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鬼火  作者:
第一章 焦土
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第一章 焦土(2/2)

 私はもともと大阪で生まれ育った。父の早見秀男は生粋の東京人で都内に本店を置く貿易会社に勤めていたが、本店から大阪の支店に派遣されたときに母を見初めて結婚した。当初父は母をつれて東京に戻るつもりであったようだが、地主であった母の父親、つまり私の祖父にあたる島田吉兵衛が母を眼の届かないところに連れて行かれるのに猛反対したため、結局父の方が折れてしまった。父の当時の上役と祖父がたまたま懇意にしていたこともあって、父は結婚後東京の本社に呼び戻されることもなく、大阪に根を張ることとなった。しかし父にしてみればそれは出世の道を閉ざされたも同然であり、典型的な仕事人間であったものだからそれがきっかけでどこか自暴自棄になってしまったらしい。父は決して冷徹な人間ではなかったが、我が子のことには基本的に無関心であった。ただ唯一の例外として学業にだけは厳しかった。自身が東京の私立大学を卒業していたこともあって、子供の成績が悪いとどうしても許せないらしく、試験結果が芳しくなかったときなどは普段無口でおとなしいのが豹変してよく竹刀で折檻した。

 母の君江は良家の娘らしく基本的には優しく教養のある女性であったが、男児ばかりの島田家でただひとりの娘であったことから祖父に溺愛されて育てられたこともあって、自分勝手で癇癪持ちなところがあり、機嫌が悪いときにはヒステリーを起こすこともあった。

 別に私に限ったことではないだろうが、成長するにしたがって親と距離をとりたいと考え始めた。そこで私は東京の大学へ進学したいと両親に申し出た。私には年の離れた兄がいたから家督については問題がなかった。母親はあまり良い顔をしなかったが、父は私の上京に賛成してくれた。帝國大学に入れるほどの学力に届いていなかったため、私立大学を受験しどうにかK大学の入学試験に合格した私の住まいとしてあてがわれたのが、三鷹に住む叔母夫婦の家でありそこで間借りさせてもらうこととなった。

 正子叔母さんは製薬会社に勤める夫の高橋曽二郎、息子の満君と三人で暮らしていた。私が東京の大学へ進学する意思を示していた段階で、父は曽二郎さんに間借りの件を打診していたらしい。曽二郎さんはお人好しと言われても仕方ないくらいに親切であったから二つ返事で引き受けてくれたようなのだが、独ソ戦が始まった昭和十六年頃に脳溢血で急逝してしまった。私が入学したのが昭和十七年のことであったから、面と向かって礼を言おうとしたときには曽二郎さんはすでに泉下へ旅立ってしまった後であった。その際久しぶりに再会した正子叔母さんは明るく振る舞っていたものの、ひどくやつれて見えた。

 大黒柱がいなくなった高橋家には一人息子の満君がいた、彼は私と同い年でありながら私などよりはるかにしっかりとした青年であったので、学業のかたわら家の用事を手伝って母親を助けていた。しかしながら「十八臨徴」で心身ともに健康であった満君は兵隊にとられ、十二月には出征することとなった。今でも赤紙が届いた日のことが脳裏に焼き付いている。当時まだ勤労動員されていなかった私が大学から戻ったとき、すでに日が暮れかかっているにもかかわらず家内は真暗であった。まだ空襲が本格化していなかった時期とはいえ灯火管制は一応しかれており、各家庭にはすでに電灯カバーなどが取りつけられていたがそれにしてもまったく明かりをつけないのも不自然であった。私がそっと茶の間をのぞくと中では正子叔母さんがひとりすすり泣いていた。私はすべてを悟りその場を立ち去った。

あのとき叔母の心境はどういったものであっただろうか。夫を失い、一人息子は兵隊にとられる一方で、自分の家でタダ飯を喰らっている甥はのうのうと生きている。この世は理不尽であり戦争はその性質が最も先鋭化する場面であるが、このときほど彼女がそれを痛感した瞬間はなかっただろうと思う。

 一方で、当の満君は召集を驚くほど冷静に受け止めていた。決して過激な思想を持たず怜悧な頭脳を備えた彼は、戦局が不利であることも薄々感じており、日本の敗北も時間の問題であると口には出さないものの予見していたようであった。そして、そのようなときに出征するということが何を意味するのか彼が分からないはずもなかったが、それでも当然の責務を果たすかのように旅立つ準備を始めていた。

 叔母は強い女性であったから、数日間は気落ちしていたもののじきに立ち直り息子を見送る準備に取りかかった。日中戦争が始まったころは派手な壮行会が催されたりしたものだが、独ソ間の開戦にともなって「関東軍特殊演習(関特演)」の名を借り満州に大動員を行った際に、政府はそこかしこで壮行会やや千人針などを行っていれば動員が明らかになるという理由でこういった行為の自粛を国民に呼びかけていた。もっともこのころすでに物資は不足しており、派手な壮行会を行えるだけの余裕がある家庭などほんの一握りでしかなかった。ただそんななかで根強く残っていたのが千人針であった。政府から自粛の呼びかけがあってからというもの、路上で大っぴらに縫い目を求めることができなくなったもののひそかに続けられていた。

 叔母も知人づてで縫目をつくってもらうことにした。千人針にはちょっとした規則があり通常は女性ひとりにつきひとつの縫目と決まっていたが、寅年生まれは例外的にその年齢の数だけ結び目をつくることが許されていた。もともと千人針の由来が「虎は千里往って千里還える」という故事であったことからこういった特例ができたらしい。さらに寅年生まれのなかでも五黄の寅の女はさらに特別で、年齢の倍だけ縫目をつくることができた。近所に住んでいた明治十一年生まれの五百重婆さんというのがちょうどそれに該当したが、昭和十八年当時六十五歳だった彼女ならば百三十の結び目をつくれる計算になる。一人や二人なら彼女も我慢できたのであろうが、当時若い健康な男子は根こそぎ動員されたため必然的に千人針を求めてくる家庭も膨大な数に上った。そこで彼女は自身の干支をひた隠しにするようになった。さいわい正子叔母さんは彼女と親交があったため、こっそり百三十個の縫目に貢献してもらうことができた。

 白状すれば、叔母が満君のために千人針を求めたり家庭内でささやかな壮行会を催そうと少しでも良い酒や食材を調達しようとしたりするのを横目に、私は居心地の悪さを感じて高橋家から出て行くことばかりを考えていた。夫を失い一人息子を兵隊にとられた叔母と二人きりで暮らすことなど、私には耐えられそうになかったからだ。しかしある日満君から彼の部屋に呼ばれた私は、次のような願いごとをされた。

「どうか母さんの面倒を見てやってくれないか」彼の表情はいつになく真剣であった。返答に窮した私はこの際彼に本心を打ち明けることにした。

「ちょっとそれは僕にとって荷が重すぎる。君にだから打ち明けるが、僕はここを出て行って別のところに住もうと考えているんだ。間借りを許してくださった君のお父上や僕の分まで食事の世話や洗濯をしてくれる正子叔母さんには本当に感謝しているが、君が召集されて、僕だけがすました顔でこの家に残るなんて、とてもじゃないけどできやしないよ」

「じゃあ、君は母さんをひとりにしておくつもりなのか。いつ本土が襲われるかも分からないのに」私の言い訳がましい弁明に満君は声を荒げた。普段おとなしい彼がここまで興奮するのを見るのは初めてであった。私はただ黙ってうつむくしかなかった。

「君がこの家を出て行きたいっていうのは、結局のところ自己保身だ。自分がいたたまれないから逃げ出したいだけなんだろう。そんなのは卑怯だ。残された君は、残された者としての責務を果たせ」激昂していた彼はやがて涙で声を詰まらせた。私はそんな彼にかける言葉を見つけることができなかった。また彼に卑怯者だと看破されたことも内心かなり堪えていた。大阪の実家を出て行ったときもそうであったが、結局私は逃げ出すことしかできない卑怯者だという自覚はあったからだ。

「僕は母さんが心配でならない。父さんも僕もいないなかで彼女は一体誰を頼りにすれば良いんだ」

「こっちには早見の実家があるじゃないか。僕なんかよりずっと頼りになる」

「それはそうだが、こんな御時世で皆余裕がなくなっている。自分のことでいっぱいいっぱいだろう。それに二人とも近頃は大分呆けてきたから、どれだけあてにできるかも分からない。だから君にはぜひともこの家に残ってもらいたいんだ。そしてどうか母さんを守ってやってほしい」

 満君の話には、彼が復員するという点についてはまったく言及されていなかった。そういった意味でやはり彼は現実主義者であった。出陣の決まった学生はいつ復員できるかなどまったく目途が立たなかったうえ、そもそも生還できる保証もなかった。私は腹を括った。

「君にそこまで頼まれたなら、僕も無下に断ることはできない。でも、君のお母さんの方は不快に思わないだろうか」

「その点は心配いらない。君にこの話を持ち掛ける前に一応母さんの方にも探りを入れてみたんだが、別に君が住み続けることについて何の異存もないようだ。というより、むしろひとりになる方が耐えられないと言っていたから大丈夫さ。これは僕の個人的な見解だが、君は君が思っている以上に人好きのする性格だぜ。母さんだって君を気に入ってる」

 照れくさくなった私は何も答えず頭を掻いていた。実際、私も正子叔母さんを少なからず好いていた。父よりも九つ下の彼女は父とは違って繊細な精神の持ち主でありとても優しかった。白状すれば、私は少なからず彼女のなかに理想の母親像を見出していたのだと思う。

「分かった。僕はここに残るよ。ささやかながら、僕は自分にできることをさせてもらう」

 私の言葉を聞いて安堵した満君はいつものはにかんだような笑顔を見せた。そして十二月になると彼は他の出陣学徒と同じく部隊に配属された後、翌年五月に前橋陸軍予備士官学校にて教育を受け、九月にフィリピンのルソン島へと配属された。そして終戦の前月、木箱を抱えた元同僚という男によって彼が帰らぬ人となったことを我々は知った。木箱の中には氏名を記した紙切れ一枚が入っているだけであった。


 自室へと戻り窓を開けると夕暮れ時の風が心地良かった。戦争が終わってもまだ灯火管制は解除されていなかったため、大っぴらに電灯をつけている家庭はまだほとんどなかった。下町や山の手、品川から蒲田に至る京浜東北線沿いなどは度重なる空襲により文字どおり焦土と化していたが、ここ三鷹は比較的被害も少なく建物も無傷なものが多かった。高橋家も特別被害はなかったため空襲で焼け出されて露頭に迷う一家が大量に発生していた当時では幸運な部類に属していたと言えるだろう。いずれにせよ空襲警報に飛び起きる必要のない夜というのはひどく懐かしいように思われた。だがその安堵もすぐに不安へと転じた。日本は敗れたのだ。そして日本は占領されるだろう。この国はなくなってしまうのか、我々はどうなるのか。不毛な問いかけがぐるぐると頭の中を回った。そして不意に日中の工場で徹底抗戦を訴えた男の声が頭の中でこだました。

「いや、だめだな」

 私にはそんな気概がなかった。灼けつくような憤怒や憎悪、そういったものは私のなかで成層のように静かに堆積していたもののそれらが行動という形で発露することはありそうもなかった。私はごろりと畳の上に横になって眼を閉じた。私と同年代の青年は戦争に身を投じ、がむしゃらにその魂を散らしていった。対照的に私は鬱屈した思いを抱えたまま何もできずにいる。私は遠い異国の地で眠っている友人を想いながら、そのまま眠りについた。


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