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鬼火  作者:
第六章 徒花
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第六章 徒花(1/2)

 次の日曜日に私は書き写しておいた住所を頼りに吉野を訪ねてみることにした。彼の手紙を検閲して以来、胸の内ではずっともやもやしたものが渦巻いていた。心の整理をつけるためにはどうしても本人の口から直接真相を聞く必要があった。

 吉野の実家は両国で下駄屋を営んでいたはずであったが、封筒に記されていた住所は湯島であった。彼もまた空襲で焼き出されて知人の家に間借りしていたのかもしれない。私は中央線に乗って御茶ノ水駅で下車すると歩いて湯島を目指した。神田、湯島、御茶ノ水界隈は都内でも比較的空襲の被害が少なく、湯島天神はほぼ罹災を免れていたし、神田明神も社殿がかろうじて残っていた。神保町へは良く足を運んだが湯島にはあまりなじみがなかったため、いつまでたっても目的地にたどり着けなかった。やむを得ず通行人に尋ねながらどうに見つけた平屋には「藤澤」という表札が掲げられていた。この家に吉野が間借りしているかどうか外観からは判断できず、私は少し躊躇した。そしていざ目的地に到着してみると、突然冷静になり始めて急激に大胆さがしぼんでいくのが分かった。そもそも手紙の内容がヤミ取引に関するものであるという確証はなく、もし違っていればとんだ大恥をかくことになる。そして、私は吉野に何をしたいのだろうか。単に彼がヤミ取引に関わっているかどうかを確認すればそれで満足なのだろうか。もし仮に私の予測が的中していたとすれば、彼を止めれば良いのだろうか。当時、ヤミに手を出していない人間など滅多にいなかったのだから、それをやめろという忠告も大した意味を持たないだろう。せいぜい手紙にそういったことを書くなというのが有意義な助言であるのだろうが、そうすればなぜ私が彼の手紙を読んだのかという説明に迫られる。つまるところ、私がここに来たところで、吉野との旧交を温めることぐらいしかできない。頭であれこれ考えすぎるばかりに行き詰る悪い癖が出てしまった。さいわい中に人の気配もしないことから、日を改めて再訪しようかという気になり始めていると、突然背後から声がした。

「おい、早見じゃないか」

 管楽器のようによく通る曇りのない声には聴き覚えがあった。咄嗟に振り向くと、そこには日に焼けた精悍な顔つきの青年が立っていた。私は眼の前にいる男が吉野忠志であると確信するまでに若干の時間を要した。というのも、私の知る彼は色白で痩身の典型的な文学青年であり、私の前に姿を現した理想的ともいえる青年将校とは似ても似つかなかったからだ。ただ、周囲の空気を一変させてしまうようなその美声は健在であり、よく観察してみると、広い額とどこか陰のある寂しげな眼は教室でひとり哲学書や独文学を読んでいたころの彼と重なった。

「吉野――久しぶりだな。お前が復員してここに住んでるって話を耳にして来てみたんだ。無事だったんだな、本当に良かった」

 私は久しぶりの再会にも関わらず、気の利いた言葉が浮かばなかった。吉野の方も予期せぬ来客にどこか気まずそうであった。

「そうか、すまなかったな連絡もしないで。色々あったんだ。なあ、立ち話もなんだから場所を移さないか。ちょうど神保町の方へ行こうと思っていたんだが、お前もどうだ」

「分かった、一緒に行こう。ところで、今はここに住んでいるのか。家は両国の方だったよな」私は平屋の方へちらりと視線を送りながら尋ねた。

「ああ、あっちの方は空襲で焼けちまったよ。さいわい家族は全員無事だったがな。両親は弟や妹を連れて茨城の親戚を頼って疎開して以来そのままそっちで暮らしてる。まあ、あっちの方が食い物には困らんからな。ここは父親の知り合いの家で、俺だけここで間借りさせてもらってるんだ」

「そうか――家族が無事でよかったな」私は大した慰めにもならない言葉をかけるほかなく、吉野も小さく「ああ」と返事をしたきり、私たちは黙って歩き出した。


「なるほど、翻訳者か。そういえば、お前語学が得意だったからな。悪くないじゃないか。金がもらえて勉強にもなって一石二鳥だろ」吉野はそう言いながら強烈な臭いを発しているカストリの入ったグラスを傾けた。薄暗い照明の中でも彼の顔が紅潮しているのが見て取れた。

 私たちは上野のマーケットの片隅にある小汚い焼鳥屋で酒を酌み交わしていた。当初は吉野が提案したとおり神保町のいくつかの古書店をのぞいてみたが、世間では物価が軒並み高騰しているなか古書もその例外ではなくとても食指が伸びなかった。やむを得ず神保町を当てもなくぶらぶら歩いて目に付いたのが、いずれの店も英語で店名を併記するようになっていることであった。ときおり進駐兵が平積みされた画集や雑誌などを物珍しそうに眺めている光景も見られた。散策をしながら吉野がヤミ取引に関わっているか探りを入れる機会をうかがったが、どうにもうまく切り出すことができずにいた。彼は終始口数が少なく、私が何か話しかけても一言二言返すだけで会話が続かなかった。彼はもともと饒舌ではなかったが、それでもここまでではなかった。次第に居心地が悪くなってきた私は、陽も傾いてきたことだから上野のマーケットで酒でも呑まないかと誘ってみたところ意外や快諾してくれたため場所を移すことにしたのだ。

 終戦直後、強制疎開によって空地になっていた上野駅前に自然発生したヤミ市は、三国人のうち特に関西方面から上京してきた朝鮮人の勢力が強かった。日本の旧占領地から連行されてきた朝鮮人、中国人、台湾省民は第三国人(あるいはどこか軽蔑を込めて三国人)と呼ばれ、昭和二十年十一月三日にGHQが発した第三国人をできる限り解放国民として処遇するという声明により、彼らは進駐軍同様、日本の法に拘束されない存在となった。結果的に彼らがヤミ物資を取り扱っていても、日本の警察は指をくわえて見ているしかなかったため、ぼろ儲けが可能であった。ただ、昭和二十一年五月には上野駅周辺に日本人によるマーケットが建設されたため、既得権益を守ろうとする第三国人と日本人との間で抗争が生じ、真昼間に銃声が鳴り響くことも珍しくなかった。

「俺はそれでどうにか学費を稼いでいるよ。お前はどうなんだ――大学には戻らないのか」酔いが回ってきた頃合いを見計らって私は遠回しに核心へと迫る質問を投げかけた。もっともこちらも相当酔っており、呂律が回っていなかったのだが。

「戻りたいという気持ちがないわけではないが――難しいな」

「それは金の問題か」

「それもないわけではない。家は焼けてしまって、家族はどうにか農業の手伝いをして食べていけるがやはり金がない。まだ幼い弟や妹もいるしな。俺が働いて稼ぐしかないのが現状だ」

「一体、どんな仕事をやってるんだ。そんなに稼ぎが良い仕事なら紹介してくれよ」私はおどけた口調で尋ねてみた。

「だめだ、教えられねえ。他人に言えるような仕事じゃないんだ」

 粘り強く説得してみたものの、言えないの一点張りで吉野はとうとう口を割らなかった。彼は二杯目になるカストリを一気に飲み干すと「それに問題は金だけじゃないんだ」と吐き捨てるように言った。

「金だけじゃないなら他に何があるんだ」

 私の問い掛けは虚しく闇に消え、しばらくの間沈黙が流れた。パチパチと炭火が奏でる音だけが静かに時を刻んでいた。

「俺は本来死んでいるはずの人間なんだ」

 沈黙を破る彼の発言はあまりに意表を突くものであったため私は戸惑いを隠せなかった。

「死んでいるはずって――一体どういう意味なんだ」

「そのままの意味だよ。俺が海軍の飛行科へ進んだことは知っているよな。俺は大分の宇佐航空隊へ配属されて、そこで特攻に志願させられたんだ」

 彼はことさら「志願させられた」という箇所を強調した。薄闇の中で爛々と光る彼の瞳は完全に据わっており、鬼気迫るものがあった。

「特攻は志願者しかやらなかったって聞いたことがあるが――」

「お前は本気でそんなことを信じているのか。考えてもみろ、いつだって俺たちには選択の余地なんてなかったろ。有無を言わさず召集されて、幹部候補生だとおだてたと思ったら、部隊の古兵は若僧に追い抜かされることが気にくわなくて散々陰湿ないじめをしてくる。それでも歯を食いしばって堪えたら今度は特攻だ。志願なんて建前で、あの場で手を挙げない人間なんていなかったよ。もし志願しなかったら『臆病者だ』、『非国民だ』とののしられる。そうかと思えば士官学校出の生え抜きの軍人はあまり特攻をさせられなかったと聞いた。結局俺たちは捨て駒でしかなかったんだ」

「でも、こうして生きて帰ってこられたじゃないか」

「偶然だ――本当に偶然なんだ。特攻では例え敵機や敵艦の攻撃に成功しようが、エンジンが故障して飛行を続行できなくなろうが関係ない。俺たちは死ぬことを求められる。特攻はパイロットが死ぬことに意義があるんだ。俺が特攻のために出撃したその日、偶然エンジンが故障して帰投せざるを得なくなった。もうあのころの機体は満足に整備なんてされていなくて故障なんてざらにあったんだ。どうにか戻った俺を上官は他の下士官やらの面前でなじり倒したよ、『何故一度特攻に出た者がむざむざ帰ってくるのか。エンジンが故障したのなら止まるまで飛び続けろ』ってな。あまりに馬鹿げていたものだから怒りを通り越して呆れたよ。そして、次こそは絶対に死んでやるって誓ったんだ。特攻を成功させる大義名分なんて、もうあのころには意味を成さなかった。なぜなら前線で戦っていた俺たちには、日本が敗けるのは時間の問題だということがありありと見てとれたからだ。上官は俺たちに重要なことは何ひとつ教えてくれなかったが、すぐに感情的になったりまともな思考ができなくなったりしていたから、そこからも読み取ることができたよ。仮に特攻を成功させて多少の損害を米軍に与えたところで、この戦争の大勢には何の影響も及ぼさない。つまり俺たちは死ねば責務を果たしたことになるんだ。俺は次の出撃を待って兵舎で待機していた。ずっと待っていた。だが、ついに出撃命令は下されなかった。もはやまともな機体が融通できなくなっていたんだ。そしてとうとう命令が下らないまま終戦を迎えたんだ」

 胸の内を吐露した吉野はすでに三杯目のカストリに突入していた。ドブロクを蒸留してつくったこの酒は二杯で十分酩酊してしまう代物であったが、吉野はお構いなしに飲み続けていた。私の知る限り彼は決して大酒飲みではなく、どちらかといえば付き合い程度でしか飲まなかった。

「俺なんかにお前の気持ちは到底理解できないかもしれない。でも、せっかく助かった命だ、大事にするべきなんじゃないか。復学して普通の学生生活に戻るべきだよ」

「父親もお前と同じようなことを言ったよ。しっかり勉強して、これからの新しい時代で活躍しろだなんて平気な顔で言うんだ。だが俺にはそんな器用な真似できやしない。そんなふうにすぐに頭を切り替えられるヤツは、実際に戦わなかったか自分の目先の利益しか頭にないかのどちらかだ。早見、お前には分からないよ――あの暗い兵舎の中でじっと出撃待機している間のあの狂気を体験した人間が、そう簡単に普通の生活に戻れるわけがないんだ。みんなおかしくなっちまうんだ。自暴自棄になったり、神経過敏になったり、反対に腑抜けたようにひどく鈍感になったりする。心が休まる時なんてない。夜が怖いんだ。不思議なもんだよ――眠ってしまえば何も考えずに済むのに、まるで生きている間の一分一秒が惜しくて、それを貪るかのように身体が睡眠を拒絶するんだ。それでもいつかは限界が来て眠ってしまうんだが、始終うなされたり、なかには眼を開けたまま眠っているヤツもいた。あそこはまるで精神病棟だったんだ。だから、むしろ出撃命令が下されたとき俺たちは救われた気がしたもんだ。もう死を待っている必要はない。やっと死ねるんだってな。普通の人間からしてみれば倒錯しているのかもしれないが、それがあそこの実態だ。だがさっきも言ったように俺は帰投して再びあの精神病棟に放り込まれた。それからはもう地獄の日々だ。気が狂いそうになりながら再び死ねる日を待ちわびたよ。だがとうとうその日は来なかった。あのとき命を捨てる覚悟をした俺にはもう何も残っちゃいないんだ。文字どおり全身全霊を捧げたんだからな。あと何年生きるのか知らんが、所詮そんなのは俺にとって〈余生〉に過ぎないんだ」

「時間が経てばまた考え方も変わるさ――なあ吉野、さっきから飲み過ぎじゃないか。そろそろ店を出よう」

 彼はまだ飲み足りない様子であったが私に腕を引っ張られ不承不承に店を出た。私は勘定を済ませると、千鳥足で勝手な方向に歩き出した彼に追いつき身体を支えるようにして肩を組んだ。彼ほどではないが、私も相当酔いが回っていたため二人してふらふらと人混みの中を歩いて行った。これだけ酩酊しているとゴミだめのようなヤミ市も世界一の歓楽街に見えてくるのだから不思議であった。

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