第8話
その夜、明日この屋敷を出ると決めた俺は、初めてロレアーヌ嬢の部屋を訪れた。伯爵に王都へ行くことを伝え、その許可をもらったことを彼女に伝え、礼と別れを告げるためだ。結局、助けてくれたのに彼女に何も返すことができなかった。それだけが心残りだ。王都に戻り計画を実行する。そうすれば、俺も無事では済まないだろう。彼女は俺のことなんか忘れるんだろうな。忘れられて当然だ、何の礼もなしに消えた男なんて。忘れて、幸せになってくれたら、それでいい。せめて、彼女の幸せを願うことくらいは、許されるだろうか。
教えてもらった彼女の部屋の前に立ち、ノックをする。
「アルです。お嬢様、少々お時間よろしいでしょうか。」
「珍しいわね、あなたから訪ねてくるなんて。ちょっと待っててくれる?」
「はい。」
そう数分もしないうちに、彼女は出てきた。なぜか上に羽織を羽織っている。
「行くわよ。」
「え、どこに行かれるのですか?」
俺の問いに、彼女は微笑んで答えた。海よ、と。
彼女についていく。はじめてみる夜の海は、とても美しい。静かな波の音と海に映る月、潮風の吹かれながら眺めるととても心が落ち着く。不意に彼女が立ち止った。彼女は、木に身を任せて海を眺めている。そして、共についてきていた侍女に少し離れるよう命じた。心得ていたのか、侍女はこちらから見えないところに移動した。ほとんど気配も感じない。彼女とこの世に二人きり、そんな幻覚にとらわれそうだ。
「美しいでしょう?ここの海は。私はね、夜にこの景色が見たくて毎日、お父様たちの反対を押し切って、この海を見に来ているのよ。」
唐突に話し出した彼女。最初は、何を話しているかわからなかった。聞いているうちに、今彼女が立っている位置に俺が倒れていたこと、その時の状況の話だと気が付いた。思った以上にひどい状態だった俺を彼女は介抱していてくれたのだ。礼もせずに出ていくことに申し訳なくなる。
「あの、助けていただいたこと、本当に感謝しています。ありがとうございました。でも、俺…」
「明日には出ていくのでしょう?お父様があなたを呼んだ時点で、なんとなく気が付いたわ。」
彼女は話している間、俺を見ずにずっと海を見つめている。彼女はすべて知ったうえで、俺と話しているのだ。不意に彼女がこっちに向き直った。
「あなたはね、ここで倒れているときにね、魘されながらお母様を呼び続けていたのよ。その時から、あなたは無理してでも帰るんじゃないかと思っていたの。大切な何かを残してきたんだろうって分かっていたの。だからこそ、私はあなたの正体を知りたかった。あなたが話してくれるまで、ここにいてもらうつもりだった。でも、決めてしまったのでしょう?お父様もそれを了承したのでしょう?なら、あきらめるわ。あなたについて私は詮索しない。」
その言葉を最後に、彼女はまた海を見つめ始めた。何をどう返せばいいのかわからなくなる。何も知らないはずなのに、すべてを受け入れてくれる人。俺はそんな人に初めて出会った。やはり彼女を巻き込むわけにはいかない。
「やっぱり一つだけ聞かして?」
かなり長い時間海を眺めていた。そろそろ帰りましょう、と声をかけようとしたとき彼女は言った。
「お母様はご無事なの?」