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鬼火  作者:
第六章 徒花
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第六章 徒花(2/2)

「なあ早見、ウイスキーでも飲まんか。カストリは臭くてかなわん」

「お前、ヤミのウイスキーはまずい。メチルでやられてるって新聞に出てるだろ。それにもう十分飲んだじゃないか」私は間髪入れずに彼の提案を却下した。

 当時ウイスキーは高級品であり、特に舶来物は庶民にはとても手が届かず国産の白札あたりが関の山であった。しかしこれにしても食糧すら満足に手に入らない当時ではぜいたく品であり、そもそも自由に売買もできなかったため、例のごとく安価な密造酒がヤミに並んだ。製造方法は簡単で、ザラメを炒って焦がしたものをアルコールでのばすだけ。もちろんウイスキーとは全く異質なものであった。しかしながら、それが売れる時代でもあったのだ。ただ、安物のなかには毒性のあるメチルアルコールで製造されたものも混ざっていたため、運悪くそれに当たって失明したり、ときには命を落としたりする事件が後を絶たなかった。

「ふん、失明が怖くて酒が飲めるか。どうせ一度は捨てた命だ、どうということはない。俺はもっと飲むぞ」

「もうそれくらいにしとけよ、ほら周りも見ている」

 吉野が大声で喚くものだから、次第に通行人もこちらをじろじろ眺めるようになってきていた。

「周囲の眼なんて知ったものか。どうせ俺のことを『特攻くずれ』だと馬鹿にしているんだろうが、あいつらに俺を馬鹿にする資格なんてあるのか。復員したとき周囲の反応には愕然としたね。送り出すときにはあれだけちやほやしておいて、終戦後街を歩いたり電車に乗っていたりすると連中はまるで俺たちを犯罪者か何かのように白い眼で見やがる。俺たちは日本を守るために一度この命を捨てる覚悟をして、望んでもいない戦争に身を投じたんだ。それなのに何なんだこの扱いは。別に英雄視してほしいわけじゃあない。俺たちは敗けたんだからな。ただでさえ食い物がないなかで、穀潰しが増えたってのも事実だ。でも、俺たちは命を賭けたんだ。それをしたヤツとそうでないヤツは決定的に違う。それなのにラジオや新聞はマッカーサーの犬に成り下がって、軍がさも極悪非道なことばかりをしてきたかのような報道をする。たしかに軍隊なんてろくなもんじゃなかった。戦争なんて二度とごめんだ。だが、間違いなく愚直にこの国のことを思って散った命もあった。それを誰が否定することができるんだ。そして、俺に言わせればラジオや新聞や大多数の国民だって軍部と同罪だ、あいつらも旗を振って俺たちを戦場に送り出したんだからな。それなのになぜ裁かれる側の連中がさも当然のように被害者面をしているのか。それまで信じていたものをああも簡単に脱ぎ捨てられる神経が俺には理解できないし、とてもついていけやしない。以前なら十二月二十五日は大正天皇祭だったが、もう街中はクリスマスの準備しかしていない。なあ早見、この国は俺を取り残して何もかも変わっていくのか。でも俺はあの体験をなかったことにはできねえよ、できやしねえよ」

「分からない――俺だってこの急激な変化に戸惑っているし、許せないことだってやまほどある。それでもどうにか無理やり自分を納得させて生きているが、本音を言えばそれで良いのかもよく分からない」

「なあ早見、あの戦争は一体何だったんだ。俺たちは何のためにあれだけつらい思いをさせられたんだ。復員してから俺はずっとその答えを探し続けている。捕まった東條たちがニュンベルク裁判と同じように絞首刑になったところで、おそらく何の答えも見出せないだろう。なあ早見、何だったんだろうなあれは――」吉野はうわ言のように繰り返した。私はそれに答える術を持ち合わせていなかった。過去を振り返らず未来を見つめるべきだとありきたりな助言くらいはできたのかもしれないが、そもそも私自身それをできずにいるのだからあまりに無責任であると思われた。

「そうすると、もう大学には戻らないのか」もはや私の口からはせいぜいこれくらいの当たり障りない言葉しか出なかった。

「ああ――今のところは考えられない。いずれにせよ金を稼ぐ必要がある。俺にはなくても、弟や妹には将来がある。あいつらを学校に行かせてやるだけの金はつくってやらないと」

「だが、それだけの金をどうやって稼ぐんだ」

「俺にはもう怖いものなんてないんだ、何だってやるさ。だが、いくらお前にでも詳しい話はできない。もう俺は半分外道に足を踏み入れてるんだからな」

 そう語る吉野の瞳は夜道で狂犬のように輝いていた。

「何をやっているかは知らんが、あまり危ないことに手を出すなよ――学生でも逮捕されているヤツはいる」

「俺の心配はもうよしてくれ。それよりお前は自分の心配をしろよ。少なくとも俺よりはこれからの日本の将来を支えていけるんだからな」

「とても考えられないよ。俺は召集されたわけではないけれど、この国の将来を支えていこうだなんて気概はない。ただ心の内でわだかまりのようなものをずっと抱え込みながら死んでいくんだろうなと思う」

 吉野は「そうか」とだけぽつりとつぶやき、もう何も話さなかった。師走の夜風に当たっているうちにだいぶ酔いが醒めてきた私たちはもう梯子する気も失せ、とぼとぼ無言のまま上野駅まで歩いて行った。構内ではそこかしこでぼろをまとった浮浪者が寄り添って眠っており、不意に顔中吹き出物だらけの少年と眼が合い視線を外した。こういった光景は特別珍しいものではなく、特にこの上野駅では浮浪者が多かったため、頻繁に狩り込みが行われていた。

「去年はおそろしく寒かったけど、今年はどうだろうな」

「さあな。とにかくまともに着るものがないから寒くてたまらん。だがまあ、雨風しのげる家があるだけまだましだな。本当に理不尽だよ。この戦争の最大の教訓は、世の中ってのは本当に理不尽なんだってことだ。俺は生きていくうえで重要なことの大半は書物から学んだつもりだったが、書物だけでは到達しえない境地というのもたしかに存在したんだなあ」

「なあ吉野、また会えるか。どうも戦争のせいで人と人とのつながりが希薄になったような気がしてならない。あまりにも人が死に過ぎた。お前も遠くへ行ってしまいそうな気がしてならないよ」

「さっき言ったとおりだ。俺は一回死んだ人間なんだ。昔の俺とは別人だ。早見、お前は良いヤツだが、だからこそもう俺とは関わらない方が良い。死人と一緒にいるとお前まで死人になるぞ。じゃあな、達者でやれよ」吉野はそう簡単に言い残すと足早に雑踏の中へと姿を消した。私は朦朧とした頭でその後ろ姿を眺めながら、彼を再び生に対して真摯に向き合わせることができるのであろうかと自問した。彼はただ死に場所を探している、私にはそうとしか思えなかった。そして、先ほどの口ぶりからいっても彼がヤミ取引に関わっている可能性は十分あった。だが、仮にそうであったとしても私には彼を止める言葉など持ち合わせていなかった。

「吾平伯父さんに相談してみるか――」

 我ながら安直で稚拙な発想だとは思ったが、それ以外に妙案が浮かばなかったのもたしかであった。少なくともヤミの仕事に手を出している伯父ならば、私よりは良策を考えつくだろう。私はとりあえず今後の方針を決めると体が冷えてくるのを感じたため家路を急いだ。

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