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突然降って湧いたような旅の休憩時間を、あたしと理緒子は、アマラさんに連れられて街のお風呂屋さんで過ごした。
ヒューガラナだけじゃなく、高地タキ=アチファを含めたこの辺りは火山帯らしく、あたしたちが登ったり下ったりしながら越えてきた山々の向こうには、岩と石だらけの巨峰アッスズが聳えていた。通称、死の山。
活発な活火山であるそれは、だけど近づきすぎて他の山の陰に隠れてしまい、目にすることはできない。その代わり、街のいたるところに温泉が湧き出ていた。
ヒューガラナ=温泉街というくらい、街には掘っ立て小屋のような小さなお風呂やさんがいくつもあって、そのうちの煉瓦造りのわりと小綺麗なところにあたしたちは入った。
ここのお風呂は普通とちょっと違う。実はいくら温泉湧き放題といっても、どこもほぼ源泉だから薄めないと危険なのだ。でも、地下を掘っても水じゃなくて温泉が出てしまうこの辺りで、水は貴重品。
そんなわけで湯船に浸かるのではなく、石を敷き詰めた下に源泉を流して、その蒸気を受けた上側に香草で編んだ筵(むしろ)を敷いて寝そべる、いわゆるミストサウナ状態がお風呂代わりというわけ。温度は低めだけど、これが結構効くらしい。
地元の人たちに混じって、早速三人でマグロみたいに並んで転がった。個々のブースは低い石積みで区切られているけど、みんな平気で真っ裸で歩き回るので恥ずかしいなんていっていられない。宿から持参した、ささやかな抵抗の大きめタオルを外し、あたしは腕枕をしてうつぶせになった。
たちのぼる温泉の蒸気が、鼻につく独特の香りを放っている。それだけで、なんだか和む。つくづく日本人のDNAを感じる瞬間だ。
蒸気か汗か分からない水分に全身を包まれながら、横を向いたり仰向けになったりしているうちに、ヘチマみたいなものをもった垢すりおばさんが登場する。アマラさんがオプションで頼んでくれたのだ。なんと入浴料込みで五十ゼン。夕食より安い。
――痛かったらやだなぁ。
皮膚だけはか弱いので、たくましいおばさんの腕を目にして躊躇したけど、ヘチマもどきの繊維はやわらかくて、がんがん擦られているのに痛みはない。それより、自分の体から出てきたものにびっくりだ。
――わあ、これ確実にナニカが減ったよ!
体重とかプライドとか羞恥心とか。でも充分にお風呂に入れてなかったから、本当に肌が軽くなった。おばさんと笑顔だけで会話して結構な時間だらだらとしていたら、隣の仕切りからアマラさんが顔を覗かせた。
「xxx?」
指環をしてないから聞き取れない。手招きされたので、タオルを巻いて立ち上がれば、理緒子が脱衣所に向かう姿が見えた。色白だから、足の裏まできれいな薔薇色に染まっている。
――うわ、足ほっそ~。
へへ、女の子同士でお風呂に入ると、絶対他の人のハダカって見ちゃうよね。めずらしく髪をアップにした理緒子のうなじや、片腕で一周できそうなウエストなんかをばっちり観察してしまった。
水分をタオルで拭きとって、脱衣所の椅子に座る理緒子のところにいく。
「すごいね、理緒子。真っ赤だよ。大丈夫?」
「あ~つ~い~。真紀ちゃん、なんでそんな平気そうなの?」
「結構キテるってば。時間空けてまた入る?」
「もうムリ~」
くてん、と理緒子が両手を後ろについてのけぞる。タクが見たら悶絶しちゃいそうだ。
華奢な理緒子とは対照的に、タオルが弾け飛びそうな体型をしたアマラさんが、こちらを見てなにか言って来た。指環をしたままの理緒子の左手をとって、言葉を聞きとる。
『――暑いなら、向こうの部屋に行きましょうか?』
真っ昼間だというのに脱衣所も混雑してきたことだし、あたしたちは着替えの入った籠を持って、アマラさんの後をついていった。引き戸を開けた瞬間、さあっと涼やかな風が吹きぬける。
薄く切った木を組み合わせてできた、大きな鳥籠みたいなそこは広々として、太陽を遮っているだけなのに風が通ってすごく涼しい。空気が甘い。
床は土で、その上に置いてある簀子(すのこ)の上をぺたぺた歩き、中央にある背もたれのない長椅子に並んで座る。他に一人、二人、離れた椅子で横になって寝ている。
理緒子と二人で熱を冷ましていると、アマラさんがピッチャーごと水を持ってきてくれた。コジ入りの水だ。お礼を言って、三人で飲む。
『あれ、なあに?』
理緒子が長椅子の端に置いてある壷を指差す。アマラさんは歩いてそれをとってきて、ぱか、と蓋を開けて見せた。とろりとしたカラメル色の物体が、ヘラ付きの器に半分ほど。
『女の子の身だしなみよ。せっかくだから、今日はフルコースやっちゃいましょうか?』
『ふるこーす?』
アマラさんの笑顔が、ルイスの魔王の笑顔と重なるのはあたしの気のせいなんだろうか。
――魔法士だからかなあ。
ラクエルが聞いたら絶対否定しそうなことを思いながら、あたしと理緒子はアマラさんのするままに、とろとろのそれを腕や足に塗りたくられた。甘い匂いがする。
『これ、なに?』
『蜂蜜』
もったいない気がするけど、パックかな。と思ったら違った。
『いくわよー』
乾いたとたんに剥ぎ取られるソレ。
『――にぎゃっ!』
動物みたいな声が出てしまった。だって、まさか蜂蜜に産毛強奪されるとは思わないんだよ。
――異世界で脱毛かぃ!
誰に突っ込んでいいか分からないけど、とりあえず叫ばずにはいられない。ワックス脱毛なんて人生初だ。しかも、イン異世界。
『あー、でもつるつる~』
『でしょう? 十日から二週間くらいはもつわよ。はい次ー』
『にぎゃっっ』
アマラさん、S決定だ。理緒子は脱毛慣れしているらしく、嬉しそうに自分で剥がしている。恐るべし女子。すごいな女子。あたしも一応女子ですが、すみませんついていけませんごめんなさい。だけど剃刀負けしやすいあたしには合ってるのかもしれないと、ちょっとだけ思う。
思っているうちに、羞恥心が崩壊するくらい色んなところをくまなく脱毛され、オイルを垂らされ髪にも顔にも泥パックされ、まさに全速力でオードブルからメインディッシュまでを駆け抜けた。
――こ、断りきれない自分が憎いぃ。
お休みなのにとっぷり疲れた気がするのは、あたしの女子力不足のせいなんでしょうか。
『あなた、意外に着痩せするほうなのね』
最終段階なのか、長椅子に寝そべったあたしの背中を手のひらでマッサージしながら、アマラさんが送心術で話しかける。もはや理緒子は、専属のエステティシャンみたいな人を呼んでわきあいあいだ。
『お肌もすべすべ。若いって羨ましいわねぇ』
ぼんきゅっぼん、のお姉さまに羨ましがられても内心微妙だ。とっても喜びにくい。
『わたしね……あなたに会うのを楽しみにしていたのよ。彼が入れあげてるって聞いたから』
〝彼〟は元婚約者っていう彼ですか。噂の発信源はレスあたりかな。なんだか厭な言い方だ。
『どんな子か期待していたんだけど、異界の乙女っていうわりに案外普通なのね』
初めてだ、こんな毒のある送心術は。本当に言葉だけじゃなくて、あたしを否定する冷たいなにかが心に流れ込んでくる。
『まあ、〝乙女〟なのは確かみたいだけど』
くすりと笑い声が首筋にかかった。
――ああ、笑うことで人を傷つけたり貶めたりするのって、簡単にできるもんなんだ。
あたしは胸底に広がる鈍い痛みを感じながら、黙ってうつむいた。反論する気持ちが、先にぼっきりとへし折られていた。
今まで嫌悪や敵意を向けられたことがないといえば、嘘になる。だけど最初からどこかあたしたちを冷ややかに見ていたのに、親切にお風呂屋さんに連れてきてくれたし、すごく明るくて親しげだったから油断してた。もう、ぐっさりだ。
――ルイスのせいだ。
混乱する悲しみが、元凶の男への苛立ちに変わる。婚約破棄の理由は分からないけど、アマラさんがルイスをまだ好きなのは見て分かるのに。なんであたしが、とばっちりを受けないといけないんだ。
あたしの返事なんて最初から期待してないような、独り言に近いアマラさんの心の呟きが、容赦なく伝わってくる。
『彼、今は大事に守ってくれているようだけど、いつかあなたを捨てるわよ。彼は他人を受け容れることなんてできない人なの。そういう育てられ方をしていないのね。最後には必ず、あなたを捨てるわ』
――……ステル?
すごく奇妙な言葉に感じた。一瞬頭の中をルイスの屈託ない笑顔とか心配していた顔とか、髪をかき混ぜる手とか、魔法士の呪文を教えてくれた声なんかが駆け巡る。
一緒に仕事をして婚約までしていた相手が言うんだから、本当なんだろう。それでも頭の中のルイスとその言葉が、うまく結びついてくれない。
――結びつけたくない、だけなのかな。
『わたしたち、周りの反対で別れたのよね』
つまり二人の婚約は形式などではなく、恋愛からの発展だったってことだ。
それ以上聞きたくなくて、曲げた腕の中にぎゅっと頭を沈める。だけど流れ込む声は止まらない。
『彼を嫌がる親戚がいて。だけど今ならわたし、うまく説得できると思うの。だから……あなた、絶対に水門を開けるのよ? そうじゃないといろいろと困るから。まあ無駄足だったとしても、彼の目が覚めて、それはそれでいいのかもしれないけど』
こんなにも毒を孕んでいるというのに、その声はどこまでも甘く艶やかだった。根っこに毒をもつ可憐な鈴蘭のように。
なにも想像しないように目を閉じ、頭を真っ白にする。あたしの背中を撫でるこの手が、ルイスの体に触れたり抱きしめたり。ルイスがあの優しい目で彼女を見たり、頭にちゅーとか、それ以上のことをしていたなんて、考えるだけで息が苦しくなる。体は熱く火照ったままなのに、胸の奥が冷たく固く凍りついていった。
『わたし、元気な女の子は好きなのよね。違った形だったら、きっとあなたともいい関係になれたと思うけど……無理ね。わたし、あなたが嫌いだわ』
アマラさんに嫌われるなんて、どうだってよかった。
ルイスが好きだった人が今、目の前にいるというそのことだけが、あたしの心を容赦なく蝕んでいった。
この感情を、あたしは知っている。
嫉妬、だ。
…すみません。もう1節続きます…。