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鬼火  作者:
第四章 天才
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第四章 天才(4/4)

 中央郵便局の三階から五階をCCDの郵便検閲課が占めており、私が案内されたのは三階にある大部屋であった。そこには無数のテーブルが並べられ、それらを取り囲むように座った日本人がテーブル上に郵便物をぶちまけ黙々と検閲作業に従事していた。室内はカサカサと紙のすれる音が聞こえるだけでおそろしく静かであった。私はその光景がどこか家畜小屋のように見えて不気味に感じた。ミス・ヤマモトはお構いなしにツカツカと入っていき、頭頂部がすでに薄くなりかけた中年男性のもとで立ち止まった。男は重度の近視なのかビン底眼鏡を額まで上げ、手紙を顔面すれすれまで近付けて懸命に読もうとしていた。

「ミスター・オサナイ、仕事中すみませんが、少々お時間をください」

「ああ、はい」長内と呼ばれた男はミス・ヤマモトに気付くと手紙をテーブルに置き、背筋をぴんと伸ばした。

「ミスター・ハヤミ、これからしばらくの間、あなたの訓練担当を務めるミスター・オサナイです」

「長内です。よろしく」長内氏は品定めでもするように私をじろじろ見ながら不愛想に挨拶をした。

「早見能啓といいます。よろしくお願いします」

「君、若いね。学生さんかい」

「はい」

「勉強も大変だろうが、仕事は仕事だから。私は学生だろうが何だろうが厳しく指導するから覚悟しておくように」長内氏はすぐにずれ落ちる眼鏡をしきりに押し戻しながらそう言った。

「ミスター・オサナイ、ほどほどにしてくださいね。またすぐに辞められてしまうと私も困りますから。ミスター・ハヤミ、彼はこんなことを言っていますが大変面倒見の良い方です。そして何より非常に優秀な検閲官です。したがって、多くのことを彼から学んでください」

 ミス・ヤマモトに悪気はなかったのだろうが、「非常に優秀な検閲官」という称賛に対して長内氏は何とも言えない表情を浮かべた。しかしミス・ヤマモトはそれに気づいた様子もなく、私に長内氏の隣で作業するよう指示すると自席へ戻って行った。その様子を横目で確認した長内氏はそっと私に耳打ちをしてきた。

「とにかく最初はゆっくりで良い。ただ、再検閲だけには気をつけろ。見逃しだと判断されれば首を切られるぞ」

「すみません、『再検閲』って何でしょうか」

「何だ説明を受けてないのか。私たち検閲官の他に再検閲官というのがいる。そいつらが何をしているかというと、俺たち日本人の検閲官が摘発漏れや見逃しをしていないか確認するために検閲を通過した手紙から無差別に抽出したものを再度検閲しているんだ。これを再検閲と呼ぶ。もし再検閲に引っかかったら減給や解雇されることもある。意図的に見逃したと判断されれば、即解雇だろうな」

「どの程度の頻度で見られているものなんですか」

「そんなことは私たちには分からないようになっている。とにかく全部再検閲されているくらいの心構えでいた方が無難だな。仮に知り合いの手紙に当たったからって、間違っても同情なんかしてはいけない。検閲要項にひっかかるやつは何も考えず機械のように翻訳していけば良い。翻訳すべきか迷うよう内容だった場合はとりあえず私に相談しなさい。さあ仕事を始めよう、あんまり話しているとすぐにお叱りを受けるからな」

 私は礼を言うと自分の作業に取りかかった。長内氏はぶっきらぼうな話し方をするが、根は親切で面倒見が良いようであった。本音を言えばもっとこの仕事や職場について聞きたいところであったが、周囲が機械のように黙々と作業をしているなか、無駄話をしていれば嫌でも目立つため断念した。私は目の前に積まれた開封済の封筒に手を伸ばした。一通目に当たったのは、出征した息子が満州から帰ってこないことを母親がその姉に相談する手紙であった。文面には、周囲ではどんどん復員が進んでいっているにもかかわらず、自分の息子だけが戻らないことへの焦りや不安が如実に表れていた。

――検閲要項に該当せず――

 私はそっと手紙を折りたたんでもとの封筒に戻すと、切り口の傍らに検閲印を押してその上からセロファンテープを張って封印をした。検閲印には検閲官ごとに異なった番号が刻まれており、誰が検閲したのか後で確認できるようになっていた。この不名誉な烙印を押すたびに私の罪が増えていくと考えると憂鬱な気分になった。封筒を検閲済用の箱に放り込むと、次の手紙に取りかかった。

二通目は、しばらく部屋を間借りさせてほしいと友人に懇願する内容であった。手紙の主は空襲で家を失って以来親族や知人の家を転々としているようであった。しかし、幼い子どもを連れているものだから敬遠されがちで、間借りできてもすぐに追い出されてしまう。終戦から一年以上経つも、いまだに住宅事情は悪く、この手紙の主のように住居を転々としている者は珍しくなかった。

――検閲要項に該当せず――

 私は先ほどと同様に封印を施して箱の中に放り込んだ。三通目は、夫をサイパンで失った未亡人が父母に宛てた手紙であった。彼女は夫の実家から幼い一人息子を残して、彼女自身は別の家に嫁ぐよう強要されていることを打ち明けていた。そこには母子を引き離そうとする夫の実家への恨みや、息子が彼女に捨てられたと誤解するのではないかという恐怖が鬼気迫る様子でつづられていた。

――検閲要項に該当せず――

 他にも様々な手紙を読み進めていったが、その大半は検閲要項には該当しないものの、いずれも悲惨きわまりない内容であった。まれにヤミ市で儲けたと思われる人間の景気の良い話もあったりしたが、そういったわずかな例外を除けば日本中が慟哭と貧困のなかで呻吟していることがうかがえた。私はこういった手紙を進駐軍が直接目を通さないことに強い不満を覚えた。もちろん彼らの大半は日本語を解さないのは知っている。しかしながら彼らが必要とする情報を有する手紙だけを摘発・翻訳させ、それらだけしか読まないというのであれば、もはやこういった手紙は人の心を映さない無機質な情報群でしかないだろう。そんなものをいくら読んだところで日本人の何が分かるというのだろうか。仁徳天皇には里からかまどの煙が上がらないのを見て免税したという伝説があるが、マッカーサーはそもそも煙など気にもとめないのだろう。

 昭和四十六年十一月三日、日本国憲法が公布されたことに伴い検閲官には新憲法に対する日本人の反応を注視するようにとの指示が通達されていた。しかし、実際のところ国民は日々の生活に追われており、憲法に言及した手紙など皆無であった。それくらい生きていくことに必死であったのだ。そもそも新憲法は検閲の禁止をうたっている。我々検閲官は苦笑するほかなかった。

 その後何通か検閲した私は、米兵に路上で殴られたという男の手紙と進駐軍を痛烈に批判した手紙(日本政府や解体された陸軍に対する批判も同じくらいにあった)を翻訳し、ミス・ヤマモトのもとへ持って行った。彼女はときおりその茶色がかった黒髪を掻き上げながら丁寧に目を通した。私は直立不動の姿勢で待機しながらその様子を盗み見て美しいと思った。やがて彼女は顔をほころばせながら「とても良く翻訳できています。手直しは必要ないでしょう。これらは私が預かりますので作業に戻ってください」と言った。私はミス・ヤマモトがこのように朗らかに笑うのを初めて見たため少し驚くと同時に、翻訳が無事受理されたことにほっと胸をなでおろしながら自席へ引き返した。

 やがて休憩時間になったため、私は外の空気を吸うために作業部屋を出ようとしたところを長内氏に呼び止められた。

「さっきの翻訳はどうだった。テーブル・マスターからだいぶ朱書をもらったんじゃないか」

「いえ、特には。そのまま受け取ってもらえました」

「へえ、それは君、大したもんだよ。あの女はかなり辛口の添削をするからね」

「そうなんですか。でも、最初ですから大目に見てくれたんじゃないでしょうか」

「いや、あの〈能面〉に限ってそれはないね」

「〈能面〉――どういう意味ですか」私はおうむ返しに尋ねた。

「まあ、あの女のあだ名みたいなもんだ、気にしなくて良い。この間、君みたいに新人の女学生が配属されたが、彼女に真っ赤になった訳文を突き返されて部屋の隅っこで泣いていたよ。結局その子はすぐに辞めてしまったな。まあせいぜい君も気を付けた方が良い。勤務成績は即給料に反映されるからな」

「単純に誤訳が少なければ給料が上がるんですか」

「それだけじゃない。検閲数、翻訳数、修正された回数、そういった数字が私たちの知らないところですべて事細かに記録されている。とにかく俺たちが怠けられないような仕組みがつくられているわけだ。進駐軍のこういったところにはまったく脱帽するしかないね。もっとも、人間様を機械のように働かせるやり方は気に食わないが」

私はただ黙ってうなずいた。長内氏は苦々しげに語っていたが、私個人としては静かな環境で黙々と作業をするのは嫌いではなかったし、こういった能率主義も理にかなっていて好感が持てたからだ。

「まあ、この仕事には向き不向きがある。久賀とかいう君と同じような学生がいるが、そいつなんかは検閲を楽しんでいるような節さえある。他人の手紙を見るなんてなかなかできるものじゃないってな。人間的には問題があるとしか言えないが、テーブル・マスターからの評価はすこぶる高いらしい」

「久賀は――たしかにそういう男かもしれません」私は彼の名を耳にして少し動揺しながらそう答えた。

「何だ、知り合いなのか。ああいうのはろくな死に方をしない――と言いたいところだが、この御時世だとむしろああいうのに限って、したたかに生きていくのかもしれないな。さあ、そろそろ検閲室に戻ろう」

 私は久賀という男を相変わらず軽蔑していたが、その一方で以前彼が言っていたことを今なら少し理解できるような気がした。他人の私信を盗み読みしてはならないということは子供でも知っていることだが、だからこそあえてそれを犯すことに甘美がある。それに加えて、私は人々が普段見せない本当の姿を手紙の中に垣間見たような気がしたのだ。まるで幽鬼のように一日一日をかろうじて生き延びている人々も、親しい人に宛てた手紙のなかでは人間らしい姿を見せる。極限状態の中で獣に退化した人間が、童話や神話のようにその瞬間だけは人としての姿を取り戻すのだ。私はそこに満足感のようなものや一種の慰みを見出していたのかもしれない。たしかに久賀の言うとおり、こういった体験は他では決して味わえないものであった。しかし、心の中が満たされるのと同時に酷い自己嫌悪に襲われるのもたしかであった。このような非人道的な行為に悦びを覚える自分は狂っているのではないか、そう思われた。

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