box
初めは、小さな事が始まりで、軽い物忘れ程度だった。
今度は、自分が何歳か分からなくなってしまったのかい。
何度も君の記憶を告げる度、僕の恐怖は大きくなっていた。
君はもう、分からないだろうけど。
「写真を撮りましょう」
君の忘れてしまった事を教えながら、着いた二人の三度目のこの海。君にとっては、初めての海だ。
突然の提案に、僕は変わらぬ艶やかな髪に触れる事を躊躇い、小さく、「いいよ」と頷いた。
近くで歩いていた、仕事を終えた様子の漁師に、携帯電話を渡し、シャッターを押してもらうことにした。
妙に空いた、二人の距離感に彼はわからない。
「夫婦か?こんなところによく来たね」
黒く焼けた漁師のニコリとした笑顔に、彼女は言った。
「夫婦ではないです。似たようなものみたいですが」
漁師と君は笑ったが、僕はじっと画面の写真の中を見つめた。
愛し合う関係の写真は、いつまで彼女の中にあるだろう。
それから、何度も僕と君は会い、その度に君を忘れていく記憶を僕が直していった。
回数か増えて、時間が延びていく。
彼女の両親の顔はやつれ、悲しみを隠しきれなくなり、重い空気も増えていった。
それでも、君が僕を拒否する頻度が上がっても、会いに行った。
僕は、記憶を取り戻すために、必死に過去を追いかけた。
しばらくして、彼女は自ら身を投げた。
理由は記憶をなくしたパニックで、10階にある自室から窓へ飛び出した。
自殺かどうかは不明だが、自分がどこにいるかも、飛び出したら死ぬ事も分からなくなっていたのだろう。
そう、警察は言った。
葬儀は、とても静かに小さく執り行われた。
しばらくして、僕に遺品の一部が届いた。
彼女の両親の意向で、僕に渡したいとの事であった。
しばらくして、小さめのダンボールが、家に届いた。
中に入っていたのは、僕と写った写真や、メモ用紙や色とりどりの付箋だった。
『海は3度目らしい』
『5年前に出会った』
『無口。背が高い』
僕との記憶や、二人の関係、僕の特徴や単語などのメモが大量に入っていた。
彼女が思い出せるように、書きためていたのだろう。
どれも、「らしい」「だったみたい」などの推測や、忘れた過去の言葉に溢れていた。
次々と記憶のかけらを、取り出す。
ああ、君の記憶はここに残っているよ。
一つ一つ読み返し、最後の記憶を取り出した。
『私は、彼を愛している』