てて久賀の言葉を否定したが、それは自分の耳にもどこか芝居がかって聞こえ、かえって自分の頬が紅潮するのを感じた。
「こんな仕事に愛着なんて湧くわけがないだろう。ただ、ちょっと面白い、それだけだ。ある程度経験を積めばそれで十分だし、あまり長く続けていると飽きちまう」
私は久賀という男は本当に世渡り上手で、どれだけ混乱した時代でもきっと何とか生きていけるのだろうなと思った。
「ところで久賀、光川のことなんだが――お前、アイツと連絡とれるか」
「まあ同じ大学だからとれないことはないが――でも、どうしてだ」
「いや、せっかく知り合ったのに何の挨拶もしないでこのまま別れるのも良くないだろうし――」
自分でも歯切れの悪い答弁だと感じながら久賀の質問に応じていた。そして、私の口から飛び出た言葉は、嘘とまでは言わないものの本心ではなかった。私は光川にどうして辞めたのか、その理由を彼自身の口から聞きたかったのだ。テーブル・マスターと口論になったことは単にきっかけに過ぎず、その根底にはもっと確固たる理由があるのと期待していた。つまるところ、私は自分が検閲局を辞めるだけの積極的な理由を彼の中に求めようとしていたのだ。自分が未練がましく決断できないから他人にその理由を求めるなど、我ながらどうしようもなく浅はかだと思われた。だが、私はあまりにも意志が弱すぎた。頭では検閲からもう足を洗うべきだと分かっていながら、心の内でそこに楽しみや慰安を見出している。それはいくら否定しようとしても、私の中で自己主張を続けていた。そしてそれは、とても私の脆弱な意志の力ではどうしようもないものであった。だから私は愚かしくも他人が持つ思想を無理やりにでも自分のものとしようとしていた。それが私を幸せにするか不幸にするかも考えずに、ただ目先の苦しみから逃れるために安直な方法にすがろうとしていたのである。
さいわい久賀は連絡をとってみると応じてくれた。そして二月の某日に久賀と私と三人で丸の内にある喫茶店で待ち合わせることとなった。




