17-2
2
タクとは、なにを話したってわけじゃない。護衛の人にはどんな仲間がいるかとか、ジャムってどういう人だとか。
二人だけでなんでもない話をするのは本当に久しぶりで、すごく嬉しかったんだけど、反面落ち着かない。肝心な会話が大事なところを避けているのがお互い分かっていたから。
不意に話が途切れ、間の悪い沈黙が下りる。上体だけ起こして背中を枕に預けていたわたしは、居心地の悪さをごまかすように座り直した。
右隣のベッドにこちら向きで腰掛けていたタクが、ふと膝の上に置いた手をズボンへ滑らせ、そこから何かを取り出す。
タクの大きな手の中にすっぽり埋まってしまうそれを見て、わたしはかすかに声をあげた。
見覚えのある青いチェックの生地。クマのぬいぐるみだったそれは、足がぶらぶらで、鼻も目も取れたよく分からない物体になっている。
――なにが、あったんだろう。
〝囮〟の内容をタクは口にしないけど、一言で済ませられることじゃないような気がした。
テディベアがこんなふうにまでなる状況を、あるだけの想像力で思い浮かべてみる。でも、うまくいかない。ちら、とわたしの心の片隅をあの凶暴な光景がよぎった。
『クマ、ぼろぼろだね。それ、さっき言ってた〝囮〟のせい?』
『……ああ』
『そっか。ごめんね、タクにいろいろ負担かけて』
わたしは、あんまり深刻になりすぎないようにそう言った。タクが無事にここにいて、わたしのあげたぬいぐるみをこうなっても持っていてくれたことのほうが大事だと思いたかった。
タクがふっと、壁のほうに目を逸らす。
『……リオコは怒らないんだな』
呼びかけるでもなく口にされた呟き。かすかに含まれた非難の響きに、わたしは彼を見た。
『怒るって?』
『これを汚してしまったこと』
『だって、それは仕方なかったんでしょう?』
『それに、あの約束――』
二人の間に靄のようにわだかまっていたことを口にされ、わたしの胸がきりりと痛んだ。思わず、タクから視線を外す。
〝正直でいる〟という約束。ただの口約束だけど、タクや周りの人にとってわたしが〝異界の乙女〟である以上それは重い。もちろんわたしにとっても、別の意味ですごく大事だ。だけど。
『タクは〝急用ができたけど、あとで追いつく〟って言ったよね? それって嘘だった?』
『いや』
『じゃあ、約束は守れてるよね』
『だが、君を守ることができなかった』
『わたし、どこも怪我してないよ?』
『体のことではなく――』
言いかけ、タクが言葉を濁す。わたしの中に、もわっと灰色の感情が湧いた。
――わたし、そんなに守られないといけないものなの?
確かに、襲われたときは怖いなんてものじゃなかった。今こうして安全なところにいるからいいけど、あの時は真紀もタクもルイスでさえ味方に思えなくて、崖っぷちから一人で突き落とされたような気分だった。
たとえ起きていても何も出来なかったかもしれないけど、あのとき意識を手放してしまった自分に歯がゆさを感じるわたしに、タクの態度はすごくイラつく。
どこまでも守って守って――まるで赤ちゃんだ。それがさらに〝異界の乙女〟や〝約束〟のせいで義務になってしまっているところが、余計に腹が立つ。
怒ろうと思うと、泣きそうになった。
『そう……だね。怒りたい、ことはあるよ』
泣かないように、ゆっくりと言葉を区切る。
『なんで、護身術、教えてくれなかったの?』
タクが、少しだけ目を瞠ってこちらを見た。
『そんなことをする必要は……いや。そうだな、俺の腕では信用してもらえなくても――』
『信用してるよ! だけど、わたしだってちゃんと頑張りたいの。あんなふうに気を失って倒れて、介抱されるだけなんて、イヤなの』
『リオコ』
『わたし、守ってもらってばっかりは――』
言ってる間に、目の縁から雫が転がり落ちる。ああ、もうほんとに情けない。
顔に血が昇るのを感じながら、慌てて涙をぬぐったら、ふいに大きな何かに包まれた。
あまり明るくはなかった視界が塞がり、固い生地が額のあたりに触れる。目の前に伸びる腕。頭の後ろに当たる、指の感覚。
――こここ、これって……。
タクに抱きしめられているのだと理解した途端、心臓が勢いよく飛び跳ねたまま全力疾走をはじめた。
『泣くな。いや……その、泣いてもいいんだが』
耳の後ろで、ぼそぼそとタクが呟く。
『君の泣き顔を見るのは落ち着かない。君が泣き止むまで、こうさせておいてくれ』
それって普通、逆じゃないのかな。泣くほうが胸を貸して欲しいって言うはずなのに――わたしは恥ずかしいから言えないけれど。
口を開くと鼓動まで伝わりそうで、わたしは無言で目の前の服をぎゅっと摘んだ。
埃、汗、焦げたような臭い。香料の気配もない自然の匂いは、そのまま彼の性情のように飾りなくて清々しい。
『助けに行くのが遅れて、すまなかった』
その声に、わたしは嗚咽を抑えきれなくなった。ぽつ、ぽつと音をさせて、涙が掛け布団に落ちていく。
『あのまま君が目覚めなかったら、俺は自分の命を絶っても後悔し尽せなかった』
気のせいだろうか、わたしの頭を支えるタクの手が震えている。顔を上げて彼の表情を確認したかったけど、動けなかった。
――タクも、怖かったの、かな。
思い切って、タクの胸に頬を埋めてみる。数瞬遅れて、肩に回されていた腕が力強く背中から抱き込んできた。
『君が無事で本当に良かった』
『タク、震えてるの?』
『……君を失うのが怖かったから』
どきん、と一際心臓が跳ねる。無理やりそれを気のせいにして、話を続けた。
『し、心配かけてごめんなさい』
『謝るのは俺のほうだ。君に愛想を尽かされても仕方ない』
『全然そんなことないよ。すごく頼りにしてる』
『無理はしなくてもいい』
『無理じゃない。なんで、そんなこと思うの?』
『リオコは、やさしいから』
ふと腕が緩まる。わたしは彼の胸を支えにして、見上げるようにした。すごく近いけど、薄暗いのと気が昂ぶっているのとで、そこまで恥ずかしさはない。
とっとっとっと。早鐘の鼓動が秒針を刻んでいる。
『やさしい?』
『勝手にこの国に呼ばれて水門を探しに行くように言われて、こんなところまで来てるのに、君は文句ひとつ言わないだろう?』
『だって、困って、るんでしょ?』
できることがあればしたいだけなのに。それとも、そんな力なんてないと言外に言われているのかと怖くなった。口を噤む。
『だが、君の住む国ではない。みんなの勝手な願望を受けて、俺のしたことも赦して……なぜリオコは、そんなにやさしくなれるんだ?』
『やさしく、ないよ』
なんだろう。全然思っても見ないところで、タクと擦れ違ってしまってる気がする。
ひょっとしたらタクは、わたしを理想化しすぎてるんじゃないだろうか。〝異界の乙女〟なんて言葉を今すぐ剥ぎ取って、地面に放り捨ててしまいたくてたまらなくなった。
でも――できない。いいカッコしたいわけじゃなくて、本当にこの国に水が必要だと分かるから。今までの街だけでなくナアカでは特に乾いた岩地が広がっていて、子どもたちはみんな働いていた。その手助けができるなら、したい。それに、ここはタクが住む世界だ。
『わたしだって、すごく嫌なこと考えてたりするよ。知ってるじゃない、真紀ちゃんと比べて落ち込んでたりしたこと』
『だが』
『この旅に出たのも、親切からなんかじゃないよ。わたしが、そうしたかっただけ。そうしたほうが真紀ちゃんや……みんなとも離れなくていいし、ここに居る理由なんだって思えるでしょ。それだけ、だよ?』
また頬を涙が伝う。指先でそれを払ったけど、今度はタクから目を逸らさなかった。
『真紀、みたいに、はっきり意見言わないからって、わたしの意志がないみたいに、言わないで。わたしは、わたし。ちゃんと考えて、ここに、いるの』
『……すまない。そうだな、俺の考えが足りなかったかもしれない。さっき真紀にも、君を〝タカトウリオコ〟という個人としてきちんと接しろと怒られたばかりなのに』
二人でそんなことを話してたんだ。少し笑ったら、夜の空気がほんのわずか軽くなった。
――そういえば……。
真紀が帰ってくるのが遅い。お風呂、そんなに時間がかかってるんだろうか。
喋ってタクも落ち着いたのか、やさしく笑って、まだ濡れてるわたしの頬を指先で撫でた。固くて大きな指先が頬をなぞり、唇の端に触れて顎へ落ちる。
『リオコ。じゃあ、俺と旅を続けても?』
了承の印に頷くと、タクが目を細めた。
『……そうか。ありがとう』
タクの手が顔の縁を過ぎて、耳の後ろの髪を梳き下ろす。
その甘い感覚に、ぴり、と全身を未知の電流が走った。心臓のどきどきすら、耳に入らない。
『ここに来てくれたのが君で良かった』
ひっそりとこぼれた囁きが、わたしの中の電流を増していく。満たしていく。
――いいの……?
『もう二度と、君から離れたりはしない』
――信じてしまって、いいの?
どきどきと夢の中を――さっきのとはまるで違う甘い夢を漂っているような浮遊感に包まれる。言葉が出ない。
薄闇の中で、タクの両眼がきれいな星のようにわたしを見つめていた。無骨な手が、ゆっくりと髪を撫でる。
わたしは期待を籠めるように、軽く目を閉じた。瞼の裏にも分かる影が近づき、熱い吐息が髪にかかる。
――え。
タクは、忠実な騎士のように髪の先に唇を触れると、にこりと微笑んで、あっさりとわたしを拘束していた腕をほどいた。
『もう眠るといい、リオコ。君は疲れている』
『え、でも……』
『夜更かしはよくない。お休み』
ずっと寝ていたから眠くない、というわたしの訴えは聞き届けられず、結局タクはわたし一人を置いて部屋から出て行ってしまった。
…タクのへたれ。