第七章 死の舞踏(2/2)
伯父からの連絡を待ちながら、私は相変わらず学業のかたわら検閲官を続けていた。吉野の件があったというのに不思議と辞めようというという気にはならなかった。検閲に対していまだに罪悪感や嫌悪感を拭いきれなかったものの、久賀の言うとおり人間は慣れる動物らしく以前ほどには抵抗を感じることもなく、なかば当然のように摘発と翻訳を繰り返すようになっていった。あらゆる職業に魅力や長所と呼ぶべきものが存在するように検閲官という仕事にもまたそういったものがあることを認めざるを得なくなってきていた。それは賃金や配給といった可視的な側面にとどまらず、組織に身を置くにつれて徐々に実感するような類のものであった。ひとつは検閲局で働く日本人の同僚との付き合いであった。彼らの大半はインテリであり私などよりはるかに学識や経験を有していたため、ただ雑談を交わしているだけでも色々と学ぶことはあった。彼らにしてみれば私は平凡な一学生でしかなかったのだろうが、検閲作業で私が好成績を出すと彼らは率直にそれを評価し一目置くようになってくれた。やはり誰しも他者から認められたいという欲求を持っており、それが満たされることに喜びを感じるのは当然であった。
加えて、進駐兵の中にも多少は話が分かる者がいることに気付き始めた。日系二世でもミス・ヤマモトのように祖国である米国に忠誠を誓う一方で、日本に理解を示す者はいた(だからこそ差別や偏見に悩まされ、どこか哀愁を帯びていたが)。また白人将校も日本の将校とは違って変に偉ぶったり高圧的な態度をとるといったことはなく、その多くは非常に紳士的であった。また、ときおり検閲局内で日本人検閲官を招いて催されるパーティーの様子を見ていると、父の英国の知人とは違い、米国人はとても人懐こく陽気だと感じ、少なからず嫌悪感を薄めていった。
だが、こういった考察は私の疑問を解消するには不十分であった。それまで見てみぬふりをしてきたが、私の中である感情が芽生えてきておりそれを無視することに限界が近づいていた。誤解を恐れずにこの感情を形容するならば、私は検閲というものに対してある種の快楽を見出しているのではないかと思われた。その理由は複合的で、他人の私生活をのぞき見るという背徳的な行為に酔いしれていたというのもあるだろうし、手紙をひとつの芸術作品のようにうまく翻訳できたときに得られる満足感、そしてそれをミス・ヤマモトに評価され周囲から羨望のまなざしを向けられたときの自尊心の充足感など、数えればきりがなかった。しかし何より、凡庸だと思っていた自分に何がしかの才能と呼べるものが見つかり、それに携われることに幸福感を覚えないわけがなかった。それがいくら非人道的な行いによるものであると十分すぎるほど理解していたところで、それは阿片のごとく私を奴隷にした。新宿で吾平伯父さんが口にした〈死の舞踏〉という言葉をしばしば思い出した。たしかに伯父の言うとおり、いくら頭で理解していたところでどんどん悪い方へ突き進む運命のようなものが間違いなく存在する。だが、伯父には申し訳ないがその忠告はいかなる教訓にもなり得なかった。なぜなら仮に予備知識があったところでそういった運命を回避することなどまずできはしないだろうし、一度その運命に魅入られたなら、もはや手の打ちようがないからだ。それは、人にはいつか必ず死が訪れるという運命を告げることが、何の役にも立たないのと同じであった。
クリスマスが近づくにつれてマッカーサーの根城である第一生命ビルを筆頭に街ではクリスマスの装飾がいたるところで見られるようになってきていたが、それにつられてか進駐兵もどこか落ち着かない様子であった。そんなある日、私は神奈川県の某村で密造酒が製造されている噂を聞いたという手紙を翻訳し、ミス・ヤマモトのもとへ持って行った。ミス・ヤマモトは事務的に「素晴らしい翻訳です。預かっておきましょう」とだけ言って訳文を受け取った。しかし私がそのまま作業室へ引き返そうとすると突然呼び止められた。
「ミスター・ハヤミ、ちょっと待ってください。少しだけ時間を頂けますか」ミス・ヤマモトは悪戯を思いついた子供のようにその暗い灰色の瞳に輝きを微かに灯しながらこちらをみつめた。
「構いませんが――何でしょうか」
「ひとつ質問があります。あなた、お酒はたしなみますか」
「はい、人並みには。もっとも最近は酒と呼べるようなものを飲む機会が随分と減りましたが」
「それは良かった。実を言うとあなたに渡したいものがあります」ミス・ヤマモトはそういうと事務机の傍らをごそごそと漁り縦長のボール箱を取り出した。
「これをあなたに」
「何ですかそれは」私は少し警戒して安易に手を伸ばそうとはしなかった。しかしミス・ヤマモトはそんな私の心中を見透かして楽しんでいるかのようにただ笑顔で「開けてみてください」と繰り返すばかりであった。結局私の方が折れて箱を開封してみると、中には木屑に埋もれた酒瓶が入っていた。
「これは――ウイスキーですか」英語表記のラベルを読みながら私はやや不安げに尋ねた。というのも学生の身分である私が口にしていたウイスキーは日本製の安物ばかりであり、舶来品など本来庶民には高根の花で目にする機会すらなかった。ただ私の場合は、大阪の実家にいたころ仕事柄父がまれに持ち帰ってきたもののご相伴にあずかることができたため、まったく初めてというわけでもなかった。
「ええ、ただしバーボンですが。こちらでは珍しいのではありませんか。どちらかといえばスコッチの方が人気のようですから。たまたま手に入ったのですが私はあまりお酒を呑まないので、良かったら差し上げます。ささやかなクリスマスプレゼントです」
「お気持ちはありがたいのですが、受け取るわけにはいきません。あなただって御存知でしょう、外国産のウイスキーがこの国でどの位の値がつくか。日本人である私がこのようなものを受け取れば問題になります」
「本当に生真面目な人ですね。まあ、たしかにあなたがこのことを誰かに吹聴したり、このお酒をヤミ市に流したりすれば問題になるかもしれません。でも、あなたはそのように愚かなことをしないでしょう。受け取ってください。これは日頃の感謝の気持ちも込もっているのです」そう言ってウイスキーの入った箱を私の方へ押しやった。
私の脳裏にはミス・ヤマモトのもとで働くようになってから常日頃浮かんでいた「妄想」がこのときも首をもたげていた。気を許しているとどこからともなく立ち現れるこの「妄想」を普段であればあまりに馬鹿げていると追い払ってしまうところであったが、このときは何を血迷ったかこの「妄想」が本当にただの妄想なのか確かめてみたい衝動に駆られた。進駐兵につられて私もどこかで浮かれていたのかもしれない。だがあの灰色の瞳を見つめていれば、そこに自分が本当に映っているのか確かめたくなるのもやむを得ないと思われた。
「なぜ、あなたは私に対してそこまで親切にしてくれるのですか」緊張していたためか、私の声は少し上ずっていた。
私の質問に対して彼女が口を開くまで少し間があった。実際には数秒間なのであろうが、そのときの私には数十分のように感じられた。
「以前言ったように私はヨシヒロ・ハヤミという男性に対して興味を持っています。それは非常に優秀な検閲官だからというのもありますが、それだけで私の感情を説明するのは不十分でしょう。きっとどれだけ言葉を尽くしたところで上手くはいきません」ミス・ヤマモトは静かにそう言いながらゆっくりと椅子から立ち上がりこちらへ歩み寄った。私の眼前に立った彼女は意外なほど小柄で華奢であった。頬は紅潮し灰色の瞳はいまや星のような輝きを帯びていた。
「ミスター・ハヤミ、今晩は予定を空けておきなさい。あなたの質問に答えを示してあげましょう」彼女はそう言うと妖しく微笑んだ。私は心臓が鐘のように高鳴り、頭がジンジンと痺れるのを感じながらただうなずくほかなかった。




