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無垢色の雨は晴れにこそ伝う

作者: 畑々 端子

「一緒に遊んでやんよ」


 そう言って『あちき』が見つめていたのは、僕ではなくて膝の上のおにぎりだったんだ。

 

 『あちき』とはじめて出会ったのは丁度、8月の真ん中辺りだったと思う。神社の境内で遊んでいた時に、見かけたのが最初。


 小学生から中学1年生まで毎年、夏休みになると母方の田舎である瀬戸内の島に帰っていた。海もあれば山もある。道路には車も通らなければ、信号もない。どこを見ても必ず蜜柑畑が視界に入る。そんな典型的な田舎だった。


 海で泳いでも、山に虫を捕りに行っても一人じゃ面白くもなんともない。従姉妹達が帰っていればそれはもう楽しい毎日だった。


 けれど、夏休み中田舎の家に居た僕は、その賑わいゆえの寂しさがどうしても耐えられなくてどうして僕を一人にするんだろう……そんなことばかりを考えて縁側で膝を抱えて、前夜にはしゃいでやった花火がつっこまれた青いバケツを恨めしげに見つめていたりしていた。


 ここに僕が住んでいるわけじゃないから友達もいない。お婆ちゃんは朝からラジオ体操に行けって言う。だから、嫌々だけど行った。海沿いの公園に行くと、決まって他の子供達が僕を見て顔を見合わせた。見ない顔なんだから、当然だろうけど、僕だってみんな始めて見る顔なんだぞ!


 膨れっ面で体操第2までこなして帰り際に貰える飴玉は嬉しかった。チョコレート味の時はスキップをして帰った。


 夏休みの宿題なんて持ってくるもんか。ちゃんと7月中に終わらせてある。お母さんに「田舎に連れて帰らないからね」 って6月から釘を刺されたから……


「勉強せんのやったら、外行って遊んでこい。夕方まで帰ってくるな」 


 朝ご飯の後、お婆ちゃんが必ず言う台詞だった。


 何を言っても無駄だってわかってるから、僕はただ無言で頷いて、ちゃぶ台の上に置かれた大きなおにぎりを抱えて土間に飛び降りると、ビーチサンダルを乱暴に履いて「行ってきます!」って大きな声で言って家を飛び出す。


 海もあって山もあって、海水浴ができて虫取りができる、磯遊びもできれば、魚釣りもできる。だけど、全部一人でやって面白い事なんて何一つありはしない。


 僕は家を飛び出すと、一目散に神社に向かうんだ。海沿いの公園を通りすぎて選果場のおんぼろ小屋の裏にある神社に走るんだ。


 鳥居の端に何かを書いた立て札が立っていたけれど、まだ満足に漢字が読めなかった僕には『男子』以外、他の漢字を読むことができなかった。


 境内では決まって僕よりも『あちき』が先に来て小石を椎の木に投げつけて遊んでいる。


「今日は何する」


「追いかけっこ!勝った方がおにぎり鮭な」


 いやだ。僕は言う


「あちき足早すぎるからやだ」


「じゃあ、あちきが鬼!」


 いつも、こうして追いかけっこが始めて。すぐに僕は鬼になって、お昼ご飯のおにぎりは昆布を食べる羽目になった。


 ばあちゃんの作るおにぎりの具は、昆布と鮭。だからアチキと遊ぶ夏の午後はずっと昆布ばっかりを食べていた。


「青い方やんよ」


 おにぎりは僕が持って来る。その代わりアチキはいつも桃を2つ持って来ていた。そして、そう言っては美味しそうに色づいた桃を僕に放り投げてくれた。


 一年ぶりに顔を合わせたばかりの桃の味はそれは甘味にかけてあまり美味しくない。けれど、毎日とアチキと顔を合わせている間にどんどんと甘みだけになって、僕が帰る頃にはとても良い香りまでする…………だから、桃が美味しくなるにつれて僕は嬉しい反面、寂しさもつのってゆくようで……素直に喜べなかった。

 

  ◇


 中学生になって、初めての夏休み。


 初めて夏休みの宿題を残して田舎に帰った。


 「今年が最後ね」と母が言い。どうやら、来年は塾に行かされる事になりそうなのと、それのせいで田舎には帰れそうにないことを知った。


 夏休みをまるまる田舎で過ごすのも今年で終わり。いわば遊び納めだろう。


 この頃になると、従姉妹と遊ぶよりもアチキと遊んでいる時間の方が長くなっていた。アチキとおにぎりを食べて一年分の話しをして……そう言えば去年までしていなかったのに、アチキは長くなった髪の毛を赤いリボンで一つ括りにしていた。


 不思議なことにアチキは泳ぎに行こうと誘っても、花火をしようと誘っても、夏祭りに行こうと誘ってみても「神社の外はいやだ」と言って頑として聞かなかった。


 だから、夏で海があるのに、海水浴をしないのはどこか夏を損しているような気分になったりもしたけれど、アチキと一緒にいるだけで、それ以上に楽しかったから、俺は毎朝おにぎりを持って神社に遊びに出掛

けていた。


 桃が甘みを増して来た頃。


  夕日を背に「明日は雨が降るから来るな」と俺に言った。「一週間くらい雨降らなってテレビで言ってたぞ」俺が何気なく食い下がると「絶対に来るな。来たらもう遊ばない!」急にアチキが怒り出した。


 だけど、翌朝も昨日同様に雲一つなく、水平線のずっと向こうまで晴れ渡っていた。


 俺はラジオ体操に行って「ちっとは勉強せんか」と言うばあちゃんに「行って来ます」と言い残して、おにぎりと一緒に神社へ駆けた。


 珍しくアチキが居なかった。


 アチキが待っているのが当たり前だった、境内は一人でいると随分と広く感じたし、こんなに寂しくも薄気味悪い場所だったか……と微風に揺れる木々のざわめきに鳥の囀りに、そして誰かの視線を感じているようで、四方八方を見回してはアチキが来るのを……早く来てくれと願いながら待っていた。


「えっ……雨……」 


 きっと昼前だったと思う。足元に雨粒が落ちた気がして、慌てて空を見上げてみたけど空は相変わらず青かった。


 それでも、雨は降っているらしかった。みるみる間に、勢いを増した雨はまるで台風のようだった。よもや雷も降ってくるんじゃないかと思うほど、鬼気迫るほどの勢いだった。俺は社の下に入って青い空を見上げ、賽銭箱に腰をかけながら「こんなのなんて言うんだっけ……」なんだか面白い、と胸の内ではわくわくとさせていた。


 少しのあいだ、台風のような豪雨が続いた後、やがて雨は霧雨のようになり、本当に霧が立ち込めてきた。


 さすがに気味が悪くなった俺は、帰ろうかと賽銭箱から腰を持ち上げたその時、『シャン』鈴の音が境内に木霊した。


 シャン……シャン……シャン……シャン……


 一定の間隔で鈴の音は重なり、そして、それはどうやら俺の方へ……いいや。この社へ向かってるんだと気が付いたのは、徐に左足から前に一歩一歩進む人影がうっすらと見えたからだった。


 霧の向こう。うっすらと見える姿に俺は唖然として、首を捻った。真っ黒な着物を着込んだ女性が数人。べっこう飴のような髪飾りを挿していて、手には長刀や槍を持っていたからだ。俺は戦慄して身動きが取れなかった。腰が抜けたと言えばわかりやすい、だが、俺が気が付いたと頃合いを同じくして、向こうにも俺の存在が知れたのだろう。女性達は歩みを止め、そして、手に持った長刀や槍を構えると。初めて右足から大きく一歩を踏み出した。


 俺は『殺気』を知って、そして、本気であの槍が俺に襲い来るのだろうと恐怖し、今すぐにでも逃げ出したいのに、足に力が入らない物怖じした足にさらにその色を濃くした。


 そして、意味不明な叫び声もあげられないまま、歯をかちかち言わせていると、


「おつぎ物を持って来たのや」と一人の子供が駆けて来て、俺のおにぎりを引っ手繰ると背伸びをしてそれを掲げ、そう叫んだ。


 アチキだった………… 


 

   ◇


 昨日の出来事は白昼夢だったのだろうか、気が付いたら俺は神社の鳥居の所に座っていた。

 

 気になった俺はおにぎりを持たずに、神社へと出かけた。昨日の事を確認したら帰るつもりだった。


 だけど……


「あちきは桃持ってきたのに」

 

 待っていたアチキはそう言って大きな桃を二つ俺に突き出して見せた…………


 その日も結局、アチキと遊ぶことになって、昼にはおにぎりをつくってもらいに家に帰った。どうしてだろう。昨日はあんなに不気味だった神社がアチキがいるだけで、とても落ち着く場所に感じられる。


 随分と甘く良い香りがする大玉の桃を食べながら、「また来年だ」とアチキが話し始めた。


 俺は「来年か塾行くから、来れないと思う」とそっけなく言うと、少しの間があってから「あちきが嫌いか?」とアチキが俺の顔を見つめていた。


「俺だって塾なんか行きたくないに決まってるだろ」


 俺がそう言うとアチキの鳶色の瞳が輝いた。


「じゃあ、行くな。来年もここに来てアチキと遊ぼう」


「母さんがなぁ」 


 本心から言えば、俺もまた来年この田舎に帰りたかった。きっと従姉妹の多くも来年からは帰って来られないと思う。だけど、俺にはアチキが待っていてくれるから……


「桃……」


「桃?」


「桃、もっと沢山持って来てやる。美味しい桃だけ喰わせてやる」


 突然アチキが立ち上がって、大きな声を出したものだから俺は驚いた。


 でも…………

 

 その年の夏が終わって、次の夏休み、俺は塾の夏期講習で教室に缶詰になっていた……次の年も……次の年も……



  ◇


 田舎の土を踏むのは、何年ぶりになるだろうか。車窓からの風景も随分と変わったもものだ。駄菓子屋が潰れてコンビニになり、木造だった病院が鉄筋コンクリートになっていた。


 だが、田舎の家は相も変わらず、便所はくみ取り式で、土間は涼しく、たまに落ちて来る百足も超弩級であった。一つ大きな進歩と言えばエアコンが居間についたことぐらいだろうか。


 変わるから良いものもある。だが、変わらないからこそ良いものの方が断然多い。


 大学生最後の夏休みを迎え、同時に社会人への羽化に藻掻いている時節。私は田舎へ帰ることにした。社会人になればさらに数年はゆっくりと田舎に帰ることは叶うまい。加えて、祖母が入院をしたからでもあった。お見舞いも兼ねて。


 本音を言えば、持病の悪化した祖母は来年を迎えられないらしいのだ。母からそれを聞いた私は、田舎が無くなる前に、せめてもう一度だけでもと、幼少の思い出巡りをしに帰郷したのだった。


 道路は舗装されてあったが、相変わらず、自動車は一台も通ってはいなかった。私は誰の目を気にすることなく道路の真ん中に寝っ転がると、快晴の空を見上げて大きくあくびをしてみた。


 この島だけまるで時間の経過が他とは違うような感覚に陥ったのは、荷ほどきを終えてそのまま、い草の香りを鼻腔に惰眠を貪って縁側にオレンジ色が伸びて来る頃合いだった。そのまま二度寝を敢行して、宵の口過ぎにようやっと晩ご飯の買い出しに行くと、店と言う店が軒並み閉まっていて唖然としてしまった。頼みのコンビニも閉まっていた時には、晩飯は諦めざる得ないと絶望した。


 それが田舎なのだ。


 次の日の朝から幼少の頃の記憶を頼りに、ラジオ体操をした公園に行ったり、海水浴をした砂浜へ行ったりした。懐かしい風景を写真に納めて回るうちに、神社のことを思い出した。あんなに思い出深い神社をイの一番に行かずして、私はどこをほっつき歩いていたのだろうか……


「あちき……いるわけないか……」


 選果場はすっかり取り壊されていたが、神社は昔とかわらずそこにあった。鳥居の横に立ててあった立て札も居間では墨が落ちて何が書かれてあったかさえも窺い知れない。『男子禁制』立て札にはそう書かれてあったのだ。中学生の私には漢字は読めたが、それが差示す意味を知らなかった。


 アチキはいなかった。当然と言えば当然だろう。


 最後にここを訪れてから目線が数十センチ伸びた。それだけでも、随分と違って見えるから不思議である。私は賽銭箱に腰を掛けて、あの日の出来事を、アチキと食べたおにぎりと桃を思い出しながらシャッターを何度も何度もきった。


 ひょっとしたら……アチキはここに私が帰らなかった夏もここで私のことを待っていてくれたのかもしれない……根拠こそなかったが、そんな気がした……アチキなら待っていてくれた気がしてならなかった……


 私はそんなことを今の今まで考えたことがない。それはどんなに幸せなことだろうか……『待たせても待つ身になるな』今その意味の真が深が理解できたと思う。


 アチキはいつだって私を待っていてくれた。アチキはどんな気持ちで私のことを待っていてくれたのだろうか……


 見上げる空は青い。


 私は溜息をついた。今更ながらアチキに会いたくなったのかもしれない。哀愁の溜息を私がつくと、つむじ風のように境内に生えた雑草が激しく身を揺さぶった。


 それから毎日、散歩がてら神社の前を通ってみたが、アチキの姿を見ることはない。立て札の意味を知っている私としては、知りながら鳥居をくぐるのがなんとも心苦しく、ゆえに鳥居の外から境内を覗いていたのである。


 田舎に帰ってから、一週間ほどが過ぎた昼間。郵便受けに一枚の葉書が入っていた。


 宛名も住所も書かれておらず、裏には『明日、正午に神社に来られたし 』という一文と桃の絵が書かれてあるだけの葉書が…………


 だが、私はすぐにこれはアチキではなかろうか……と直感できたのである。 


 昼ご飯さえも忘れて。私は葉書を何度も見ては憶測を巡らせていた。そもそも、アチキの名前はなんというのだろう。


 子供の頃に「あちきが~」と言う口癖から『あちき』と言う名前なのだと思い込んでいたのだが、『あちき』と言う言葉が示す意味を知った今からすれば、名前が気になって仕方がない。


「むぅ」 


 私は頭を掻きむしった。


 思い出せないのである。夏と言えばアチキと遊んだ記憶しかなかったはずなのに、なのに、アチキの顔も声もはっきりと思い出せないのだ。鬼ごっこも追いかけっこもした事は覚えている。そして、おにぎりを、桃を一緒に並んで食べたのも忘れることなどできない。だと言うのに!アチキの顔も声も朧気ではっきりとした像を結ばないのであった……


 宵の口を前に、晩飯と鮭フレークの瓶を買い込んだ私は、そんな風に煩悶としながら家路を歩いていたのだが、家に到着する頃には、どうせ明日会えるのだから、いまさら思い出す必要もあるまい。そのように当然の帰結でもって思い出すことをやめてしまった。


 次の日は、懐かしみながら大きなおにぎりを二つ作った。三角形にならず不格好な米俵のようになってしまったのはご愛敬である。


 正午よりも早く神社の境内に到着した私はてっきり、アチキが先に来て待っているものだと思っていたので、誰もいない境内を見て、幾ばくか肩を落とした。


 腕時計を見ながら、佇むこと数分。正午きっかりに突然雨が降って来た。空を見上げれば見渡す限り蒼天であるからして、奇妙な天気である。


 私は眉を顰めながら、社の下に避難すると賽銭箱の上に腰を降ろして、この通り雨だろうにわか雨がやむのを待つことにしたのである。


「こんな雨は……えっと……」


 遠い昔にも同じような台詞を吐いたような……そんな面持ちとなっていると、やがて雨は台風のごとく豪雨となり、雷こそ鳴っていなかったが、季節はずれの豪雨であることは間違いない。


 そして、時間にして5分ほどバケツをひっくり返したような豪雨の後、雨足は次第に弱まり、やがては霧雨となった。


「霧かよ……」


 雨の次は霧である、私は帰ろうかと思った。こんな奇妙奇天烈な天気あったならば、アチキとて来たくてもこられないだろうと思ったからだ。


 しかし、私が腰を上げたその時に聞こえた『シャン』と言う鈴の音で、私の深淵に眠っていた記憶の全てが解き放たれたのである。一定の間隔で鳴る鈴の音に私の体は鳥肌が駆け抜け、冷や汗がしたたり落ちていた。


 生唾を何度も飲んで、霧の向こうから聞こえ、そして近づいて来る鈴の音を聞きながら私は現れるだろう人影に霧を穴が開くほど凝視した。


 すると。いつかと同じ、手に手に獲物を携えた女性達が姿を現した。


 鈍く光るそれらの切っ先を私に向ける着物の女達。私は狼狽するどころかいたく冷静であった……「そうか」……私は全てを理解した。いいや、ようやく理解できたのだ。晴れに降る雨もアチキが『神社に来るな』と言った意味も。


「おつぎ物です」


 私は聞こえるようにそう言うと、おにぎりを見せてから、数歩歩み、これを足元に置いてから再び賽銭箱

の前まで後ずさった。


 女性の一人がこれを拾い上げると。女性達は獲物の先を天に向け、道をつくるように腰を低くして左右に別れて行く。私はさらに生唾を大量に飲み込んだ。記憶が正しければ…………いいや。私の憶測が正しければ……きっと……


 やがて、恭しく、白無垢を身に纏った花嫁がお付きの女性と共に私の前に歩み寄る。


 私の少し手前で人払いをするかのように、お付きの女性の足を止めさせた花嫁は、単身でさらに私に歩み寄ると。


「ありがとう」


 透き通るような声でそう言い、赤い酸漿を私に差し出した。


「あの時は、助けてくれてありがとう」


 私がそう言った。すると、花嫁は徐に首をもたげたのである。


 花嫁は美しかった。この世のものと思えないほどに純白であり、唯一に紅がのせられた唇は小さく、まるで熟れの時季を迎えた桃のようだった…………真実とは、事の誠とは本当にあの夏に戻れないのだろうかと後悔するほどに、そうして一年に一度のこの暑い季節にだけでもこの場所に帰ることができなかったのだろうか。私は酷く後悔した。後悔せずにはいられなかった………………


 口許を綻ばせて、優しくした鳶色の眼は語らずも、私の心に全てを教えてくれるようだった。


 名残惜しいように笑った花嫁は、


「さようなら」今一度透き通るような声でそう言うと、私の手の上に大玉の桃を置いた。


 そして、静かに振り向いてお付きの女性と共に霧の彼方へ歩いて行く。


 真実とはこんなに残酷なのだろうか、もう戻れない……あの夏にはもう戻ることはできない。そんなことはわかっている。私だけが知る彼女はもういないのだ。


 それでも!それでも、私は呼び止めて今まさに駆け出したかった。いつも通りのあの夏の昼下がりなのだから……まだ、謝ってもいない。感謝の言葉だって伝えたりない……駆けだして、彼女の手を取ってどこまでも逃げたならば……それも叶うだろうか……いいや。


 叶えられるならばそうするしかあるまい。


「おめでとう!おめでとう!」


 私は「行かないでくれ」と「もう一度だけ逢いたい」と、叫びたい言葉を全て振り払ってそう叫んだ。


 アチキは「さようなら」と言ったのだ。私がするべきことは、出来ることは……最後にしてあげられることは……彼女の手をって逃げることでも、悲しきを叫ぶでも名残惜しいを泣くことではない。ただ、涙を呑んで祝いの言葉を天に向かって叫ぶことだけなのだ。


 アチキは私の言葉を聞いて涙してくれただろうか……寂しいと、切ないと想ってくれただろうか……


 どこまでも白く無垢を纏った花嫁は一度だけその歩みを止めた。二度と振り向くことはなかったが……一度だけ、歩みを止めて空を仰ぎ見たのであった。


  ◇


 昔から私が田舎から帰る日は朝から雨が降っていた。


 冷たい雨ではなく、今、私の手の中の酸漿を濡らす大粒に温かい滴であった。きっとアチキが雨を降らせたのだろうと思う。


 遣らずの雨……アチキは口にこそ出さなかったけれど、ずっと毎年……毎年……私を引き留めてくれていたに違いない。


 私は幸せ者であった。気が付かないからこそ幸せ者であった。


 アチキは何度、一人涙を流していたのだろうか。


 だから、今日は……今日だけは一生分の涙を、私の涙を、アチキにこそ贈りたいと思った。


    

 

                 おわり       

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