表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

顔のない顔

作者: エキセントリクウ

 


 のっぺらぼうだ。


 すみません、と声をかけられ、携帯から顔を上げると、目の前にスーツを着た、のっぺらぼうが立っていた。

 俺は眉をひそめ、ベンチに座ったまま、のっぺらぼうの男を見上げる。


 男には、顔がない。

 正確には、眉と両眼と鼻と口が、顔についていない。

 のっぺりした顔面は、全面、皮膚で覆われていて、孔らしい孔は見当たらない。

 息苦しくないのだろうか?


「お願いしたいことがあるのですが……」

 口がないにもかかわらず、男は器用にしゃべった。

「ご覧の通り、わたしには顔がありません。実は、紛失してしまったのですよ、顔を。

会社の昼休みに、蕎麦を食べた後、一人でこの三途ノ川公園にやって来ました。天気がいいですからね、今日は。

公園内を散歩し、ベンチで休んで、職場に戻る前に公衆トイレに入ったのですが……手洗い場の鏡を見て、初めて気づいたんです。顔をなくしてしまったことに」


 両眼がないのに、どうして鏡に映った自分の顔を確認できたのだろうか? 

 次から次へ、疑問がわいてくる。


「その表情……もしかして、どうして口がないのにしゃべったり、眼がないのに見えたりするんだって、思っていませんか?」


 眼がない割に眼力のある、のっぺらぼうだ。


「そうですよね。考えてみれば、不思議ですよね。

……でも、ほら、事故で腕を失くしても、まるで腕があるような感覚だけ残るっていうじゃないですか。

あれと同じだと思うんです。人間の脳って、すごいですよね」


 そういうものだろうか? 少々、腑に落ちないが……。


 気持ちのいい陽射しを浴びたくて公園にやって来たのは、俺も同じだった。

 得意先との打ち合わせを済ませ、帰社する前に、公園のベンチで缶コーヒーでも飲みながら一息つこうと思ったのだ(なにしろ気難しい顧客なので)。

 しかしささやかな息抜きの時間は、想定外の顔をなくした男の登場によって、台無しになったようだ。


「なんですか、お願いしたいことっていうのは」

「一緒に探していただきたいんです、わたしの顔を」

「警察に届ければいいじゃないですか」

「お巡りさんは苦手で……」

 男は渋面をつくった……ような気がした。

「公園内で顔を落としたのは確実なんです。

三途ノ川公園に入る直前まで、同僚と話しながら歩いてきたので。

同僚と別れ、一人で公園に来てから、花壇いっぱいに咲いた水仙を観たり、並木道を歩いたり、芝生を駆け回る子供を目で追いかけたり、鴨が泳ぐ池を眺めたりしました。

それからベンチに腰かけ少々うたた寝をして、トイレに入り、顔がないことに気づいたんです。

まず公園の入口までさかのぼって、歩いてきたルートをたどりながら探してみました。

しかし、見つけられませんでした」

「三途ノ川公園の管理事務所に行ってみては? 遺失物で届けられているかもしれない」

「はい、行ってみました。でも、不在でした。事務所には誰もいなかったんです」

「足跡をたどっても見つからなかったんじゃ、難しいと思いますよ。

誰かに持ち去られた可能性もある。犬がくわえていったかもしれない。風に遠くまで飛ばされたっていうことも考えられる。

今でも公園内にあるとは限らないでしょう」

「公園内にあることは確実で……いえ、もちろん百パーセントとは言えませんが、どうしてもそんな気がするんです。

なにしろ三十五年、自分の身体の一部だったわけですから。たとえ離れ離れになっても、なんとなく感覚的に分かるんです。なんかこう、ムズムズするというか」


 つい、大仰にため息をもらしてしまう。

 とにかく諦めさせないことには、埒が明かない。


「申し訳ありませんが、他を当たってもらえませんか? 一応、勤務中なんですよ。今はちょっと休憩していただけで、そろそろ帰社しないといけない」

「わたしだって勤務中です」

 ふいに挑戦的な口調で、男が言う。

「会社に電話して、紛失した顔を探す許可をもらっているんです。勤務時間内であることには変わりません」


 俺は口もとをゆがめた。


「いい会社ですね、おたくのところは……。こっちは職場に戻ったら、仕事が山ほど控えているんですよ。

打ち合わせた案件をまとめなければいけないし、それと別に新たな企画書も書かないといけない。

帰社が遅くなれば、またぞろ残業時間が増えて、上司に睨まれる羽目になるんだ」

「一時間もつきあってくださいとは、言いません」

 男はさえぎるように言う。

「三十分……いえ、二十分で結構です。もし見つけてくださったら、それなりに謝礼もお渡しします。

ご無理を言って申し訳ありませんが、後生ですから、お願いします」


 俺は胸のうちで悪態をついた。


「はっきり言います。お手伝いできません。たとえ二十分でも、十分でも、無理なものは無理です」

「無理は承知です。そこを曲げて、なんとかお願いできないでしょうか?」

「できません」

「そんなこと言わずに、お願いしますよ」

「別に私でなくても、いいでしょう。他の人に頼んでください」

「力を貸してください。どうか、お願いします」

「だから無理ですって」

「お願いします。お願いします」

「駄目です」

「強情だな、アンタも」

「…………は?」


 男の肩が、ぶるぶると震えている。

 心なしか、のっぺらぼうの顔が赤みを帯びているように見える。

 どこか遠くで、車のクラクションが鳴った。


「これだけ頼んでいるんだから、少しくらい手伝ってくれたって、いいじゃないか。つべこべ言わずに、手伝ったらどうだ」


 俺は呆れて、一瞬絶句してしまう。


「それが人にものを頼むときの態度か?」

「うるせえよ」男はクイと顎を上げる。「さっさと手伝えっつってんだろ」

「断る」

「手伝えよ、このバカ」


 俺はベンチから立ち上がった。のっぺらぼうの顔が真正面にある。

 拳を握りしめ、押し殺した声で、俺は言う。


「いい加減、行きますよ。どいてください」

「行かせねえぞ」男は両腕を広げて、通せんぼする。「意地でも通さないからな」

 苛立ちを必死にこらえながら、

「どけよ。邪魔だ」

「ふざけんな、この野郎。殺されたいのか」

「どけって言ってるだろ」


 男の肩に手をかけると、激しく払われた。

 正面の顔の、かつて目があった辺りを、きつく睨んでやる。

 パンクロッカーよろしく男は中指を立て、

「ファックユー」

 罵倒し、左手で俺の胸ぐらをつかむ。

 顎の下に、ごつごつした拳が食い込む。ネクタイが絞られ、息苦しい。

 やめろ、という声が出せない。これじゃ窒息してしまう。


 眼を大きく見開くと、掌が。正面から飛んできた掌。

 左眼のすぐ下で、風船の破裂音が鳴る。

 ひどい眩暈と耳鳴り。俺は崩れるように、ベンチの前に倒れ込んだ。


 平手打ちだった。

 のっぺらぼうから平手打ちを食らうなんて、生まれて初めての経験だ。


 思いのほかダメージは大きい。なんて力だろう。俺と似たような体格のくせに。

 俺は倒れた姿勢のまま、男をうかがう。そこに、奴の姿はなかった。

 逃げられたようだが、もう関わりたくなかったので、構わない。


 立ち上がると、貧血みたいに、頭がクラっとする。

 今にも吐きそうなほど、気分が悪い。


 まったく、さんざんな目にあったものだ。

 妙なことに巻き込まれ、すっかり調子が狂ってしまった。

 これは天罰だろうか?

 仕事をサボって、気ままに公園でのんびりとくつろいでいる、たるんだ勤務態度に対しての。


 ……よしてくれ。


 嫌な上司にも腹を立てず、クライアントの無理な注文にも応えて、日々真面目に働いているんだ。

 ちょっと息抜きしたくらいで、咎められる筋合いはない。


 本当は休憩をやり直したいくらいだが、これ以上遅くなれば、後の仕事に差し支える。

 とにかく会社に戻ろう。


 飲みかけの缶コーヒーを屑籠に放り投げ、ベンチを後にし、社用車を停めた駐車場へ向かう。


 あたたかな陽射し。青空にふわふわ浮かぶ、真白な雲。

 野鳥のさえずりが、上空から聞こえてくる。

 ゆっくりとした足どりで散歩を楽しむ老夫婦。

 ランニングシューズで軽やかに駆けていく青年。

 ワイアー・フォックス・テリアを連れた婦人。

 ベンチで肩を寄せ合う若いカップル。


 平和な光景を眺めながら、むしゃくしゃした気分をととのえていく。

 嫌なことは、早く忘れるのがいい。


 公園の並木道を抜けた先に広がる駐車場には、数台の車が停められている。


 軽乗用車の横に立つ女性と小さな男の子。おそらく親子だろう。

 男の子は接近してくる俺をじっと見ているが、子供はどうも苦手で、愛想よく返せない。

 男の子は俺の顔を興味深く目で追い続けている。

 それに気づかないふりをして、親子の横を通り過ぎた。


 直後、後ろから、男の子の声が耳に入る。

 ねえ、おかあさん、あの人、のっぺらぼうだったよ。


 思わず振り返ると、母親が慌てて子供の口を手で覆っていた。


 俺は大股で社用車に戻った。

 そしてキーを取り出すより先に、ドアミラーをのぞき込む。

 鏡に映った顔に、眼はなかった。

 にもかかわらず「眼がない」という状況を確認することができた(不思議なことに)。


「……いつからだ?」口がないのに、独り言がこぼれる。「いつから、俺の顔はなくなった?」


 さっきベンチに座って、缶コーヒーを飲んでいたが、その後のことになるだろう。

 なぜなら、口がなければ缶コーヒーを飲めないからだ。


 その後、顔を紛失した男が現れた。

 男と口論になり、男から平手打ちを食らった。


「あのときか……」


 男が俺の顔に平手打ちを浴びせ、同時に、俺の顔を掠め取った……その可能性が高い。

 俺の顔を打つ際、げんこつではなく平手だったのも、そのためではないのか。


 ずいぶんと手際よくやられたものだ。

 ……なんて感心している場合いではない。奪われた俺の顔を、早く取り戻さないと。


 しかし、奴に逃げられてしまった。今さら追いかけても、捕まえるのは困難極まりないだろう。


 ……待てよ。


 奴は会社の昼休みに、この三途ノ川公園に来たと言っていた。

 それならきっと、公園周辺の会社に勤めているはずだ。

 この付近を探し回れば、案外、容易に見つけられるかもしれない。

 もしくは最寄り駅の前で張り込んでいれば……。


 だが。

 果たして、奴の話が真実だと、どうして言いきれる?


 奴は初めから顔を奪う目的で、俺に近づいた。

 最後に平手打ちへと至るように、話を展開していった。

 突然怒りだしたのも、口論を持ちかけたのも、挑発的な態度をとったのも、すべて芝居だった。


 ――そうは考えられないだろうか?


 思い起こせば、奴の言動に不自然なところはあった。


 会話の途中から奴はまるで人が変わってしまったが、あまりにも唐突だった。

 手伝いをあくまで俺に頼もうと固執し続けたのだって、おかしな話だ。

 ファックユーなんて、台詞も芝居がかっていた。


「くそ」


 ガッ。

 俺は社用車のボディーを革靴で蹴り上げた。ドアの下部が大きく凹んでいる。


 車には乗らず、俺は公園内に取って返した。


 並木道に転がる空き缶を、俺は力任せに蹴り飛ばす。

 缶が転がっていく先に、親子が。さっき駐車場ですれ違った親子だ。

 母親は後ろから近づいてくる俺に気付くと、子供の手を引き、慌てて逃げ出した。

 まるで化け物を目にしたみたいに。


 若いカップルは、まだベンチにいた。

 俺は歩きながら(眼がないのをいいことに)カップルをじろじろ観る。

 彼氏は、気まずそうに視線を泳がせている。

 気が強そうな彼女は、俺のことを睨んでいる。


 さらに歩を進め、さっき休憩していた場所まで、戻ってきた。


 嫌な記憶がまだ、生々しく残るベンチ。

 ベンチには、スーツ姿の男が腰かけている。


 休憩中の男のもとへ、俺は歩み寄った。


「すみません」


 携帯をいじっていた男が、顔を上げる。


 俺だ。


 眉をひそめてこっちを見るその顔は、顔を奪われる前の、俺の顔だった。

 一瞬、鏡を見ているのかと思ったが、そんなはずはない。俺には顔がないのだから。


 俺は続ける。


「お願いしたいことがあるのですが……」








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ