表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼火  作者:
第五章 邂逅
13/23

第五章 邂逅(2/2)

 吉野の手紙を検閲し終えた後ちょうど休憩時間になり、席を外した私は休憩室で一服している久賀を見つけた。

「なあ久賀、ひとつ聞きたいことがあるんだが――」普段こちらから声をかけることは滅多になかったが、後になって考えてみればこのときは少し気が動転していたのかもしれない。

「何だよ改まって」

「これだけ大量に検閲していれば、自分の見知った人の手紙を引かないとも言い切れないだろ。もしそんなことになったら、お前だったらどうする」

「いつもどおりだよ。要項に引っかからなければ通してしまうし、もし引っかかるようなら翻訳してテーブル・マスターの所に回すさ」久賀はこともなげに答えた。

「でも、知り合いなんだぞ。そんな裏切るような真似――」

「この期に及んでまだそんなことを言ってるのか。もし見逃して、それが再検閲に引っかかったらどうする。それまでの苦労が水の泡じゃないか。お優しいのは結構だが、中途半端な情は身を滅ぼすぜ。良い加減、割り切ってこの仕事に臨めよ。人間は慣れる動物だ、じきに苦痛も感じなくなる。お前は評価だって悪くないみたいだから、下手なことは口に出さない方が身のためだ。くだらないことを周囲に吹聴してそれがテーブル・マスターの耳に入って心証を悪くするのは馬鹿らしいぜ」

「くだらないことではないだろう」私は少しむきになって言った。

「ああ、すまん。ちょっと誤解を招くような言い方だったかもしれないな。だがここで働いている人間は、当然そういった事態が起こることを承知の上で入ってきてるはずなんだから、何を今さらって思われても仕方ないんだぜ。どうしても嫌なら辞めれば良いだけで、実際辞めていく奴は多いだろ」

 私が何も答えられずにうつむいていると、先ほどからこのやり取りを遠巻きに見ていた青年がこちらに近づいてきた。

「久賀の言うことはもっともだが、心情的には彼の方に親近感を抱くなあ」青年はそう言うと私の方を見て微笑んだ。

 闖入者に私が戸惑っていると、それを察した久賀が簡単に紹介をしてくれた。

「そいつは光川っていうんだ。ちょうどお前と同じ時期にここに入ってきたんだ。見かけたことくらいあるんじゃないか」

 言われてみれば、ひょろりとした体型と青白い顔に不釣合いなほどギラついた鋭い眼光と太い眉は、どこかで見た覚えがあった。頑固な性格だろうとここまで容易に想像がつく人相も珍しかった。光川誠児は久賀と同じくT大の学生で哲学を専攻しているとのことであった。

「はじめまして。以前から一度、君と話してみたいと思っていたんだ」屈託のない光川の言葉に私は少し驚いた。

「それはまた、どうして」

「いや、自覚はないのかもしれないけど君は結構有名人なんだぜ」

 私は隣でにやにや笑っている久賀に問いかけるような視線を投げかけた。

「いや、こいつの言ってることは本当だ。早見、たしかにお前は局内でちょっとした有名人だ。成績が良いからってのもあるが、なんせあの〈能面〉のお気に入りなんだからな」

「〈能面〉ってミス・ヤマモトのことか。俺の指導役も先日そう呼んでいたが一体何なんだその呼び名は」

「誰がつけたか知らんが陰ではそう呼ばれている。あの女の母方の姓がNormanだから、それとあの仏頂面をかけてつけられたあだ名らしい。まあ一説によればあまりにも男が寄り付かなくてNo menだからってのもあるらしいがな。顔は悪くないのにもったいないよな」

「そんなあだ名をつけられるほど無愛想ではないと思うけどな。案外冗談だってよく言うし」

「さすがお気に入りは言うことが違うなあ。あの女に耐えられなくなって辞めた奴も少なくないんだぜ。ああ、ところで光川、お前なんで話に入ってきたんだったかな」

「検閲する手紙の中に知人のものが混じっていたらという話だったろ。遠くからお前たちの会話が聞こえてきて、ちょっと気になったもんだから。久賀は早見君の考えを甘いと思うようだが、俺だったら、もし仮にその内容が要項に引っかかったとしても黙って見逃すな。久賀の言うように、再検閲でそれがばれたら減給か解雇だろうが、別にそれで構わないじゃないか。たしかに金は喉から手が出るほど欲しいが、金のために魂を売るような真似はしたくない。万が一クビになったときはそのときはまた別の仕事を探せば良いさ」

 私は光川のいさぎよさを心底うらやましく思うと同時に、ただ駄々をこねるだけで未練がましくこの仕事にしがみつこうとする自分が情けなくなった。だが久賀の方は光川の意見を鼻で笑った。

「こいつは偉そうな口を叩いているが、実際テーブル・マスターといつも口論になっているからな。冗談ではなくいつクビになってもおかしくない。とうに辞める覚悟ができているのさ。お前みたいに前途ある若者は真似しないのが賢明だぜ」

「そうは言ってもな。どうしても納得できないものはできないし、心の内はどうにもならない」私は呟いた。

「そのとおり。アメ公はやたらとイエス・ノーで答えさせようとするが、俺に言わせれば物事はそんなに単純じゃない。単純な脳みそしか持たない奴らにはそれが分からんのかもしれんがな。あいつらは俺たちにせっせと手紙の翻訳をさせているが、そのうちどれだけその中身を理解しているか。単に字面を追い事実関係を把握しただけでその手紙を理解したつもりでいるようだが、それだけでは書き手の精神には全く届いていないし、はなからそうしようという努力すらしない。俺はテーブル・マスターに何度も翻訳を突き返されたよ。『ミスター・ミツカワの翻訳は無駄が多く、情緒的過ぎて内容が分かりにくい。我々が求める情報を効率的に得られる翻訳をしなさい』ってな。俺は言い返してやったよ、人は事実なんかじゃなくて気持ちを伝えたいから手紙をしたためるんだって。気持ちを無視すればその手紙は全くの別物になり、誤訳といっても過言ではないしろものが出来あがるって。そしたらあの野郎はなんて言ったと思う。『大芸術家であらせられるミスター・ミツカワには大変申し訳ないのですが、あいにく我々は科学的な見地から物事を考えている。これ以上言い争ってもお互いに時間を浪費するだけなので、我々の方針にご納得いただけないようなら今すぐ辞職してもらって構わない』なんてぬかしやがる。俺はもうこれ以上議論しても無駄だと感じたから、それ以降は悪訳の見本市のような逐語訳しか提出しなくなったが、野郎はそれに眼を通していたくご満悦だったよ」

 内にたまっていた鬱憤を一気に吐き出したかのように話し続けた光川は、紅潮させた頬を少し緩ませて照れ笑いを浮かべた。久賀はうんざりした顔で、お前のせいで休憩時間が潰れちまったと悪態をついた。壁時計を見るといつの間にか十分近く経っており仕事に戻る頃合いであった。その場で光川に別れを告げる久賀と私は足早に作業室へと向かった。

「なあ早見、さっきあんな話を持ち出したが、実際に知り合いの手紙でもあったのか」ずっと黙っていた久賀が突然尋ねてきた。私は内心どきりとしたが、それを悟られないように「いや、ふと思っただけだ」と素っ気なく答えた。

「まあ、それなら良いんだが――ただ、悪いことは言わない、光川みたいな言動は慎んだ方が良い。あいつはもうすでに局の人間に眼をつけられているからな。さっきも言ったが、クビになるのは時間の問題だろう。不用意に関わるとお前の評判まで下がるぜ。あいつは悪いヤツじゃないが、あまりにも世渡り下手だ。これからの時代、あんなのは生きていけないぜ」

 久賀の口調は普段のふざけたようなものとは違って真剣であった。私はちらりと彼の方を盗み見ると、もの静かで哀しい横顔に彼の意外な一面を発見したような気がした。

「格好は良くても裏では衝突ばかりして気苦労が絶えないもんだぜ、ああいう生き方は。はた目からは立派なもんだが、親しい人を確実に不幸にする。遠くで鑑賞するのが最適なんだ。近寄ってみたり、間違っても自分も同じようになろうだなんて考えちゃいけない。自分を騙せとは言わない。だが、清濁併せ呑む度量を持てよ。それもまた、立派な生き方だと俺は思うぜ」

「まあ、たしかにお前の言うことも一理あるな――」

 私は普段と異なる久賀の言葉を聞いているうちに、もっと彼と話をしてみたいと思ったが、あいにく自分の作業室の前に到着したためその場で別れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ