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鬼火  作者:
第一章 焦土
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第一章 焦土(1/2)

 玉音放送が列島にこだましたとき、府中の銃器工場で働いていた私は油まみれのまま屹立していた。工場内に運び込まれた年代物のラジオを前にして息を殺していた者の多くは私と同年代の学生か白髪混じりの熟練工であった。戦争の長期化と戦局の悪化にともない技術者も根こそぎ徴兵される一方で、軍需産業も大量の人員を必要としていたため代わって学生が勤労動員というかたちで慣れない作業に従事させられていた。だが本来私は戦場に立っていなければならなかった。というのも昭和十八年の十月から十一月にかけて一定年齢以上の学生に対して実施された臨時徴兵検査(いわゆる「十八臨徴」)の対象に私も含まれていたため、通常ならば他の学生と同様に十二月には出征するはずであったからだ。しかしながら幼少期から病弱であった私は短躯で胸板も薄く、お世辞にも恵まれた体型とは言えなかったうえ、検査前にちょうど肺を病んで大学も休学していたこともあって兵役を免除された。

 私はこれを決して単純に僥倖と捉えることができなかった。当時、政府や新聞は口が裂けても言わなかったものの、戦況が苦しくなってきていることは国民も薄々感じ取っていた。また政府や新聞がわめきたてるデマゴギーを鵜呑みにするわけでもなかった。しかしそれを理解したうえでなお国を守るために戦う意思を有していた。そして同時に戦地へ赴いた他の学生たちへの劣等感を募らせた。

 とはいえ、この一点をもって早見能啓(よしひろ)という男を評価するのは早計だろう。当時の私の思想的な見解を述べれば、大東亜共栄圏や八紘一宇といった政府の宣伝を鵜呑みにはしておらず、居丈高な軍人連中もあまり好きではなかった。しかし他方で、一度始めた戦については必ず勝つべきであり、降伏して無様な姿をさらすくらいなら本土決戦でも何でもすべきだと考えていた。その点で私は間違いなく日本の勝利を心から願う「愛国心」の持ち主であった。

 だが、もし当時の私に、他の日本人と比べて欠けているものがあったとすれば、熱狂や真剣さであっただろう。原因は色々と考えられたが、徴兵免除がそのひとつであったことは間違いなく、あれが完全に私をこの戦争における部外者にしてしまったのだ。いや、それは言い訳に過ぎず、部外者になったことで一番安心したのは私自身であったのかもしれない。というのも、私はあらゆる分野において、これらを持ち合わせていなかったのだから。

 心優しい友人などは自身が戦地へ赴くにもかかわらず私の徴兵免除を運が良いと喜んでくれたが私はどう返答して良いのか分からなかった。死地へ赴く彼らと私の間には見えない壁があり、それを前にしてはどのような言葉も無力であるように感じられた。その後私は大学に残り学業を続けていたが、昭和十九年の秋ごろから府中の工場で働かされるようになり、そのまま終戦を迎えることとなった。そこで働く私と同じように徴兵を免れた学生のなかには、せっかく大学に入ったのに学業に専念できないと不満を漏らす者もいたが、私自身は黙々と眼前の作業をこなしていくことは嫌いでなかったのでさほど苦痛には感じなかった。

 八月十五日になって正午に政府から「重大発表」があるらしいと聞いた私は、午前中は気もそぞろで作業に手がつかなかった。これは別に私に限ったことではなく、他の学生や工員なども同様であった。内容は何であろうか。天皇陛下が自らなさるというのだから前代未聞である。ソ連に対して宣戦布告の大勅を下すのだと気炎を吐く者もいれば、我々に本土決戦の覚悟を命じるのだと豪語する者もいた。ただ、皆はっきりとは口に出さなかったものの、降伏するのではという考えが脳裏をよぎったのではないかと思う。正午、固唾をのんでラジオの前に立つ我々を包む静けさと緊張感。アナウンサーの声が無機質に響く。容赦なく照りつける日差しで工場内は蒸し風呂のように暑かったが、全員無言のまま直立不動の姿勢を崩さず、そのときを待った。

「陳深ク世界ノ大勢ト――」

 このとき国民の大半が初めて天皇陛下の御声に接し何がしかの感慨を抱く一方で、敗戦という事実の受けとめ方は様々であった。現実を受け入れられず怒り狂ったように徹底抗戦を訴える者、悔し涙を流す者、虚脱感に襲われる者、どこかほっとしている者。この数年間、日本人が文字どおり身も心も捧げてきた「聖戦」にこの国は敗れたのだ。平然としていられる方がおかしい。そしてそういった意味で私はおかしな部類に入ったのかもしれない。玉音放送を聞いて、私がまず初めに考えたのは食事のことであった。当時の食糧事情は極度に逼迫していたため、戦争が終わればあの芋九米一の「まぜ飯」から解放されるのではと淡い期待を寄せたのだ(周知のとおり、この期待は見事に裏切られる)。

 放送終了後、私たち学生はいそいそと仕事道具を片付けて工場を後にした。いずれにせよもはや軍事品をつくる必要はなくなったのだ。日本の降伏を頑として認めなかった者も肉体労働に従事するよりは学業に戻りたかったらしく、工場に残って作業を続行しようとはしなかった。

 東京の街は前日までのそれとはまったく異なって見えた。市街地や軍事拠点はB29から投下された無数の焼夷弾によって焦土と化しており、慢性的な物資不足からその大部分について復興のめどは立っていなかった。しかしながら、降伏するまではまだ希望を持つことができたのだ。勝利には犠牲が伴うと自らに言い聞かせていれば現実から眼を背けていられた。だがその魔法が解けたとき、我々は途方に暮れてしまった。手もとにはもはや何も残っておらず、一面の焼野原を前に新しい生活を想像することなどできなかった。事実、その日の生活にさえ困っていた状況で、未来を思い描くことなど滑稽でしかなかった。それだけではない。日本が敗れたことで連合国軍が乗り込んでくるだろう。さらに、火事場泥棒のように宣戦布告してきたソ連も日本占領を虎視眈々と狙っている。一部の政治家や軍人が国体の維持について頭を悩ませているのとは別の次元で、庶民は不安を抱えていた。往来の人々や電車の乗客などの顔を見ても、明らかに前日までとは打って変わって憔悴しきっていた。


 三鷹の高橋家に戻ると小柄な叔母がいつものようにくたびれたもんぺ姿でせっせと家事をこなしていた。

「叔母さんただいま」普段と変わらない後姿を認めると急に安心して知らずと甘えたような声が出た。

「あら、お帰りなさい。今日は早いのね」台所で薩摩芋のつるを切っていた叔母はこちらに背を向けたまま、いつもと変わらない明るい調子で応じた。

「戦争が終わったんだから、もう工場で働く必要なんてありませんよ。叔母さんもラジオ聞きましたか」叔母の様子が普段とあまりに変化がなかったためひょっとすると敗戦のことを知らないのではないかと思って尋ねた。

「もちろん聞きましたよ。里田さんのお家で隣組の皆さんと一緒に」叔母は相変わらずこちらに顔を向けることなくやはり同じような調子で淡々と答えた。私はそんな彼女を少し薄情だと思った。

「これからどうなるんでしょうね」

 私は答えなき問いかけを投げかけた。それは叔母に対してかあるいは自分自身に対してかも分からなかったが、当時の日本で誰ひとりこの質問に答え得る者はいなかったであろう。叔母は黙々とつるを切り続けていた。私はぼんやりと包丁がまな板を叩く音を聞いていたが、規則的なその音が段々と乱れていくのに気付いた。再び叔母の方に眼をやるとその小さな背中は微かに震えていた。私は自身の浅はかさを呪った。敗戦の事実を突きつけられて動揺しないわけなどないのだ。ただ叔母は敗戦を口実に工場を抜け出してきた私などとは違って、絶望的な食糧事情のなかでも工夫を凝らして少しでもまともな食事をつくろうと普段どおり台所に立っているのだ。私はこのとき女は強いと改めて思った。

 私はしばらくの間、叔母の背中を見つめていたが、やがていたたまれなくなって自室へ引き下がった。本来なら優しい言葉のひとつでもかけるべきなのだろうが、叔母との微妙な距離感がそれを躊躇わせた。


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