結婚するの! 前編 (主人公の両親の馴れ初め)
ぱた、と軽い音を立てて写真立てが倒れた。ハタキがひかかってしまった。毎度よく引っかかる写真立てだ。
「あら?」
写真立てを立てて、私は写真が変わっていることに気づいた。
娘の結婚式の写真だったはずだが、いつの間にかただのツーショットになっている。誓いのキスのシーンで恥ずかしがっていたから、娘が変えたのだろう。二人の新居がバックなので最近だろうが気づかなかった。
「…ふふ」
手にとって見て、思わず笑みがこぼれる。
一時期暗かったのが嘘のような、幸せでたまらないと言うような笑顔だ。
そういえば、私も結婚したてのころはこんな感じだった。嬉しくてたまらなくて、意味もなく浮かれていた。
懐かしい。今ももちろん幸せだけど、あの頃が懐かしく、眩しく感じる程度には落ち着いている。
私と夫は、娘夫婦と同じように幼なじみで少し年が離れていた。あの頃はお兄ちゃんと呼んでいて、だから娘が隣の男の子をお兄ちゃんと呼び出した時は意味もなくにやにやしたものだ。
私は思わず掃除の手をとめ、私と旦那様の馴れ初めを思い出した。
○
「わたし、おにいちゃんとけっこんするー」
当時、まだ呂律がうまく回らない可愛らしい小学一年生だった私は、唯一同じ町内で登下校を共にするお兄ちゃんが大好きだった。
だから覚えたての言葉でお兄ちゃんに告白した。初めて会ったときのことはもう覚えてないけど、この時のことは今でも覚えてる。
「はあ?」
「だっておにいちゃんだいすきだもん。ねー、けっこんしてー」
「やだよ。誰がお前みたいなガキと」
素で嫌そうなお兄ちゃんに私はマジ泣きした。するとお兄ちゃんは慌てて私の頭を撫でた。
「わかったわかった。お前がおっきくなったらな」
「ぐす…ほんと?」
「男に二言はない」
「やったー! お兄ちゃんだいすき!」
お兄ちゃんは困ったような顔して、しょうがないなぁと笑った。
私はこの時、お兄ちゃんは泣いたらお願いを聞いてくれるんだと学んだ。両親は厳しくて私が泣いても言ったことを曲げなかったので、簡単にお願いを聞いてくれたお兄ちゃんをますます好きになった。
それから私はことあるごとに、お兄ちゃんにまとわりついた。と言ってもちゃんと限度は弁えてたつもりだ。
お兄ちゃんは毎日男の友達と遊んでる。女と遊ぶのを見られるのは恥ずかしいと言うのでたまに家に押しかけたくらいだ。
お兄ちゃんが中学生になって野球部に入ったので、毎日毎週練習で遊べなくなった時は、終わってからお話することを約束した。
「お兄ちゃん」
「ん? ああ。お前か」
「毎日練習して大変だね」
「まぁな」
「でも私、全然お兄ちゃんとお話できなくて寂しいな」
「ん? はいはい、そのうち遊んでやるから」
「そのうちっていつ? 私、お兄ちゃんの恋人なんだからほっといたらダメよ?」
「は? 恋人?」
「大人になったら結婚してくれるって言ったじゃない!」
「え? 言ったっけ?」
「言ったもんー」
「ああ、泣くな泣くな。思い出した。言ったなー言った言った。大人になったらなー」
お兄ちゃんは私の頭を撫でる。忘れてたのはむかつくけど、もう一回言ってくれたんだしいいか。
「とにかく、お兄ちゃんと1日遊びたいとは言わないからお話したいの」
私ももう中学年で、少しは物の道理がわかってきてるので、とにかく継続的に会うことを目的にした。
「今してるじゃん」
「じゃなくてー、あ、そうだ、じゃあお兄ちゃんが部活終わるころに私ここに来るから、毎日ちょっとだけでいいからお話しようよ。それならいいでしょ?」
「えー、俺腹減ってんだよ。それに時間も遅いだろ」
「まだ五時半だよ。うち、門限6時だから大丈夫だもん。五分だけならいいでしょ?」
「うーん。別にお前と話すことなんて…」
「……いや、なの?」
「あーもう! すぐ泣くな! わかったわかった!」
「ほんと? 毎日お話してくれる?」
「ちょっとだけな。俺は部活で忙しいんだから」
「うん! お兄ちゃん、大好き!」
別に泣いてないし、ちょっと涙目になっただけですぐお願いきいてくれるからお兄ちゃん大好き。坊主頭もかっこいい。
それから毎日少しずつお話した。
だけどその生活が2ヶ月も続くと、やっぱりちょっと物足りない。お母さんには、男の子がやりたいことをしてるのを邪魔しちゃ駄目とか、男の子は恥ずかしがり屋だから無理強いしちゃ駄目とか言われてるから我慢してたけど、友達の明里ちゃんは隣のクラスの佐藤くんと毎日デートしてるのに。
ちょっとくらい、恋人っぽいことしたいなぁ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「……」
「どうした? 具合でも悪いのか?」
お兄ちゃんは、面倒だ面倒だと言いながら私のお話ちゃんと聞いてくれるし、たまにコンビニまで散歩してお菓子買ってくれたりする。
優しいし、お兄ちゃんが私を嫌ってるなんて思わない。結婚の約束したんだし、恋人だ。
お兄ちゃんは毎日部活で忙しいから浮気とか疑わないし、無理にデートの時間をつくってとは言えない。
でも、何か恋人っぽいこと……あ。
「お兄ちゃん、お願いがあるんだけど」
「なんだ、元気ないと思ってたけどまたか。なんだ? アイスでも買ってほしいのか?」
「そうじゃなくて……あのね、私、お兄ちゃんと、キス、したいな」
「は?」
勇気をだして言ったのに、お兄ちゃんは驚いたっきり黙ってしまう。
「ねえ、してよぉ。」
「ま、待て待て。そういうのは大事な人とするものであってだな」
「私じゃ嫌って言うの!?」
というか結婚の約束したのに大事な人じゃないって言うの!?
「いや、俺は男だから別にいいけど、お前は女の子なんだからっつー話だよ」
「わ、私は…お兄ちゃんとだから、したいんだもん」
私のことを考えてくれてたのか。それは嬉しいけど、私の初めてはお兄ちゃんにあげたい。
「わ、わかったわかった。目ぇ潰れ。いいって言うまで開けるなよ」
「う、うん」
どきどき。
目をつぶって、じっと待つ。
「!」
ふに、と一瞬だけだけど、唇の先にだけだけど、触れた。かぁっと体が熱くなって、感触なんか全然分からなかったけど、どきどきして幸せだ。
思わず目を開けてお兄ちゃんに抱きつきたくなったけど、開けちゃ駄目って言われてたから我慢した。
「もういいぞ」
目を開けると気まずそうなお兄ちゃんと目があった。
「えへへ、キスしちゃったね」
「あ、ああ。もういいな?」
「うん! ありがとう! 嬉しい!」
この時は凄く嬉しかったなー。
……まぁ、本当はこの時キスしてなかったんだけど。
妹としか思われてなくて指先で誤魔化されてたんだけど。本格的に付き合いだしてから知った時は、殺意すら湧いたけど。
お兄ちゃんが中学生の間はこんな感じだった。
私とお兄ちゃんの関係が決定的に変わったのは、お兄ちゃんが高校生になって初めての夏だった。
○
中学生で燃え尽きたらしく、お兄ちゃんは高校生になっても部活には入らなかった。
部活をやめてからしばらくは受験勉強で忙しいと相変わらず少しお話するくらいだったけど、これで今までより一緒にいられると期待した。
「お兄ちゃん」
「え、お前こんな時間になにしてんだよ」
「まだ7時だもん」
「いや、門限6時だろ?」
お兄ちゃんは初っ端から、遊びほうけて長年続いた私との約束をすっぽかそうとした。
いつも部活の後で時間通りだったので、遅かったらすぐ私は帰るだろうと、思ってたらしいけど、私を一時間半も待たせた罪は重い。
「お兄ちゃんが、来てくれないから……ずっと、ずっと待ってたのに…」
「わ、悪かったって! 確かに何も言わずにすっぽかした俺が悪い! 反省してる! このとーりだ! だから泣くな!」
お兄ちゃんは拝むように手を合わせて頭を下げると、怒鳴るように謝罪した。
私は涙を目にためながらお兄ちゃんを見つめる。
「ううん……お兄ちゃんにも新しい友達と、付き合いとかあるもん。私のこと忘れてても仕方ないよ……」
「……悪かった。もう約束破ったりしねぇよ」
「ううん。お兄ちゃんにも都合があるんだし、もうこの、放課後にお話するのは止めよう」
「え、いいのか? あー、いや、別にお前を嫌ってるわけじゃないぞ? うん、お前と話をするのは嫌いじゃない」
「うん、だから、一週間に一度でいいから、私と遊んでくれる? お兄ちゃん家でおしゃべりするだけでいいから
」
「それで許してくれるのか?」
「うん」
「そうか。ならもちろん。母ちゃんからしてもお前は娘みたいなもんだからな、どんどん遊びにこい」
「うん!」
毎日僅かに会話するより、たった1日でも放課後を独占出来れば、その方が長い時間一緒にいられる。
それにおばさんにとって私が娘とか、ついにお兄ちゃんも私をお嫁さんと認めてくれた。
また一歩前進したと、無邪気に私は喜んだ。
それが勘違いだと気づいたのは、2ヶ月後、お兄ちゃんの部屋でだ。
お兄ちゃんの部屋で過ごすのにも慣れてきたある日、漫画を読み終わった私は何の気なしに転がった。
ふと、机の下に小さな手帳が落ちてるのが見えた。
一回転して手を伸ばすと、『生徒手帳』とあった。生徒の手帳? 何だろ。
開いて見ると、一枚何か落ちた。
「ん?」
写真だ。拾って表を見ると、女の子がいた。
お、女の子の写真? 何でこんなとこに、ていうか誰?
「どうした? っておまっ! な、何見てんだよ!」
お兄ちゃんにひったくれた。
お兄ちゃんの焦りように、嫌な予感がした。女の感は侮れないものだ。
「落ちてたよ…」
「そ、そうか。まあ、とにかく、漫画ならともかく、勝手に人のもの見るんじゃないぞ」
「お、お兄ちゃん、もしかしてその女の人のこと、好きなの?」
そんなことあるはずない。お兄ちゃんは私の恋人で、キスだって、したのに。
お兄ちゃんは目をそらし、ちょっと赤い顔をしながら、答えた。
「まあ、そんな感じだ。母ちゃんたちに余計なこと言うなよ」
私は、お兄ちゃんに恋人だなんて思われてない。ただの妹分なのだと、この時初めて私は理解した。