第八章 断罪(2/2)
私は伯父に洗いざらい話した。吉野はすでに逮捕され、今さらという気もしないではなかったが、私は暗闇を照らす光を欲していた。検閲局で働いていること、その事実を叔母には秘密にしていること、吉野の手紙を検閲し彼が危険なヤミ取引に関与しているかもしれないと考えたこと、彼と直接会い「特攻くずれ」であると知ったこと、その後に彼が逮捕されたこと。私は詰まりものがとれたかのように一気にまくしたてた。ひょっとすると懺悔することにより自責の念を少しでも和らげたかっただけなのかもしれなかった。
伯父ははじめこそ驚いた顔をしていたが、終始腕を組んだまま無言で私の話を聞いていた。そして私が話し終わっても、しばらくは考え込むように眼をつぶりぴくりとも動かなかった。私の方もどのような言葉を返されても良いように身構えていると、突然伯父は眼を見開きゆっくりと話し始めた。
「まず能啓君にひとつ聞きたいんやけど、ええか。君がその検閲局とやらで働くようになったんは、俺が以前君に話したことの影響か。もしそうやったとしたら――」
身構えていた私は、意外な言葉が飛び出して慌ててしまった。伯父にしてみれば、以前新宿で進駐軍相手に英語の仕事でもしたらどうかと私に気安く勧めたことが悔やまれたのだろう。
「違います。そのこととは関係ありませんよ。僕はもともと何かしらの方法でお金を稼ぐ必要がありましたし、この仕事も僕の大学の教授が紹介してくれたんです。伯父さんのせいじゃありませんよ」
「いや、ホンマ君には無責任なこと言うたと思うとる。俺があんとき君に仕事のひとつでも紹介しとれば、君にこんな苦労させんでもすんだんかもしれんなあ。それにもう少し早うここに来とれば、吉野君のことについて少しは力になれたかもしれんし」
「そんな――伯父さんには一切責任はありません。検閲官の仕事は僕が選んだものですし、吉野の件だって仮に伯父さんからの助言があったところでやっぱり逮捕は避けられなかったでしょう」
伯父は無言のまましばしうつむいていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「なあ能啓君、君は検閲の仕事をまだ続けるんか。吉野君のこともあったことやし、いくら金のためやといっても、やっぱりやってええこととアカンことがあるで」
「そうですね――僕も以前からずっと考えてはいるんですが、決心がつかないでいます」
「何か辞められへん理由でもあるんか」
「辞められないというわけではありませんが――そうですね、こんなことを自分で言うのもおこがましいですが、向こうは私の翻訳を評価してくれています。おかげで給料もだいぶ上がりましたし、定期的に配給があったりと待遇は悪くないんです。日本人の同僚は親切に色々教えてくれます。嫌で嫌で仕方なかった時期もあったのですが、どこかで慣れてしまっているんでしょう」
「ただ、この際はっきり言うとくけど――やっぱり同胞の手紙を盗み見る読むようなことはすべきやないで。君は慣れた言うけど、そんなんに絶対慣れたらアカン。そんなのは良心が麻痺しとるだけやで」
「それは――そうかもしれません。でもいくら不潔な仕事と頭では理解していても、やはり自分の能力が評価されるとつい浮かれてしまうんです。僕は昔からあまり取り柄がなくて他人から認められたこともありませんから」
「以前新宿で会うたときに話したかなあ、人にはどうしても逆らえへん運命みたいなもんがあるって」
「おっしゃってましたね。本人の意思とは無関係に破滅へと向かうこともある――〈死の舞踏〉だと」
「君も逮捕された吉野君もまさにそういう状態にあるんかもしれん。ただ、吉野君は特攻のために一度その命を捨てる覚悟をしたのに偶然生き延びて、いまさらどう生きたらええのか分からず自暴自棄になったんかもしれん。それはもはや俺なんかにはうかがいしれん境地や。でも能啓君、自分は違うやろ。自分は比較的恵まれた環境で教養も身につけた将来有望な青年や。そして、こんなことを言うたら失礼かもしれんけど、俺の眼から見て自分はごくごく普通の青年でもある。まだいくらでも引き返すことができるやろ。いくら自分の能力が評価されたからといって、それに踊らされて善悪を見失ったらアカン。ひょっとすると君は検閲するにあたって何かしらの才能を発揮したんかもしれん。でも、才能の赴くままに生きることが必ずしも君を幸せにするとは限らへん。反対に才能に殺されたヤツやって俺は知っとる。もう少しまっとうな生き方をすべきや。どうや、辞める気はあらへんか」
たしかに伯父の言うとおり私は「普通の青年」であったし、それどころか凡庸とすら思っていた。戦場へ赴き死線をくぐったことも人を殺したこともない。泥水の中を行進したことも餓死しそうになったことも熱病にうなされたこともない。吉野のように狂気の淵をのぞきこんだこともない。私にはあの戦争に身を投じて全身全霊を捧げた者たちと肩を並べる資格などなく、彼らのように〈余生〉を自暴自棄に生きる権利もなかった。私はまっとうに新日本の将来を担わなければならない。それが生き残った者の責務だ。しかしそう思う一方で、胸の内には静かに疼くものがあった。それは鬼火――焦土に独りぽつんと浮かぶ情念の炎であった。人間は誰しも狂気や獣性を内に秘めている。大抵の人間はそれを露見させることなく一生を終えるが、何かをきっかけにそれが芽吹いたとき、もはや誰にもそれを止めることはできない。そしてそれに気付いたころにはすでに我々は〈死の舞踏〉を踊っているのだ。
伯父はいつまでも辛抱強く私の返事を待っていた。高圧的な父とは対照的に、伯父はどのようなときも強要や命令をしなかった。それまで私は伯父のそういったところを好んでいたが、実のところそれは臆病さの裏返しであり、人の内面に踏み込むことのできない彼の限界を示していることに気付いた。伯父が心の底から他人を好きになったことがないという母の言葉がどこからか聞こえたような気がした。私は心のどこかで無理やりにでも止めてくれることを期待していたのかもしれない。それは結局、彼に理想の父親像を押し付けるという至極身勝手な行為に他ならなかったが、私はただひたすら暗闇を照らす光明を探し求めていた。しかし伯父は無言で私の返答を待つだけであった。私は眼前に座る彼が心なしか縮んで見えた。
「分かりました、検閲の件はちょっと考えてみます。本音を言えば、今は何が正しくて何が間違っているのかもよく分からなくなってきているような気がするので、冷静な判断ができる自信がないんです。ただ、段々としがらみができて辞めにくくなってきているのもたしかです」
「好きな女でもできたんか」伯父はちょっと冗談めかして尋ねた。脳裏に一瞬、灰色の瞳と白い乳房が浮かんだが、すぐにそれをくだらないことだと頭から振り払った。
「女学生なんかも多く働いていますが、みんなどこか遠慮してお互い深く関わろうとはしませんよ」私はどこか投げやりに答えた
「そうか――恋愛は若いうちにぎょうさんしとくもんやで。さて、もう結構な時間になったことやし、俺はおいとまさせてもらうわ」
「もう遅いですし泊っていかれたらどうですか」
「いや、気持ちはありがたいけどやめとくわ。高橋さんに迷惑かけとうない。明るくふるまってはったけど、あんま体調良うないんとちゃうか」
伯父の指摘に私はうなずくほかなかった。
「あんまり無茶させたらいかんで。といっても無茶せな生きていかれへん世の中になってもうたけどな。ほな、達者でな。またなんかあったらいくらでも相談乗るで」
その後、叔母と一緒になって泊っていくよう何度も説得を試みたが、伯父は固辞し続け帰ってしまった。再び自室へ戻った私は窓を開けて煙草の残り香を逃がすと、そのままミス・ヤマモトからもらったウイスキーをちびちびと飲みながら人家の明かりを眺めていた。




