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正直、他人を気遣える余裕はひとつも残ってなかった。あの場で支離滅裂なことや暴言を吐かなかっただけ、よかったと思う。
――……つかれた。
部屋を出たところの廊下で座り込みそうになるのを、必死でこらえる。でもたぶん、眠れないだろうと思った。あれだけ泣いたのに、まだ泣いて喚き散らしたかった。
――どんだけ甘ったれてるんだ、あたし。
元いた世界で、どれだけあたしは庇護されていたんだろう。無条件にあたしを受け入れてくれていた家族や友だち、嫌いだった学校の先生までもが、すごく貴重な存在だった気がした。
よろよろと立ち上がり、隣の部屋をノックする。中から聞こえるルイスの声に「開けて」と日本語で言うと、素直にドアが開いた。
「ごめん、今晩ここで寝させて」
『マキ、どうしたんだ?』
腕を掴み、ルイスが聞いてくる。それをふり払い、すたすた歩いて靴を脱ぐと、ベッドのひとつにごろんと横になった。ベッドの片隅に腰掛け、ルイスが覗き込んでくる。
とっくに湯浴みを済ませたのか、服を着替えた彼から、かすかに石鹸の香りがした。髪もきれいに束ね直している。
『リオコはどうした?』
「タクと話してる。あたし、今日はここで寝るね」
マフォーランド語ではなんて言うんだっけ?と、あたしは記憶を探った。
「ミ ドルム(わたし 眠る)」
『リオコと喧嘩でもしたのか?』
首を振る。
『タクは?』
「クン リオコ(理緒子と一緒)」
ルイスが、かすかにため息を吐いた。なにか呟いて離れようとするので、服をつまんで止める。
「ネイ(だめ)」
『さすがにまずいだろう』
眉間に皺を刻んで、ルイスが渋い顔をする。イイ男が台無しだ。
あたしは寝転がったまま首を横に振って、もう一度ネイ、とくり返した。
『ヘクターにばれても知らないからな?』
「ヤー(いいよ)」
あたしは頷き、横を向いて目を閉じた。
『湯浴みはどうする?』
「ネイ(いらない)」
断ると、ルイスは黙って部屋を出て、お湯の入った洗面器とタオルを持って戻ってきた。壁際のテーブルに洗面器、ベッドの足元にタオルと彼の荷物から出した着替えをたたんで置く。
『外に出ておくから、体を拭くといい。済んだらドアを叩いて。取りに来るから』
手に軽く触れてそう言うと、ルイスは言葉通り出て行った。閉まるドアを見送り、起き上がる。
お湯になにか入れてあるのか、淡い香りが漂う。ハーブのような爽やかな匂いだ。
立ち昇る湯気をしばらく嗅いでいると、少し気が鎮まった気がした。顔を洗い、湯に浸したタオルで体を拭く。タオルは真っ黒になった。
――わあ、やばい。
こんな状態で寝るとか言っていたさっきの自分は、かなり女子失格だ。
本当は湯浴みをしたほうがいいんだろうけど、さすがに湯浴みのできる場所――たいていの宿には共同風呂ならぬ共同湯浴み所がある――まで移動する気力はなかった。ダメ女子だ。
ダメついでに、お湯を跳ね散らしながら髪だけすすぐ。ドライヤーがないのが、本当にこの世界の欠点だ。タオルでぐいぐい拭きとって、それから用意されたルイスの服に袖を通した。
――おっき!
身長が違うと思ったら、肩幅も袖の長さもぜんぜん違った。ルイスはズボンも用意してくれていたけど、シャツだけで膝まで充分隠れる。
あたしは袖をまくって調節し、着心地を整えると、靴に爪先だけを引っ掛けてドアをこんこんと叩いた。すぐにルイスが顔を出す。たぶんドアの外にいたんだろう。洗って絞ったタオルと洗面器を手渡した。
「ありがと、ルイス。すっきりした」
『じゃあ、私は外で寝るから、マキはここで使うといい』
にこやかに告げられ、一瞬疲れが吹き飛んだ。言葉が出なくて、部屋を指差す。
「ルイスも」
『……それはまずい。さすがに私も今日は自信がない』
「なんで?」
『男女が同室で眠るのはよくないだろう。わきまえろ』
――前は〝一緒に寝よう〟なんて言ってきたくせに。
なんとなく腹が立つ。理不尽だと分かっているけど、苛立ちを簡単に抑えられないくらい、あたしの心はささくれ立っていた。
「分かった。あたしが外で寝るから、ルイスが部屋使って」
日本語で言い捨てて部屋を出て行こうとすると、ルイスが片手で肩を掴んで止めてきた。洗面器持ってるから危ないってば。
『どうしたんだ、マキ。おかしいぞ?』
「悪いけど結構これで普通。あたし寝るから、ほっといて」
『マキ、待て』
送心術で言いつつ、ルイスは宿にいる誰かに向かって声をかけた。暗がりからイジーがやって来て、彼の手から洗面器とタオルを取りあげる。
両手の空いたルイスは、あたしを無理矢理部屋の中に押し込めて、自分はドアに半身を差し入れた状態でイジーに話しかけ、それからドアを閉めた。
『ほら、座って』
あたしの腕を取り、手前のベッドに連れて行く。
『まったく、なんて格好をしてるんだ。ほら、きちんとズボンを履いて』
いらない、とあたしは首を振った。どうせ履いても、ぶかぶかでずれまくりだ。
『マキ』
あたしは返事の代わりに、ごろんとベッドに寝転がった。
今の自分って、ものすごくめんどくさいやつだと思う。ルイスに世話を焼かれたかったわけじゃない。心配させたり、困らせる気もなかった。
ただ――今夜だけは、一人は嫌だった。
理緒子も限界みたいだから、タクとの仲を邪魔する気にはなれない。馬車で寝ても良かったけど、守ってくれる人がいると知ってても心細かった。
なんだか、とても孤独な気がしたんだ。違う世界にいるっていうだけじゃなく、あたしから〝異界の乙女〟っていう存在をとってしまったら、何が残るんだろうっていう不安。
最初は肩書きなんて知ったことかって感じで、やってみて〝できたらいいな〟くらいの軽い気持ちだった。それがだんだん〝やらなくちゃ〟になって――。
『――雨を降らせてくれ』
あんなふうにストレートに言われたの、はじめてだ。ルイスやヘクターさんは優しいからはっきり言ったことはないけど、あれがきっと普通の人の本音なんだろう。
今ここで悩んでても仕方ないのは分かってる。分かってるけど――動けない。
あたしはうつぶせになって、枕にぎゅっと頭を押しつけた。ふいに後ろ頭にあたたかさを感じ、顔をあげる。ルイスが枕に右手をつき、こちらを覗き込んで、軽く左手をかざしていた。
指で、あたしの髪をかき分ける。あたたかさがそこから沁みて、濡れていた髪の毛がみるみる軽さを取り戻していく。
『……髪が濡れたままでは、風邪を引く』
「すごい、ルイス。ドライヤーいらないんだ」
こんなことをされると、一人で拗ねていたのが急にくだらなくちっぽけに思えてしまう。まだ立ち上がる気にはなれないけど、あたしは横を向いて彼を見た。
「ルイス。ミ ネ エスト ジュヌ フィーレ(あたし 乙女じゃない)。ネ プルーヴォ(雨 降らない)」
『あの男が言ったことを気にしているのか?』
頷くと、ルイスがため息を吐くように笑みを洩らした。
『気にするな。いちいち他人の願いなど気にしては、身が持たないぞ?』
首を横に振る。
『マキ。私も、異界の乙女の伝説が本当かどうかなんてどうだっていい。君はあのとき〝助けてくれた人たちのために水門を探す〟と言ってくれた。それだけで充分だ』
どうやら広島弁は割合正確に伝わっていたらしい。
なんて、ふざけたことを思いながら、あたしは心の一番下に澱む、あのときからあたしの胸の内側をぐちぐちと食い破るそれから目を背けようとした。
――あたしは〝乙女〟なんてすごい存在じゃない。あたしは……。
認めるのが怖くて、唇を噛む。日本語では口にできない言葉が、乾ききった茨(いばら)のようにあたしの喉を突いて出た。
「……リ モルテス(彼 死んだ)」
あたしの髪を撫でていた、ルイスの手が止まる。見つめる青い瞳から逃げるように、また枕に顔をつけた。
「エン サーブロ(砂の中)」
『――マキ』
ルイスが枕のすぐ横に足を崩して座り、膝にあたしの頭を抱き寄せる。少し癖のある金髪が、頬にやわらかく降りかかった。
『君のせいじゃない』
「ネイ(違う)」
『よく聞いて、マキ。君は囚われていた。彼は自分で歩いて、あの巣に嵌まったんだ。場所を選んだのも彼らだ。大穴喰もタクが殺した。なにひとつ君のせいであるはずがない』
「でも」
あたしが挑発しなかったら、まだ無事でいたかもしれない。彼はまだ、彼を待っている家族のもとに帰れたかもしれない。どんなに酷いやつらでも、雨を降らせてくれと言ったあいつが村を想うように、あの人もきっと大事に想うものがあったはずなのに。
あたしが――奪ってしまった。
無様な泣き顔になるあたしの髪を撫でながら、ルイスが続ける。
『もし、どうしても誰かが殺したと言うなら、それは私だよ』
まじまじと彼を見上げた。穏やかな青い瞳は、あのときの凍りついた表情が嘘のようにやさしかった。
『私は君を守りきれなかった。君が無茶なことをしようとしているのを知っていたのに、止めなかった――いや』
ルイスの唇に一瞬、冷気をまとった微笑がよぎる。
『君があいつを誘き寄せなかったら、私が殺していた。私がなぜ、あの場ですぐに動かなかったか分かるか? 君たちがいたからだ。君たちに血の流れるところなど見せたくなかった。だが、あのときもし、あいつらが君たちを少しでも傷つけていれば、私は躊躇わず皆殺しにしていただろう』
ルイスの言葉はよどみなかった。〝守る〟と言われたことの意味を、ようやく理解した気がした。彼にとって、そのことはまるで空気のように当たり前で、事も無げなことなんだ。
『まったく君は、自分を軽んじすぎる。牢屋で償えなどと……。あいつらなど、熱湯で煮て百回切り刻んで逆さ吊りにしても飽き足らないほどなのに』
――……ふー。やっぱりルイスが魔王だ……。
今日はスイッチが入りっぱなしなんだろうか。あたしは憂鬱に考え、苦笑し、そしてまた涙をこぼした。
――人が、死んでしまった。
病気で亡くすのとも事故で亡くすのとも違う。正当防衛だって分かってるけど、大事ななにかが一緒に壊れて、もう元へ戻らない気がした。
みっともなく泣きべそをかくあたしの頬を撫で、ルイスが低くあたしに何かを囁く。マフォーランド語だ。
「……なに?」
『くり返してごらん』
送心術で言い、ルイスはゆっくりと、単語をひとつずつ区切りながら喋る。
「アクヴォ、ファイロ、ヴェント、シエル、テッレ、ルミーレ、オスキュレート」
「あくヴぉ、ふぁいろ、ヴぇんと、しえる、てっれ、るみーれ、おすきゅれーと」
「ディ エスト ヴィヴァンテ、ディ エスト モルテス」
「でぃ えすと ヴぃ…ヴぁんて、でぃ えすと もるてす」
「テンプ」
「てんぷ」
「トゥドス テム クエ レプロディセント エン ウヌス ロンダ ドゥ エスパシオ」
――ながっ。
ちょっと怯む。だけどルイスが一生懸命教えてくれるから、気合いを入れてくり返した。
「とぅどす てむ くえ れぷろでぃせんと えん うぬす ろんだ どぅ えすぱしお」
『じゃあ、最初から続けて言ってごらん。ゆっくりでいいから』
初めのほうはもう忘れた気がしたけど、しぶしぶ口を開いた。
「あ……アクヴォ、ファイロ、ヴェント、シエル、テッレ、ルミーレ、オスキュレート」
『水よ、火よ、風よ、空よ、大地よ、光よ、闇よ』
「ディ エスト ヴィヴァンテ、ディ エスト モルテス」
『生きしものよ、死したるものよ』
「テンプ」
『時よ』
「トゥドス テム クエ レプロディセント エン ウヌス ロンダ ドゥ エスパシオ」
『すべてが宇宙の環の中につつがなく回帰せしめんことを』
ルイスが送心術で教えてくれた意味は、お祈りのような内容だった。
〝――水よ、火よ、風よ、空よ、大地よ、光よ、闇よ。生きしものよ、死したるものよ。時よ。すべてが宇宙の環の中につつがなく回帰せしめんことを――〟
無神論者の多い日本人気質のせいか、そのお祈りはすごくすんなり心に入ってきた。
『魔法士が、一番初めに覚える讃詞(さんし)だよ』
「さんし?」
思わず日本語で聞き返すと、ルイスは苦笑して「パルロドーア」と教え、また送心術に切り替える。
『魔法士は、自然の流れを読み、形を変えて利用する。だから魔法を使う最初と最後に、今の言葉を捧げるんだ。魔法士にとってもっとも基本で、もっとも大切な概念でもある』
いつそんなのを喋っていたんだろう。思ったのが顔に出たのか、ルイスが続けた。
『口に出さなくても、心で唱えるんだ。まあ、時間のないときは省略するか、あとでまとめて言うこともないでもないけど』
冗談めかせ、ルイスはマフォーランド語で、さっきの言葉を唱えた。
「アクヴォファイロヴェントシエルテッレルミーレオスキュレート、ディエストヴィヴァンテ、ディエストモルテス、テンプ、トゥドステムクエレプロディセントエンウヌスロンダドゥエスパシオ」
――……句読点ありませんでしたが?
あまりの早口に目を丸くするあたしに、ルイスは少し笑って解説に戻った。
『この世界にあるものは、すべて繋がっている。今手に持っていたものでも、やがては形を変えて別のものへと移ろっていく。食べ物も水も、火も土も光も……命も』
ルイスが、濡れて頬に貼りついたあたしの髪の毛を指先で払う。
『死んでしまった命は戻らない。その存在は、この世にはもうないんだ。悔やんでも悲しんでも、どうすることもできない。どんなに受け入れたくないことであっても――マキ』
ルイスが、ひっそりとあたしの名を囁く。
『辛かったら、今の言葉を唱えてごらん。きっと君に力をくれる。ほら』
「……あくヴぉ、ふぁいろ、ヴェンと、シエル、テッレ、ルミーレ、オスキュレート」
『そう、続けて』
「ディ エスト ヴィヴァンテ、ディ エスト モルテス」
「テンプ」
「トゥドス テム クエ レプロディセント エン ウヌス ロンダ ドゥ エスパシオ」
最後の一句は、二人の声が重なった。乾きかけていた頬に、熱い涙がひとすじ伝って落ちていくのを感じる。
苦い涙。それでも、その一滴は確かに、あたしの気持ちが小さく前へと進んだ証だった。
すべての命が、つつがなく宇宙の環の中に還りますように。
『なかなか上手い。君は魔法士の素質がある』
おどけるルイスのお世辞が、痛い心に沁みていく。
自然と、腕を伸ばしてルイスを抱きしめた。この言葉をくれた彼に、感謝とごめんねをどうにか伝えたかったから。
といっても位置的に難しくて、お腹辺りにくっつく感じになる。あまり様にならない。
「――マキ」
どこか戸惑った声で、ルイスがあたしを呼ぶ。
「ルイス。トレ ダンカス(とっても ありがとう)。ミ フェリーセ クン ヴィ(あたし 嬉しい あなたと一緒で)」
『私もだよ。だがその……この格好は、どうにかしてくれないか。目のやり場に困る』
目のやり場と言われても、細くもない生足なんか見ても楽しくないだろうに。
あたしはのそのそ動いて、布団にあった薄い毛布をお腹にかけた。これでいいかな、と思ったのに、
『ズボンを履けと言っているだろう』
――……最初の会話に戻ったよ。なんでだ。
「あれ、だぼだぼで寝心地悪そうなんだもん。下着だって履いてるし」
『私が落ち着かない。頼むから、ズボンを履いてくれ。お願いだ』
お願いされるとしょうがない。毛布の下でごそごそとズボンを履いた。やっぱり予想通りウエストはゆるゆるで、裾も二十センチくらい生地が余る。
ウエストは仕方ないので腰パン仕様でずらし、裾をくるくるとまるめてあげると、なんとか形になった。
「できたよ」
「……」
見たとたん、ルイスが無言であたしのズボンの裾を下ろしはじめる。
「なにすんの、せっかくきれいに折ったのに!」
『こんなに足を見せるものじゃない』
見てるのはルイスだけだってば。しかも膝下だし。
「あんまり長いと邪魔なのー」
『だめだ』
ベッドの上で散々二人でやりあった挙句、あたしの寝巻きズボンは、足首がぎりぎり見える長さ、というところで落ち着いた。
『まあ……これくらいなら、なんとか、うん』
ルイスは一生懸命、自分になにかを言い聞かせているようだ。
――やっぱりあたしは、ただの手のかかる子どもなのかな……。
ちょっぴり寂しく思う。天都でも服装をうるさく言われたことを思い出し、あたしはルイスが保護者とか飼い主的立ち位置にいることを改めて認識した。
――まあ、ミヤウがかわいかったからいいんだけど。
よく分からない理屈で自分を納得させる。
タクが理緒子へ向けていたような眼差しを、あたしが向けてもらえることは、たぶんないんだろう。だいぶ慣れた頭にちゅーとか、『私が守る』なんて台詞を言ってくれるから、ちょっとは違う関係になるのかってどこかで期待してたのに。
――……期待?!
自分で思って驚いた。びっくりしすぎて、体がびくっと動いてしまう。
『どうした?』
完全に一緒のベッドに上がりこんでいたルイスが、足を投げ出した姿勢のまま首を傾げてあたしを見る。ベッドは大きめでセミダブルくらいだから、二人で並んでも落ちることはない。
今はもう、家族よりも見慣れてしまったその顔を黙って眺めた。やっぱり、かっこいい。整っているだけじゃなくて、なんだかじっと見つめ続けてしまいたくなる不思議な魅力がある。
――あたし、面食いだったのかな。
きれいな男の人って一緒にいると腰が引けちゃいそうで、どっちかというと苦手だったんだけど、ルイスは別格だ。性格の悪さとひねくれ加減とセクハラでイイ男度半減だし、なにより彼自身が自分をイイ男だと思ってない。
それにたぶん――〝ルイスだから〟いいんだと思う。この金色の髪も青い目も、日に焼けたブロンズの肌も目尻の笑い皺も、顎もちょっと尖った耳も、喉も肩も手も長い足も、ちょうどいいくらいの低い声も。〝ルイスだから〟いいと思うんだ。
――あたし、相当疲れてるわ……。
傍にいる人が最高の男に見えるのは、非日常のストレスのせいだと結論づける。溜め込んでいたものを出し切ったせいか、体も心も妙に気が抜けていた。気だるい波が全身を襲う。
手まねでルイスを傍に招けば、ルイスが体を伸ばし、あたしの左隣に肘枕をして横たわる。
『なに?』
なんでもない、と首を振る。うん、近くで見てもイイ男だ。
ルイスは困ったように笑い、髪を束ねていた紐を片手でとった。頭を振ると、さら、と音をたてて金色の長い髪があたしの枕元にしなだれ落ちる。
金色の風がたなびいているようできれいだと思った。手を伸ばして、ひとすじすくう。
「きれい。あたし、この髪好き……えと」
マフォーランド語カモン。だめだ、頭が回ってない。
「ミ アモス(わたし 好き)……ディ(これ)」
髪の毛ってなんていうんだっけ? もういいや。ルイスが苦笑してて、なんとなく通じたっぽいから、よしとする。
『……惜しいな』
そう言われても、思い出せないものは思い出せないんだよ。今日の授業は終了して下さい、先生。
『今度は、ちゃんと目的語を変えて言ってくれ』
それからマフォーランド語でなにか言われた。〝ディ〟じゃなくて〝ヴィ〟だとかなんとか。
だけど、もう本当に眠くて、その声を聞きながらあたしの瞼は完全に閉じていた。
ルイスの大きなため息が耳のすぐ傍でしたような気がしたけど、あたしの意識はまさに夢の中に転がり落ちていく最中だった。
真っ暗な、すべてが還る宇宙の環の中へ――。
あたしが眠りに落ちた直後、理緒子と話が済んだタクが戻ってきてルイスと揉めたみたいだけど、たぶんきっとあたしのせいじゃないと思う。
注1)「讃詞」は、こちらの世界と意味や使い方が異なります。近い意味の言葉ということで、変換されたと思ってください。あしからず。
注2)マフォーランド語は適当です。あとで改変していたらすみません。。。
注3)〝ヴィ〟は真ん中下あたりに出ています。