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翌日起きたときには、もう理緒子は部屋にいなかった。荷物はそのままで、あたしはまだ眠気の残る頭で(眠れなかった、ということがないからどうしようもない)階下に降りていった。
「おはよう、真紀ちゃん」
とびきり極上の笑顔で、食堂にいる理緒子が挨拶してくる。挨拶はいいんだけど。
「……なんでエプロン」
しかも頭には三角巾。花柄のその下からは、短いおさげが二本ぴょこんと覗いていて、それがまた絵本から出てきそうなかわいらしさだ。
「お店が忙しそうだから、手伝ってるの。サンドイッチ食べる? BLT風」
ベーコン・レタス・トマトの黄金タッグを異世界で味わえるとは思わなかった。
おとなしくテーブルの片隅に腰掛けると、華奢な理緒子の体がくるくると動いて、あっちのテーブルの皿を下げ、こっちのテーブルを拭きする間に、あたしの前にホットサンドイッチを運んでくる。
「へへ、発案者はわたしなの。美味しいと思うから、食べてみてね?」
飛行船で見せてくれた携帯にはお店で食べた食事の写メもたくさんあって、料理が好きなんだと聞いてはいたけど、会ってから体調を崩すことが多い理緒子しか見ていなかったから、なんだか意外だ。
焦げ目のついたパニに挟まれたそれを一口かじる。レタスもトマトももちろん元の世界のものとは全然違って、似ているのは歯ごたえくらい。だけど生野菜と燻製肉という組み合わせに、ちょっと酸っぱいマヨネーズ風のタレがかかったそれは、今までの異世界料理にない新鮮さだった。
――なんか、元気出るかも。
理緒子が発案したのはBLTだけじゃないらしく、ときおり奥の厨房に呼ばれていく。と思うとウエイトレスのお姉さんの声がかかったりして、引っ張りだこだ。
あたしはBLTパニサンドを香茗茶と一緒に食べ尽くし、お皿を下げるついでに厨房に顔を出した。
「なんか手伝うよ。お皿洗いとか」
「えっと、じゃあ皮むきお願い」
厨房の奥で中華包丁並みに大きな包丁を片手に、バケツ山盛りに積まれた白っぽいサツマイモみたいな芋の皮剥きに挑む。これが意外に苦戦だ。いっぱい実が皮に残ってしまう。
「xxx!」
あたしの不器用さをすぐに見抜き、調理人のおじさんがなにか言ってきた。マフォーランド語は初心者なんだから勘弁して欲しいけど、朝の厨房は殺気立ってて、追い立てられるように洗い場へ向かわされる。
で、洗い場のおばさんの指示の下、お皿洗いに徹することになった。立ちっぱなしのまま例のヘチマスポンジもどきの小さいやつを片手に、お菊さんも嫌になるくらいの枚数の皿を数時間ぶっ通しで洗いつづける。
やってくる皿が減ったかな、と思ったのも束の間、怒涛の昼時間に突入して、あたしとおばさんはますますそこから離れられなくなった。
――飲食店でバイトとか、みんなすごいな、おい!
バイト未経験のあたしのナニカが微妙に目覚める。働くって偉大だ。
忘我の境地に陥ってあたしがひたすら洗い物をしていると、やっと理緒子が顔を見せる。
「ごめん、真紀ちゃん。手伝ってくれてありがとう。もう落ち着いたから、あがっていいよって」
「はーい」
ふやけきった手をエプロンで拭き、それを外して、厨房の片隅に用意された遅い昼ごはんにありついた。
ミェンという短い饂飩に似たものに、そぼろと野菜を煮込んだスープをかけて食べる。すごく庶民の食べ物らしいけど、これが旨い。獣脂と塩分って、なんで空き腹によく響くんだろう。あっという間に完食だ。
「ごちそうさま。理緒子、これからどうするの?」
「んー、夜の仕込みがあるみたいだから手伝おうかなって」
なんだか理緒子は料理人スイッチが入ったみたいだ。この前までの閉じこもっていた彼女からは想像できないくらい、前向きな感じ。
――きっと、なにか変わろうって思ったんだろうな。
そのきっかけがタクとの話し合いだったのかは分からない。だけど、昨日のエステの成果だけじゃなく、一心に前を向いた彼女は輝いていて、今のあたしにはまぶしすぎた。
自分が逃げているのは自覚してる。洗い場に籠もっていたのも、ルイスやアマラさんと顔を合わせるのが怖かったからだ。時間が経てばなんとかなるかと思ったけど、時間が経てば経ったぶんだけ、怖さが増したようだった。
「ちょっと散歩してくる」
「一人で行くの?」
「空気吸いに行くだけ。籠もりっぱなしだったし」
「うん、気をつけてね」
笑って手を振ってみせたけど、よく笑顔ができたと自分で感心してしまう。それくらいあたしは落ちていた。
部屋に戻って、旅用のマントを羽織ろうとして止める。なんだかあたしだとはっきり分かるものに身を包みたくなかった。ちょっと考えて、腰に巻いていた帯紐をほどいて頭から被る。髪の毛を全部覆うように縛り、余った生地をマフラーみたいに首に巻いた。女っぽく見えないように、薄手の無地のショールをマント代わりに肩からかけた。
――よし。
廊下を見渡して、知った顔が誰もいないことを確認すると、裏口から外に出た。といっても目的はない。少しの間だけ、誰の目からも隠れたかった。
お風呂屋さんに行くときに通った通りを歩き、お店を外から眺める。タクにもらったお金も使い切ってしまったし、下手に荷物をもっていると危ないと思って手ぶらだから、お店の人もあまり熱心に売り込んでこない。
さすがにナアカより大きな都市だけあって人も市場も倍以上の規模だけど、奥へと伸びる路地は、どきっとするくらい無機質で閑散としていた。
メインストリートをぶらぶら歩き、大きな建物の前にある噴水に辿りついた。白い石で作られた円形の噴水は、魚とか鳥とかの彫刻が並んでいる。ただし、出ているのは水ではなく温泉だ。
――足湯ができるんじゃないのかな。
思って覗いていると、背後から声がかかった。ハスキーな男の声。どこかで聞いたような気がしてふり向き、驚いた。
あの鉄色の髪をした、背の高い男が立っていた。たぶんヴェルグとかいう名前だった吟遊詩人の彼は、やっぱり背中に楽器らしい大きな荷物を担いでいる。
言葉が通じないことを思い出したのか、ヴェルグがあたしの腕に触れる。
『浅いから、落ちると頭を打つぞ。気をつけろ』
――この人、あたしがなにをしようとしていると思ったんだろう?
顔をしかめれば、彼がふっと微笑を浮かべた。
『どうした、元気がないな。あの連れと喧嘩でもしたか?』
そういう言い方をするってことは、この人は乙女護衛隊の人ではなさそうだ。
――なんだ、違うんだ。
なんだかそのことに、妙に安心する。たまには異界とか乙女とか抜きで、誰かと接したかったんだ。
首を横に振ると、彼は肩から荷物を下ろして噴水の縁に腰掛ける。あのギターに似た楽器を取り出し、組んだ足の上に乗せた。
『元気が出るように俺が一曲歌ってやる。聞いてろ』
偉そうな言い方だけど、その態度が厭味じゃなかった。素で俺様なんだろう。ちょっと、懐かしい人を思い出す。
シトゥラという楽器は、アコースティックギターとエレキギターのちょうど中間のような音がする。ヴェルグは右手にピックを持たず、親指と人差し指、中指に爪をつけて弦をつまびきはじめた。
シャラン…と明るい音が空を駆ける。波のように三連符の続くそのメロディは、ナアカで二番目に聞いた曲だった。だけど少し旋律が早くて、低音を強めに押し出して奏でられるそれは、もっと情熱的なラブソングに聞こえた。歌詞もなんだか違う。
――せーころぬー……るーあ?
だめだ、さっぱり意味が分からない。だけど、メロディはきれいでとても覚えやすい。二番のくり返しになる頃には、すっかり耳になじむ。
サビにさしかかったところで、三度上を歌った。音階が近いからすんなりはまるだろうと思ったら、やっぱりそう。きれいに歌と伴奏にあたしの声が乗る。歌詞はむにゃむにゃなので、アーとかラーなんだけど、ハモったら、ヴェルグが一瞬驚いた顔をした。
喋れないとでも思っていたのだろう。意外そうにあたしを見ながらもヴェルグは歌うのを止めず、サビが終わりかけたところで、もう一度リフレインをうながしてきた。
久しぶりに人と歌って気持ちよくなったあたしは、調子に乗って足でリズムを刻みつつ、今度は数拍遅れて追いかけるように同じメロディを歌い、最後のワンフレーズを上に被せた。
シトゥラの和音がジャラジャラと鳴り響き、あたしとヴェルグの声が重なって、息を合わせて切れる。周りから起こる拍手と指笛に、かなりの人数に注目されていたことに遅まきながら気がついた。
『ほら、頭下げとけ』
送心術で言いつつ、ヴェルグが聴衆に軽く頭を傾ける。あたしもぺこぺこ挨拶した。
ヴェルグは話しかけてくる周りのおじさんたちになにか答え、あたしの頭に手を置く。
『客がもっと歌えと言っている。他の曲もいけそうか?』
――あんまり歌知らないんですけど。
困った顔をしていると、ヴェルグはにやりと人の悪そうな笑顔をみせて、またシトゥラに指を走らせた。これは最初に聞いたやつだ。
メロディは単純だけど、早いんだよね。適当にラララで合わせているとばれたのか、ヴェルグが歌詞を追いかけるように、歌いながら目顔で指示する。目を合わせて、呼吸を合わせて。
リズムに体を乗せながら、仕掛けてくるヴェルグに負けないように返していく。あたしたちの掛け合いに、さらに聴衆が拍手で盛りたてた。息が切れそうになりながら大盛り上がりで終わったのに、
『おまえの発音はひどすぎる。最悪だな』
ダメ出しキマシタ。
『今度はおまえの好きな歌を歌え。合わせてやる』
余裕をぶっかました発言をされたので、少し考え、適当にノリのいい歌謡曲を選んで歌った。歌詞を間違えても分からないところが助かる。
大口を叩いていたヴェルグは、それでもさすがに絶妙にシトゥラを合わせてきた。ちょっとカントリー風味に仕上がるけど、それはそれでアレンジっぽくていい。
――あー、ツークス領主に貸したオーディオがあればいいのに。
ヴェルグに聞かせたらなんて言うんだろう。そんな妄想をしながら自分の好きな曲を歌ったり、リクエストされた曲をハモったりしながら十曲近くをこなした。
気がつくと、シトゥラの入っていた空の布袋の中に、結構な額の小銭が入れられている。
――おお、まさかの路上ライブ!
さすがに歌い疲れたのか、最初の曲をもう一度演奏し終えたあと、ヴェルグはあたしをうながしてお客さんに挨拶し、爪を外して小銭を片付けはじめた。そういや日もちょっと傾き加減だ。
『ほら、小遣い。変な遊びに使うんじゃないぞ?』
やっぱりどこかで聞いたような威張り方で、あたしの手に十ゼン硬貨を一掴みほど乗せる。
「ダンカスアレース(ありがとうございまーす)」
『……おまえは本当に発音が下手だな』
ため息半分の送心術で言い、ヴェルグが声に出して喋る。
「ア・レ・ス」
「あれす?」
「レ」
「ぅれ?」
「……」
どうも「レ」の発音がうまくないらしい。ヴェルグが呆れた顔をした。
『二歳児より下手くそだ。もっとしっかり勉強しろ』
「ヤー(はい)」
しぶしぶそう言うと、袋にしまったシトゥラを肩に担ぎ、ヴェルグが笑う。
『おまえ――このまま俺と行く気はないか?』
「……え?」
『どうせ、あいつらといてもろくなことは――』
『――そこまでにしてもらいましょうか、旦那』
送心術であり得ない割り込み方をしてきたのは、聞き覚えのある低い男の声。ジャムだ。
いつの間に現われたのか、ヴェルグの背後に立つ彼は、外套のフード下からでも分かる金色の目を厳しくあたしと彼に向けていた。
ヴェルグが舌打ちする。
『さすがに盗賊上がりは、やることが大胆だな』
『好きに言うといい。……嬢ちゃん、帰るぞ。みんな待ってる』
ジャムがヴェルグとあたしの間に、体を滑り込ませるように入ってくる。
――みんなったってアマラさんは絶対その中に入らないだろうし、理緒子はタクがいればいいんだし、あたしが帰る意味なんてあるのかな。
ごまかしていた暗い靄が、再びあたしの心を急速に覆う。
『嬢ちゃん。今ここで諦めると、あんたは自分に負けちまうぞ? 誰かの意味がなくても、嬢ちゃん自身にその意味があればいい。違うか?』
――だけど……え???
あたしの頭に新たなクエスチョンマークが生まれた。今、彼は――。
――あたしの、心を、読んだ……?
気付いた瞬間に思い出したのは、タクの言ってた〝ガウルと話のできるマーレイン〟の話だ。
動物と話ができるってことはつまり、話のできない相手の心が読めるっていうことで。
――ジャムのこと、だったんだ。
そんな彼が、ずっとあたしたちを見守ってくれていたこと。ガウルの件でみせたタクの態度や、襲ってこなかったガウルの群れのことがそれと符合して、あたしはぐっと胸が詰まるのを感じた。
――ああ、あたしまた、助けてくれる人から目を逸らそうとしてた……馬鹿だな。
『帰れるな?』
語りかける金色の目の男に頷いて、あたしは、ヴェルグに別れを告げようとその背後を見た。
そして彼はまた――いなくなっていた。
注)三度:ここではメジャーコード(長三和音)のこと。
平たく言えばド・ミ・ソの和音。レ・ファ#・ラも同じく。
和音を作るにはひじょーに基本的な音階。
ちなみに「一度」は、ピアノの鍵盤を思い浮かべると分かりやすいです。
黒鍵を挟んだ白鍵同士が一度(=全音)→ド・レ・ミ、ファ・ソ・ラ・シはそれぞれ一度違う
黒鍵を挟んでない白鍵同士が半音→ミ・ファ、シ・ドはそれぞれ半音違う
鍵盤思い浮かべられる人は知ってるゆーねんって言われそうだ……。
ええ、気温でも角度でもないと分かっていただくだけで充分です(汗;)。