顔のない顔
のっぺらぼうだ。
すみません、と声をかけられ、携帯から顔を上げると、目の前にスーツを着た、のっぺらぼうが立っていた。
俺は眉をひそめ、ベンチに座ったまま、のっぺらぼうの男を見上げる。
男には、顔がない。
正確には、眉と両眼と鼻と口が、顔についていない。
のっぺりした顔面は、全面、皮膚で覆われていて、孔らしい孔は見当たらない。
息苦しくないのだろうか?
「お願いしたいことがあるのですが……」
口がないにもかかわらず、男は器用にしゃべった。
「ご覧の通り、わたしには顔がありません。実は、紛失してしまったのですよ、顔を。
会社の昼休みに、蕎麦を食べた後、一人でこの三途ノ川公園にやって来ました。天気がいいですからね、今日は。
公園内を散歩し、ベンチで休んで、職場に戻る前に公衆トイレに入ったのですが……手洗い場の鏡を見て、初めて気づいたんです。顔をなくしてしまったことに」
両眼がないのに、どうして鏡に映った自分の顔を確認できたのだろうか?
次から次へ、疑問がわいてくる。
「その表情……もしかして、どうして口がないのにしゃべったり、眼がないのに見えたりするんだって、思っていませんか?」
眼がない割に眼力のある、のっぺらぼうだ。
「そうですよね。考えてみれば、不思議ですよね。
……でも、ほら、事故で腕を失くしても、まるで腕があるような感覚だけ残るっていうじゃないですか。
あれと同じだと思うんです。人間の脳って、すごいですよね」
そういうものだろうか? 少々、腑に落ちないが……。
気持ちのいい陽射しを浴びたくて公園にやって来たのは、俺も同じだった。
得意先との打ち合わせを済ませ、帰社する前に、公園のベンチで缶コーヒーでも飲みながら一息つこうと思ったのだ(なにしろ気難しい顧客なので)。
しかしささやかな息抜きの時間は、想定外の顔をなくした男の登場によって、台無しになったようだ。
「なんですか、お願いしたいことっていうのは」
「一緒に探していただきたいんです、わたしの顔を」
「警察に届ければいいじゃないですか」
「お巡りさんは苦手で……」
男は渋面をつくった……ような気がした。
「公園内で顔を落としたのは確実なんです。
三途ノ川公園に入る直前まで、同僚と話しながら歩いてきたので。
同僚と別れ、一人で公園に来てから、花壇いっぱいに咲いた水仙を観たり、並木道を歩いたり、芝生を駆け回る子供を目で追いかけたり、鴨が泳ぐ池を眺めたりしました。
それからベンチに腰かけ少々うたた寝をして、トイレに入り、顔がないことに気づいたんです。
まず公園の入口までさかのぼって、歩いてきたルートをたどりながら探してみました。
しかし、見つけられませんでした」
「三途ノ川公園の管理事務所に行ってみては? 遺失物で届けられているかもしれない」
「はい、行ってみました。でも、不在でした。事務所には誰もいなかったんです」
「足跡をたどっても見つからなかったんじゃ、難しいと思いますよ。
誰かに持ち去られた可能性もある。犬がくわえていったかもしれない。風に遠くまで飛ばされたっていうことも考えられる。
今でも公園内にあるとは限らないでしょう」
「公園内にあることは確実で……いえ、もちろん百パーセントとは言えませんが、どうしてもそんな気がするんです。
なにしろ三十五年、自分の身体の一部だったわけですから。たとえ離れ離れになっても、なんとなく感覚的に分かるんです。なんかこう、ムズムズするというか」
つい、大仰にため息をもらしてしまう。
とにかく諦めさせないことには、埒が明かない。
「申し訳ありませんが、他を当たってもらえませんか? 一応、勤務中なんですよ。今はちょっと休憩していただけで、そろそろ帰社しないといけない」
「わたしだって勤務中です」
ふいに挑戦的な口調で、男が言う。
「会社に電話して、紛失した顔を探す許可をもらっているんです。勤務時間内であることには変わりません」
俺は口もとをゆがめた。
「いい会社ですね、おたくのところは……。こっちは職場に戻ったら、仕事が山ほど控えているんですよ。
打ち合わせた案件をまとめなければいけないし、それと別に新たな企画書も書かないといけない。
帰社が遅くなれば、またぞろ残業時間が増えて、上司に睨まれる羽目になるんだ」
「一時間もつきあってくださいとは、言いません」
男はさえぎるように言う。
「三十分……いえ、二十分で結構です。もし見つけてくださったら、それなりに謝礼もお渡しします。
ご無理を言って申し訳ありませんが、後生ですから、お願いします」
俺は胸のうちで悪態をついた。
「はっきり言います。お手伝いできません。たとえ二十分でも、十分でも、無理なものは無理です」
「無理は承知です。そこを曲げて、なんとかお願いできないでしょうか?」
「できません」
「そんなこと言わずに、お願いしますよ」
「別に私でなくても、いいでしょう。他の人に頼んでください」
「力を貸してください。どうか、お願いします」
「だから無理ですって」
「お願いします。お願いします」
「駄目です」
「強情だな、アンタも」
「…………は?」
男の肩が、ぶるぶると震えている。
心なしか、のっぺらぼうの顔が赤みを帯びているように見える。
どこか遠くで、車のクラクションが鳴った。
「これだけ頼んでいるんだから、少しくらい手伝ってくれたって、いいじゃないか。つべこべ言わずに、手伝ったらどうだ」
俺は呆れて、一瞬絶句してしまう。
「それが人にものを頼むときの態度か?」
「うるせえよ」男はクイと顎を上げる。「さっさと手伝えっつってんだろ」
「断る」
「手伝えよ、このバカ」
俺はベンチから立ち上がった。のっぺらぼうの顔が真正面にある。
拳を握りしめ、押し殺した声で、俺は言う。
「いい加減、行きますよ。どいてください」
「行かせねえぞ」男は両腕を広げて、通せんぼする。「意地でも通さないからな」
苛立ちを必死にこらえながら、
「どけよ。邪魔だ」
「ふざけんな、この野郎。殺されたいのか」
「どけって言ってるだろ」
男の肩に手をかけると、激しく払われた。
正面の顔の、かつて目があった辺りを、きつく睨んでやる。
パンクロッカーよろしく男は中指を立て、
「ファックユー」
罵倒し、左手で俺の胸ぐらをつかむ。
顎の下に、ごつごつした拳が食い込む。ネクタイが絞られ、息苦しい。
やめろ、という声が出せない。これじゃ窒息してしまう。
眼を大きく見開くと、掌が。正面から飛んできた掌。
左眼のすぐ下で、風船の破裂音が鳴る。
ひどい眩暈と耳鳴り。俺は崩れるように、ベンチの前に倒れ込んだ。
平手打ちだった。
のっぺらぼうから平手打ちを食らうなんて、生まれて初めての経験だ。
思いのほかダメージは大きい。なんて力だろう。俺と似たような体格のくせに。
俺は倒れた姿勢のまま、男をうかがう。そこに、奴の姿はなかった。
逃げられたようだが、もう関わりたくなかったので、構わない。
立ち上がると、貧血みたいに、頭がクラっとする。
今にも吐きそうなほど、気分が悪い。
まったく、さんざんな目にあったものだ。
妙なことに巻き込まれ、すっかり調子が狂ってしまった。
これは天罰だろうか?
仕事をサボって、気ままに公園でのんびりとくつろいでいる、たるんだ勤務態度に対しての。
……よしてくれ。
嫌な上司にも腹を立てず、クライアントの無理な注文にも応えて、日々真面目に働いているんだ。
ちょっと息抜きしたくらいで、咎められる筋合いはない。
本当は休憩をやり直したいくらいだが、これ以上遅くなれば、後の仕事に差し支える。
とにかく会社に戻ろう。
飲みかけの缶コーヒーを屑籠に放り投げ、ベンチを後にし、社用車を停めた駐車場へ向かう。
あたたかな陽射し。青空にふわふわ浮かぶ、真白な雲。
野鳥のさえずりが、上空から聞こえてくる。
ゆっくりとした足どりで散歩を楽しむ老夫婦。
ランニングシューズで軽やかに駆けていく青年。
ワイアー・フォックス・テリアを連れた婦人。
ベンチで肩を寄せ合う若いカップル。
平和な光景を眺めながら、むしゃくしゃした気分をととのえていく。
嫌なことは、早く忘れるのがいい。
公園の並木道を抜けた先に広がる駐車場には、数台の車が停められている。
軽乗用車の横に立つ女性と小さな男の子。おそらく親子だろう。
男の子は接近してくる俺をじっと見ているが、子供はどうも苦手で、愛想よく返せない。
男の子は俺の顔を興味深く目で追い続けている。
それに気づかないふりをして、親子の横を通り過ぎた。
直後、後ろから、男の子の声が耳に入る。
ねえ、おかあさん、あの人、のっぺらぼうだったよ。
思わず振り返ると、母親が慌てて子供の口を手で覆っていた。
俺は大股で社用車に戻った。
そしてキーを取り出すより先に、ドアミラーをのぞき込む。
鏡に映った顔に、眼はなかった。
にもかかわらず「眼がない」という状況を確認することができた(不思議なことに)。
「……いつからだ?」口がないのに、独り言がこぼれる。「いつから、俺の顔はなくなった?」
さっきベンチに座って、缶コーヒーを飲んでいたが、その後のことになるだろう。
なぜなら、口がなければ缶コーヒーを飲めないからだ。
その後、顔を紛失した男が現れた。
男と口論になり、男から平手打ちを食らった。
「あのときか……」
男が俺の顔に平手打ちを浴びせ、同時に、俺の顔を掠め取った……その可能性が高い。
俺の顔を打つ際、げんこつではなく平手だったのも、そのためではないのか。
ずいぶんと手際よくやられたものだ。
……なんて感心している場合いではない。奪われた俺の顔を、早く取り戻さないと。
しかし、奴に逃げられてしまった。今さら追いかけても、捕まえるのは困難極まりないだろう。
……待てよ。
奴は会社の昼休みに、この三途ノ川公園に来たと言っていた。
それならきっと、公園周辺の会社に勤めているはずだ。
この付近を探し回れば、案外、容易に見つけられるかもしれない。
もしくは最寄り駅の前で張り込んでいれば……。
だが。
果たして、奴の話が真実だと、どうして言いきれる?
奴は初めから顔を奪う目的で、俺に近づいた。
最後に平手打ちへと至るように、話を展開していった。
突然怒りだしたのも、口論を持ちかけたのも、挑発的な態度をとったのも、すべて芝居だった。
――そうは考えられないだろうか?
思い起こせば、奴の言動に不自然なところはあった。
会話の途中から奴はまるで人が変わってしまったが、あまりにも唐突だった。
手伝いをあくまで俺に頼もうと固執し続けたのだって、おかしな話だ。
ファックユーなんて、台詞も芝居がかっていた。
「くそ」
ガッ。
俺は社用車のボディーを革靴で蹴り上げた。ドアの下部が大きく凹んでいる。
車には乗らず、俺は公園内に取って返した。
並木道に転がる空き缶を、俺は力任せに蹴り飛ばす。
缶が転がっていく先に、親子が。さっき駐車場ですれ違った親子だ。
母親は後ろから近づいてくる俺に気付くと、子供の手を引き、慌てて逃げ出した。
まるで化け物を目にしたみたいに。
若いカップルは、まだベンチにいた。
俺は歩きながら(眼がないのをいいことに)カップルをじろじろ観る。
彼氏は、気まずそうに視線を泳がせている。
気が強そうな彼女は、俺のことを睨んでいる。
さらに歩を進め、さっき休憩していた場所まで、戻ってきた。
嫌な記憶がまだ、生々しく残るベンチ。
ベンチには、スーツ姿の男が腰かけている。
休憩中の男のもとへ、俺は歩み寄った。
「すみません」
携帯をいじっていた男が、顔を上げる。
俺だ。
眉をひそめてこっちを見るその顔は、顔を奪われる前の、俺の顔だった。
一瞬、鏡を見ているのかと思ったが、そんなはずはない。俺には顔がないのだから。
俺は続ける。
「お願いしたいことがあるのですが……」




