疑惑の招待状(1)
――その湖は、眩い筈の日の光を、優しく反射させていた。
聴こえてくる小鳥のさえずりが心地良い。安らぐには絶好の場所だ。
畔に腰を下ろしていたヴィオラはケースからヴァイオリンを取り出し、立ち上がった。
演奏せずにはいられない。顎当てに顎を乗せ、そっと弦に弓を置く。
湖のせせらぎや鳥のさえずりを自らのヴァイオリンで引き立てようではないか。
勿論、決してそれを台無しにしてしまわないよう、優しく。
ヴィオラは、彼女がいつも弾いていた曲を奏で始めた。
静かで、たおやかで、且つ、流れる水が如く流麗な旋律が辺りを包み込む。
最中、微かに吹き抜ける風が気持ち良かった。思わず、彼女は目を閉じる。
それがヴィオラを無防備にしたのだろう。暫くし、演奏に夢中になっていた彼女はふと何者かの目線を感じ、ぴたりと演奏を止めたのだった。
弓とヴァイオリンを下ろし、その者を見遣る。
『ごめん。邪魔してしまったかな』
向いた先に居たのは、ヴィオラと同年代の少年だった。何も疑う事を知らないかのような円らな碧眼で見つめながら、その少年は云った。
ヴィオラは目線を僅かに下ろす。彼の腕の中に、一冊のスケッチブックがあった。絵でも描いていたのだろうか。
それに気付いた少年はそのスケッチブックに目を遣りながら、
『あ、ああ。こ、この辺りの風景をスケッチしようと思ってね。画家を目指して練習してるんだ。決して意味も無くうろつく不審な奴じゃないから』
そう戸惑いながら弁明する少年に、ヴィオラは微笑を浮かべた。
『別に構わないわ。軽く演奏してみただけだったから』
『軽くって……今のが?』
少年が驚く。
『それでも凄いよ。まるで音楽家の演奏会で聴いてるみたいな……』
思わずヴィオラが吹き出した。
『大げさね。本当に大した事じゃないから。これでも、習い始めて一ヶ月よ』
『普通に凄いと思う……』
茫然と呟く少年。ふと、彼は気が付いたように述べた。
『あ、えっと、自己紹介がまだだったね。僕はアーベル。君は?』
名前を訊ねてくる。
ヴィオラは初対面には距離を置く人間だったが、彼の純粋な眼を見、彼にならば名を名乗っても良いだろうと決心したのだった。
『……ヴィオラ』
『ヴィオラ、か。素敵な名前だね』
『そう、かしら。こんなありふれたような名前が?』
『そうだよ。自分で気付いてないだけさ』
アーベルそう呟くと、遠くの方で女性の声が聴こえてきたのだった。
『お兄様ー? 何処に居るのですかー?』
その声で、彼は急に慌てだした。
『まっずい。アリーセが探しに来た!』
『アリーセ?』
ヴィオラが唖然とする。
『妹だよ。あいつ焼き餅焼きだからな。こんなとこ見られたら勘違いでとばっちり食らっちゃうから、早く行かないと』
そう云い、アーベルは妹の声の方へと駆けて行った。途中振り返り、ヴィオラに告げる。
『僕此処へちょくちょくスケッチに来てるから。また会おう、それじゃ!』
走り去る彼の背を眺めるヴィオラ。ふと、地面に目を落とした。白い紙が落ちている。どうやらアーベルのスケッチブックから落ちた物だろう。
それを拾い上げ、眺める。
木炭で描いた湖の風景スケッチだ。その湖畔に、優雅にヴァイオリンを奏でるヴィオラの姿が、美しく、繊細に描かれていたのだった。
†
ヴィオラは、自室で湖のスケッチを眺めていた。その湖畔にはヴァイオリンを奏でる自分の姿も描かれている。
一年程前に、湖畔で出会ったアーベルが落としていった物だ。それを、ヴィオラはそのまま持ち帰っていた。
あの後も何度か例の湖畔でアーベルとは会っていた。このスケッチを持ち帰った事、そして、いつかそれを返そうと思っていた事を話したら、彼はそれはヴィオラに持っていて欲しいと云ってきたのだった。故に、今もヴィオラの大切な物として自室のドレッサーの引き出しに仕舞っていた。
あの時持ち帰ったのには理由があった。このスケッチからは、画家を目指すと云っていたアーベルの想いが宿っているように感じてならなかったからだ。
いや、それだけではない。
このスケッチに描かれている自分だ。周囲の風景はラフに描かれていたが、ヴァイオリンを奏でるヴィオラだけは事細かに描かれていた。
名のある画家を家に呼び、肖像画を描いてもらった事は何度かある。だが、そのどれよりもこのスケッチの方が心に響いてくるのだ。描いた者の――アーベルの、ヴィオラに対する想いが。
いつか母にこれが見つかってしまった事があった。母も、このスケッチのヴィオラだけが丁寧に描かれている事を見抜き、事情を把握したのか、からかってきた。
その時は必死に弁明したものの、ヴィオラの本音としてはまんざらでもなかった。
アーベルの、あの純粋な人柄に惹かれているのは確かだからだ。現に、彼と会っている時が何よりも楽しく、心安らぐ時間なのは事実だった。
それはアーベルも同じだろう。彼の屈託の無い笑顔がそれを証明している。
しかし、あれから三ヶ月以上、彼とは会っていない。ある日を境に、いつも会っていた湖畔に来ても、一向にアーベルが来る事は無かったのだ。それから毎日通ったが、結果は同じだった。
彼は今、何をしているのだろうか。何かあったのだろうか。
だが、そのような心配をしようにも、仮に会えるとしたとしても――
ヴィオラにはもう、アーベルと会えない理由があるのだ。
公式ではヴィオラは家族もろとも賊に殺された事になっている。恐らくこの事はアーベルの耳にも届いている筈だ。もし、それでも彼に会う事があるとしたら……。
唐突に、ヴィオラは首を振るった。
それ以上、考えるのが怖かったからだ。
「……アーベル……」
独り、切なげに彼の名を呟いた。
「――!?」
不意に、ヴィオラは顔を上げた。
微かだが、自分を呼ぶ声がする。
『……オラ。ヴィオラ。聴こえていますね』
その女性の声は、次第にはっきりと聴き取れる程となった。
耳から入る声ではない。脳内に直接響いてくる声だ。この女性の声は聴き覚えがあった。
『貴女に渡したい物があります。場所を指定しますので落ち合えないでしょうか?』
「……解ったわ」
側頭を押さえ、声に返答する。
ヴィオラはアーベルのスケッチをドレッサーの引き出しに仕舞い、部屋を出た。
†
指定された場所の前で足を止める。ヴィオラはレースの日傘を僅かに上げ、その公園を道端から眺めた。
丁寧に刈り整えられた植物が隙間無く植えられており、迷路の壁の役割をしているかのような花園であった。
公園というよりは、植物園に近い。しかも、薔薇のみの……。強いて云うなれば薔薇園であろうか。
ヴィオラは薔薇の迷路へと足を踏み入れた。
途端、薔薇の甘美で濃厚な香りが彼女の鼻腔をくすぐる。この香り自体は既にヴィオラは慣れていた。なので特別不快には思わない。寧ろ心が落ち着くと云っても良い。その所為だろうか。いつに無く、彼女の表情は微かであったが穏やかなものとなっていた。
道幅はというと、狭い方である。幅はヴィオラの三人分位か。人とのすれ違い様に身を退けようものなら、両脇の茨に余裕で身体が引っ掛かってしまいそうな程だ。
だが幸い、今此処にはヴィオラしか居らず、人の気配すらも無かった。
すぐ傍の街の喧騒も聴こえない。まるでこの薔薇園一帯が、見えない結界のようなもので隔絶されているかのような、そんな不思議な感覚をヴィオラに抱かせた。
暫く進むと、狭かった迷路とは打って変わり、開けた場所へと出たのだった。中央には小さな噴水、空間の隅には幾つかの白いベンチが置かれている。この園で最も"公園"と呼ぶに相応しい場所であった。
そこでようやく人の姿を確認する。
白のフード付きマントを纏った人物が奥のベンチに座っていた。その傍には、ヴィオラと同年代と思しきミディアムヘアの茶髪の少女が立っている。
フードの人物は、それを目深に被っており、顔の全容はまるで解らない。だが、背格好からして女性である事には間違いは無かった。
彼女はヴィオラに気付くと、ベンチから立ち上がった。
「約束の時間ぴったりですね」
物静かな、心安らぐような声で云う。
無表情でヴィオラが返す。
「顔を隠す必要は無いわ。此処は私達しか居ないのだから」
彼女の言葉に促されるように、女性がゆっくりとフードをたくし上げる――
その正体は、溜息が出る程に美しい、長い銀髪の少女であった。
「レア・ヴェルトール」
ヴィオラが彼女の名を呟くと、銀髪の少女――レアは微笑で返す。
「久しぶりですね。ヴィオラ・シェーンハイト」
「貴女こそ。あの日以来ね。それと――」
ヴィオラは、レアの傍に居たもう一人の少女に目を遣る。
すると、少女はカーテシーの動作でお辞儀をした。ヴィオラも、同様に返す。
「イゾルデ・クヴァントです。つい昨日レアに助けられ、薔薇戦姫となりました。よろしくお願いします」
と、少女――イゾルデが自己紹介した。
「ヴィオラ・シェーンハイト。よろしく」
一方のヴィオラは簡単に挨拶を済ませた。
再びレアを見据え、
「今日は何の用で私を此処まで呼んだのかしら?」
そう訊ねると、レアは懐から一枚のカードのような物を取り出し彼女へと投げつけた。
それを受け取るヴィオラ。カードを見る。何かの招待状であった。
「仮面舞踏会……。これは?」
ヴィオラが問うと、レアはその琥珀の瞳で彼女を見つめながら答えた。
「ヴァンパイアが持っていたから、頂いておきました」
平和に手渡しで貰ったのでは無いのだろう。恐らく、彼女が殺した時に懐なりポケットなりからくすねたと思われる。
「日時は明日の深夜。場所は街の外れにある迎賓館。仮面舞踏会と謳っていますが、実態はどうやら、かの組織による新技術の品評会のようです」
レアの説明に、ヴィオラはすぐさま目つきを険しくさせた。
悟ったような眼でレアが訊ねる。
「勿論、行くでしょう?」
「何故私にこれを?」
ヴィオラは訊き返した。
「貴女なら、喜んで行くんじゃないかと思いましてね。貴女の仇の手掛かりも掴めるかも知れませんし」
掴みどころの無い微笑でレアが云う。
「当然……」
ヴィオラはカードを懐に仕舞い、背を向けた。立ち去ろうとする。
「薔薇戦姫の力、私怨で使っているようですね」
レアの言葉が彼女を立ち止まらせた。
「今はそれでいいのでしょう。ですが、そうしたところで貴女の家族は帰っては来ません」
ヴィオラは黙って彼女の声に耳を傾けるだけだった。
レアが続ける。
「憎しみに囚われた貴女の心、いつか解放されると良いですね」
ふ、とヴィオラは苦笑した。
「私はもう、それで良いのよ。既に人間ではないのだから――」
僅かに振り返る。
「感謝しているわ。私に復讐する為の力を与えてくれたのだもの」
その言葉を残し、ヴィオラは去って行った。
「レア、ああ云っておきながら、彼女にけしかけてない?」
イゾルデがふと、思った事を口走った。先程の丁寧な口調とは程遠い、砕けた喋り方だ。
困ったような眼でイゾルデを見つめるレア。
「現在の私が表立って行動できない分、彼女頼みなのが現状です。今や敵の勢力の方が増してしまっています。"反撃"の糸口を作らなければ……」
虚空を見上げる。
「今は、ヴィオラを信じるしかありません。ですが――」
琥珀の眼が、不意に険しいものとなる。
「私の人選が間違いではない事、見定めさせて頂きましょう」
†
ヴィオラの家族を殺害した、黒い甲冑のヴァンパイア――
あれからおおよそ三ヶ月が経過しているという。以降の甲冑のヴァンパイアの手掛かりは、途絶えているとの事だった。
ロルフ自身も、そのようなヴァンパイアと遭遇した事は無い。
だが、黒い甲冑に歪な形状の槍という目立った格好をしているのだ。誰か一人くらいは目撃していても良い筈だ。
そこで、ロルフとハイデマリーは情報収集の為に街に繰り出したのだが……。
「ダメだ。誰一人心当たり無いってよ。まあ、人探しならともかく、ヴァンパイア探しだもんな。当然っちゃ当然か」
ロルフはそう云いながら、街路の脇のベンチに座っているハイデマリーを見遣った。
彼女は無言で飴を舐めながら、ロルフに目も呉れず前方を眺めるだけだった。
「……何見てんだ?」
訝しげにロルフが問う。
「人間観察」
とだけ、彼女は答えた。
「人間観察ねぇ……」
街を行き交う人や馬車。露店で客引きをする店主や、立ち止まる歩行人――
ごくごくありふれた光景だ。
彼女の興味を引くものが其処にあるとでも云うのだろうか。ロルフには解らなかった。
「面白いのか?」
「ええ」
彼の問いに、ハイデマリーは頷いた。
腕を組み溜息をつくロルフ。彼女の趣味についていけないといった様子だ。
「貴方は、街の些細な光景や出来事に目を留めた事はある?」
唐突にハイデマリーが彼へ訊ねる。ロルフは暫く唸った後、こう答えた。
「無いな。気にもしないし」
「でしょうね」
ふ、とハイデマリーは軽く笑うと真顔に戻り、続けた。
「この世は大きな劇場よ。ここに生きる一人一人に物語があり、そしてまた、巻き起こる出来事が更なる物語を紡ぎだす。私達は観客であり、同時に物語の登場人物なのよ」
「お前の読んでる哲学書か何かの受け売りか?」
「今頭に浮かんだ言葉」
「ホントかね」
やれやれといった様子で頭を掻き、ロルフもハイデマリーと同じ方向、風景を眺めた。
彼にしてみれば、特別面白くもなんとも無い。
「もう一度訊く。面白いのか?」
ハイデマリーはこくんと頷き、ある方向を指差した。
「例えば、あれ」
彼女に指し示された方を見遣る。
子供が居た。手が滑り、持っていた林檎が道端に転がる様子だ。その落ちた林檎を拾おうと、転がるそれを追う。
子供が、林檎を拾い上げようとした時だった――
「危ねっ!」
ロルフは駆け出した。
驚いた御者が咄嗟に手綱を引っ張る。二頭の馬が嘶き、馬車は急停止した。
眼前に立ち止まった馬車を茫然と見上げる子供を、親と思しき女性が血相を変えた表情で抱え上げる。
周囲が騒然とする中、馬車から、一人の若い男性が降り立った。
「何事だ、御者」
眼鏡を掛けた如何にも堅物かつ神経質そうな男だった。上流階級の者が纏う衣服に身を包んでいる事から、貴族と思われる。
「カ、カール様。子供が急に飛び出してきたもので……」
御者が冷や汗をかきながら答えた。
「ほぉう」
と、カールと呼ばれた貴族の男は冷たい視線を子供の母親に送り、近寄った。母親はというと、怯えているのか、その身を震わせている。それは、身分が上の者に対する畏怖に他ならない。
眼前に立ち止まり、尚も冷ややかな眼で睨むカールへ、何度も頭を下げる。
「も、申し訳御座いません! 馬車を停めてしまう事になるとは思いもよりませんでした。うちの子に代わってお詫びします!」
必死に謝る母親。カールは舌打ちし、直後、右腕を水平に振るう。
「ああっ!」
悲鳴と共に倒れる母親。カールが手の甲で彼女を殴ったのだ。
辺りでざわめきが起こる。その場に居る誰もが、母親に同情の眼差しを、そして、カールへは畏れの眼差しを向けていた。
カールが母親を見下ろし、吐き捨てる。
「下賎の輩が。子が子なら親も親だ。貴族に対する礼節を教育していないようだな」
「申し訳御座いません申し訳御座いません!」
母親は只、幾度と無く謝るだけだった。それが彼の神経を逆撫でしたのだろう。カールは苛立ち、彼女を怒鳴った。
「謝れば済むと思ったら大間違いだ!」
そう母親を掴み起こすカールの肩に、手が置かれた。
「いい加減にしろよ。てめえ」
その声で振り返る。
ロルフ・フックスベルガーであった。怒りの篭った形相で、カールを見据えている。
「何だ貴様は!」
カールはそう叫びながら、肩に乗せられていた彼の手を振り落とした。
ロルフが構わず続ける。
「この人がこうして謝ってんだ。それをてめえ、貴族だの何だの訳わかんねえ理屈並べて暴力かよ」
「何だと? 貴様、私に口答えするのか! 庶民の分際で!」
カールが睨み返す。
「庶民だろうが貴族だろうが関係ねぇよ。俺はてめえみたいな無意味に権力を振り翳す奴が大嫌いなだけだ」
視線と視線がぶつかり合う。
すると、カールは懐から銃を取り出し、ロルフへと向けたのだった。またしても周囲がざわめき出す。
だが、ロルフは全く動じなかった。静かにカールを見据えたままだ。
「貴様。この私を侮辱した報いだ。あの親子に代わって死ね」
カールが云うと、ロルフは不敵な笑みで返した。
「やれるもんならな」
その挑発に乗り、舌打ちしたカールが引き鉄を引こうとする――
「おやめなさい、カール様」
その女性の声は、カールが降りてきた馬車の方から発せられた。
両者が、その声へ振り返る。
そこには紅のドレスを纏った若い女性が立っていた。カールと同様、貴族の者らしい。フェザーファンで己を扇ぎながら、人を食ったような微笑を浮かべて二人を眺めている。
「アンネローゼ!」
カールがその女性の名を呼ぶ。
「何故止める! アンネローゼ!」
カールはアンネローゼと呼ばれた女性に怒りをぶつけた。するとアンネローゼはファンを折り畳み、述べる。
「騒ぎを起こして御覧なさい。お父様に知れたら大目玉を食らいますわよ? 昨日もあれだけ叱られたというのに。フリューリングの名を貶めるだけですわ」
「く……」
歯軋りするカール。アンネローゼはロルフへ流し目程度に視線を送りながら云う。
「あのような無粋な庶民相手にわざわざむきになる必要はありませんわ。貴方は道端の雑草にまで気を留める方ではないでしょう?」
と、くすくすと含み笑いをする彼女へ、ロルフは険しい眼で睨み付けた。
(この女……!)
穏やかな物腰であるが、このアンネローゼという貴婦人もまた、カールと同種の人間であるとロルフは見抜いた。彼女の笑っているような得体の知れない眼は、明らかに下々の者を蔑んでいる眼だ。まるで虫けらでも見るかのような。
アンネローゼは背を向け馬車へと戻る。
「これ以上は時間の無駄ですわ。私達には行かねばならぬ処があるのですから」
「そうだったな……」
カールが中指で眼鏡を上げると、ロルフを見遣った。
「という訳だ。私は貴様達と違い、忙しいのだ。命拾いしたな、庶民」
馬車に乗ろうとしたところで再度ロルフへ振り返り、指を差す。
「貴様の顔は覚えておいたからな!」
そう吐き捨て、彼等を乗せた馬車はその場から去って行った。
ロルフは尚も苛立たしげに、遠ざかる馬車を睨み付ける。
「なんなんだあいつ等」
と、舌打ち。
様子を見ていたと思われるハイデマリーが、いつの間にやら彼の傍に立っていた。
「いつの世もああいうのは存在する。変わらないわね、人って」
「子供が云う台詞かよ、それ……」
呆れながら、ロルフは呟いた。
事が収まったからか、辺りに群がっていた人々が安堵の溜息と共にその場を離れて行く。その中から、先程の母親と子供がロルフへと近寄ってきた。
「あ、ありがとうございました! このご恩は一生忘れません!」
と、何度も頭を下げる。
「い、いやいや、大げさな。何もしてませんよ、俺は」
困ったように首と手を振るうロルフへ、一人の老人が声を掛けた。
「若いの、あの連中を相手に勇気があるな。ありゃ、ヒルシュフェルト公国の領主アルフォンス・フリューリング公爵の娘アンネローゼ・フリューリングと、その婿養子カール・フリューリングじゃよ」
「領主だって?」
驚くロルフに、老人が頷く。
「何代も続いてきた伝統ある家じゃ。故にプライドが高くてのう。わし等庶民なんぞどうとも思っておらんよ」
「そうだったのか……。フリューリング、ね」
ロルフが茫然と呟く。すると老人は訝しむように首を捻りながら独り言のように云った。
「む? 気のせいか。わしが子供の頃も、あの家の当主はアルフォンスじゃったような……? ……ぼけが回ってきたかの」
と、首を傾げる彼を、ハイデマリーが真顔で見つめる。
「多分、ぼけじゃない」
そのように、誰にも聞こえない小声で囁いた。