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山を下りて行き着いた先は、ブンゴルト最後の村ナアカだ。ガウルの群れの見送りを受けたわたしたちは、馬車を停めて朝食をとる間もなく、村に着いてしまった。
石の多かった道が土埃の立つやわらかい道に変わって景色も緑を増すと、馬車にすれ違う人たちも増えてきた。多くは外套をすっぽり被った旅の人だ。見た目は暑そうだけど、旅にはこの外套が必需品らしい。わたしたちのマントにも、同じようなフードが付いている。
似通って見える外套姿の旅人たちも、馬車の窓から眺めているうちに、いろいろ種類が分かれることが分かる。
地味な灰色や茶色の無地の外套を被るのは、主に大きな荷物を抱えている商人たちだ。白っぽい外套は、ヘクターさんのように胸にお守りを提げているので、たぶん神官関係の人。たまに模様が入ったり、縁に刺繍を施した外套を見かけるけど、そういう人は剣などを提げた数人の集団で、ちょっとお偉い雰囲気がある。
人間観察が好きなわたしは、そうやっていろいろと想像を巡らせながら、すれ違う人たちを見ていった。馬車ががらごろと、背を丸めるようにして歩くベージュの外套の人の左横を通りすぎる。そのとき、窓から遠ざかるその旅人が、うつむいたまま小さく笑いかけた。
――……え。
フードの陰になって顔の造りが全部見えたわけではないけど、とぼとぼとした足どりとは確実に違和感を覚える、力強く笑みこぼれる白い歯。そして、不思議に光る両目は――金色だ。
――なんだろう、あの目。
今朝、朝霧の中に輝いていた灯火のような獣の眼を思い出し、わたしはぶるりと震えた。ふいにその旅人が立ち止まり、フードの下の口元に、立てた人差し指を当てる。
黙っていろ、という意味なんだろうか、と思った瞬間。
『えっ!』
その人が飛び上がったと見えた間に、そこから消えた。
思わず窓を上げて身を乗り出し、土埃のたつ道をふり返る。それでも、どんなに周りに目を凝らしても、あの外套の人の姿は最初からいなかったように消え失せていた。
『どうした、リオコ?』
ルイスの声に我に返る。わたしは『なんでもない』と答えて、席にお尻を戻した。
――夢、だったのかな……?
それくらい一瞬の出来事だった。
ルイスから聞いた、標的にされる可能性がある、という話が頭を掠める。
だけどそれを現実と理解するには、今までの日常とかけ離れた内容だけに実感が伴ってくれないし、ガウルの一件で疲れていたわたしは、もやもやする思考を頭から追い出した。
わたしが考え事をしているうちに馬車は村の入り口をくぐり、市場の並ぶ街中へと入っていった。小さな村みたいだけど、まだ朝のせいか道路の両側いっぱいにテントが立ち並び、目にも賑やかな品物たちが山となって積まれて売られていた。
人の出入りも多くて馬車は自然、速度が落ちる。すると、ばんっと音をたてて、馬車の窓の外枠を誰かが掴んだ。子どもの手だ。薄汚れた顔が開いた窓から、ぬっと覗く。
『五十ゼン!』
『え、なに?』
『おじょさま、コジ、五十ゼン!』
馬車の横で小走りになりながら、その子は手に持った籠を示す。
前に座るルイスが舌打ちして、
『だめだ、あっちへ行け!』
低い声で脅しつけ、乱暴に窓を閉めた。降りてきた木枠に指を挟まれ、子どもが悲鳴をあげる。
『なにすんだよ、畜生!』
乱暴すぎるんじゃ、とルイスをたしなめようとした途端、ダンッと激しい勢いで窓が外から殴りつけられた。
『ねーねー、四十にまけとくから買ってよー』
ダンダン、ダンダン、と衝撃は激しさを増す。恐くなったわたしは窓から離れ、椅子の端に移動した。と、今度は扉のほうが叩かれる。ルイスが席を立って御者台へ怒鳴った。
『マキ、こっちへ戻るんだ! タク、速度をあげて吹っ切れ。とりあえず市場を抜けたら、一度どこかで止まろう』
『分かった』
御者台にいた真紀がルイスの隣の席に座るなり、馬車が勢いよく走り出した。周りはまだ人がひしめいているはずだけど、タクが掛け声で追い散らしているみたいだった。
すぐに馬車を叩いていた音は車輪の音の向こうに消え、子どもたちの声も悪態と一緒に遠退いていった。
『な、なんだったの、今の?』
『物売りの子どもたちだ。この市場を抜ければ、いなくなる』
『すごい数だったよ。馬車をぐるっと囲んでさ』
御者台で間近に見たのか、真紀が少しこわばった顔をしている。
『なにかひとつくらい買ってあげればよかったかな?』
わたしが言うと、ルイスが金色の眉を顰めた。
『一人だけ買うと、他のものも買ってくれと言い出して収拾がつかない。危険だ』
たしかにあの人数で迫られたら、ちょっと恐いかもしれない。
『それにあの子たちの売っている物は、売れ残りの果実や混ぜ物をした酒などだ。買っても碌(ろく)なことがない』
『ひょっとしてルイス、買ったことがあるの?』
『……社会勉強というやつだ』
気まずそうに、ルイスが肯定する。わたしたちは笑った。
なるほど、一度痛い目に合ってるから、なおさら拒否なわけだ。真紀が意外そうに、魔法士の端正な顔を覗き見る。
『あれ、ルイス。ここに来たことがあるの?』
『ああ、一度ね。それに、物売りの子どもたちは地方に大勢いる』
あんなに小さな子たちが、物を売って生活している。きっと学校にも行ってないんだろう。
まだ小学生くらいの子が働くという現実はわたしのいた世界にもあったはずなのに、身近になかったせいかやけに重い。
でも真紀は、そっちよりも別のことのほうに気をとられたようだ。
『じゃあルイス、タキ=アマグフォーラにも行ったことあるの?』
『ああ。調査をしていたと言っただろう』
調査。無機質な空気をまとうその言葉は、冷たい風のようにわたしたちの間を吹き抜け、ここにいることの意味をもう一度はっきりと認識させた。
『タキ=アマグフォーラってどんな場所なの?』
真紀が尋ねる。〝聖地〟としか説明を受けていない最終目的地は、神話的な香りが濃厚で、どんな場所だか想像つかないのはお互いさまみたいだ。
『残念ながら、期待されているような絢爛豪華な場所ではない。このあたりの山岳地帯の一部で、タキ=アチファと呼ばれる高地にある古代遺跡だ。巨大な岩の塔とでもいうのかな。あの大きさはすごいが、それだけだ。周囲は岩の荒野で、他はなにもない』
『そ、それだけ?』
『そう、それだけ』
にっこり笑ってくり返すルイスは、どことなく意地悪そうだ。
『神殿とか建ってるんじゃないの? 神聖な場所なんでしょ?』
『周囲は荒野だと言っただろう。人が住める環境ではない』
『……神様、もうちょっといい場所に降りればいいのに』
『神が降り立ったから不毛になった、というのが一般的な説だな。神自身の存在に大地が耐えられなくなったとも、国造りをおこなう際に生じた神の火が灼いたとも言われる』
『前から思うけど、ここの神様って、神様なのに人間にちっとも優しくないよね』
『……以前から疑問なんだが、君は至高の存在や国の頂点に立つ人に対して、何を求めているんだ?』
『やさしさと思いやり?』
漫才みたいな二人のやりとりにわたしが噴き出し、ルイスの眉間の皺が一本よけいに増えたとき、馬車が止まった。
馬車が停止したのは、市場のあるメインストリートから少し過ぎたところにある、一軒の食堂の前だ。入口に座っている男の人にお金を渡して馬車を頼み、わたしたちは四人でその店のドアをくぐった。
食堂はこの辺りでよく見かける三角屋根の木造の二階建てで、一階がオープンな食堂、二階が寝泊まりできる宿屋になっている。こっちの世界の飲食店はだいたいどこもこんな形で、お店と居住スペースが一緒になっているそうだ。二階がお店の人の自宅というパターンも多い。
そのせいかどうか、お客さんも大部分が顔なじみで、下手をするとものすごくフレンドリーな大家族の食卓にお邪魔しているような気分になることもある。例に漏れず、その食堂もそんな感じだった。
朝もだいぶ回ったというのに、わたしたちの座ったテーブルの右隣では髭もじゃのおじさんたちが五、六人、豪快にしゃべりながら食事をしている。そこから、なんとなく酸っぱいような香りが漂ってきた。
――これって……アルコール? 朝から??
奥の階段に近いほうのテーブルでは、おばあさんとお孫さんらしき小さな女の子が、にこにこしながらお茶を飲んでいる。おじさんたちの大騒ぎなど気にも留めていない。
あとは、カウンターに旅の人っぽいのが二人。外套を着た後姿に、あの金色の目をした不思議な人がいるかと思ったけど一人は女性で、一人は地味な黒茶色の髪と目をしていた。
丸いテーブルにルイス、タク、わたし、真紀の順に座る。ルイスはいつものように頭からショールを被っていたけど、注文を取りに来た店の人は気づいたらしく、彼の目の色を見て無言でぎょっとしていた。
真紀が、やや不満そうに口に皺を寄せる。慣れるしかないけど、ルイスの容姿が変な目で見られることが嫌らしい。
まあ、つまりそれは真紀がルイスに好意をもっているからに他ならないわけで。
――好きの一歩だと思うんだけど、真紀ちゃんはニブそうだからなあ。
つまらないことをしみじみしてしまう。メニューの読めないわたしたちの代わりに、ルイスとタクが店のお勧めを聞いて、その他に数品注文してくれた。しばらくして、ツークス以南の特産であるブッセージュで作った飲み物が運ばれてくる。
わたしと真紀がジュース、ルイスとタクは冷たいお茶だ。いつも飲む香茗茶は中北部が主な産地なので、こちらではあまり飲まれない。というより、庶民の間では一般的ではない。
そう、わたしたちは〝かなりのお嬢様〟という設定なのだ。貴族のお嬢様とその護衛というちょっと強引な設定は、主従は席を共にしないとかタメ口をきかないとか、いろいろ当てはまらないこともあったけど、これまでなんとかやり過ごしてきていた。
真っ赤な色の甘酸っぱいジュースを飲みながら料理が出てくるのを待っていると、二階につながる階段から大きな荷物を抱えた人が降りてきた。
――うわ、かっこいぃ!
タクほどではないけど長身で肩幅の広い、引き締まった体つき。暗い緑味を帯びた長い髪を首の後ろで縛って、日に焼けた顔立ちは整っているというよりひたすら鋭い。刃物のような鋭利さは、どこか孤高の狼を思わせる。タクともルイスとも違う、ワイルドな恰好良さだ。
その人に向かって、本格的に酔っぱらってきたおじさんたちが声をかける。
『おうい、ヴェルグ。ひとつやっとくれよ!』
『悪いな。これから発つんだ』
ワイルドな容姿にぴったりの少しハスキーな声で、ヴェルグと呼ばれた彼が答える。荷物を抱えたままカウンターへ行き、店員から飲み物の入ったグラスを受け取ると、一口飲んだ。
『どうしたよ。今回はやけに早くに発つんやな』
『訊くなよ、ラッド。野暮ってもんだぜ?』
『その調子じゃあ、女でも鉢合わせたかい?』
ヴェルグは答えずに、口の端を片方にやりと吊り上げた。もうそれだけで危険な香りの漂う男のフェロモンがむんむん伝わってくる。あの真紀でさえ、目を丸くして彼を凝視していた。
――真紀ちゃんの好みなのかなあ。ルイスとは全然違うけど……でも、前はやけにアル王子にこだわってたし。今度しっかり好みを聞いておかなくちゃ。
こっそりルイスを窺うと、案の定ショールに隠れた目と口元がまったく笑っていない。なんだかタクまでが厳しい表情をしているようだ。
『そう言わんと、一曲歌ってくれや。一仕事して疲れた俺たちの心を癒すんが、吟遊詩人の自負ちゅうもんやろ?』
『今はまだ禁猟期だろう?』
『鳥射ちさ。あとは小物。ガウルが獲れんでも、何か獲らんと食うていけんもの』
どうやら猟師さんらしいおじさんが、ちょっと訛った口調でしみじみ言う。〝猟〟という言葉に、真紀の肩がぴくりと震えた。
――そうだよね。ここは、あの山の麓だもんね。
ガウルたちの棲む山は、彼らのものであると同時に人の介入も許しているのだ。人の通れる道がある以上、それは当然のことなのに。改めて、わたしたちの認識の甘さを思い知らされる。
いろんな意味で店中の注目を集めた彼は、グラスの中身を飲み干すと、コン、と小気味いい音をたててカウンターに戻した。隣の椅子に置いた荷物のひとつを手に取る。
『じゃあ、挨拶代わりにひとつやるか』
『お。いいねぇ。さすがはヴェルグ!』
『陽気なのを頼むよ!』
口々に掛け声がかかる中、ヴェルグは袋の口を開いて中身を取り出した。それは一見、ギターに似た楽器。だけど、大きな涙形の胴体に長いネックが伸びていて、弦は四本――違った。二本ずつ組まれて、全部で八本もある。
隣のタクに『あれ、なあに?』と訊くと、『シトゥラという楽器だ』と教えてくれた。
シトゥラを持ったヴェルグは、食堂の椅子を階段下のスペースへ移動させて腰かけた。組んだ脚の上にシトゥラを抱えあげ、確かめるように指で弾く。
キィンと、意外にも金属的な音色が響いた。
『――さて、まずは軽く一曲。〝朝日の昇る丘〟を』
そう告げて歌いだされた曲は、不思議な曲調だった。フォークソングのようにシトゥラを爪弾いたかと思うと、たちまち流れるように音符が繰り出され、心地よい三拍子がテンポ良く続く。そこにハスキーな歌声が乗って、初めて聞くのにすぐに耳になじんだ。
歌詞は『君と僕を引き裂く光が訪れる』とか『君と二人、このまま朝日の昇る丘を裸足で駆けたい』とか、めちゃめちゃベタなラブソング。指環の効果で日本語変換されちゃうおかげで、余計に残念な感じだ。
だけど、陽気で早いリズムと伴奏のせいか、歌詞なんて吹っ飛ぶくらい楽しい曲だった。耳のいい真紀は、指環がなくて歌詞が分からないはずなのに、もう一緒にサビを口ずさんでいる。
お酒のまわったおじさんの一人は立ち上がって腰に手を当ててステップを踏み出すし、手拍
子は起こるし、指笛も鳴って店中なんだかすごい様子になった。
最後はシトゥラの速弾きとおじさんのステップ対決みたいになって、手拍子も追いつかないくらいヴェルグの十本の指が弦の上を走る。小太りのおじさんはふらふらだ。
おじさんが顔を真っ赤にして足を止めると、ようやくジャラン、とシトゥラが鳴り止んだ。わたしはもちろん、ルイスたちも痛いくらいに拍手して、その中おじさんがヴェルグと握手して席に戻っていく。
わたしたちのテーブルにはいつの間にか、お粥によく似たコメイのスープが運ばれてきていた。緑の葉っぱと茸の入ったスープは、あっさりした塩味で、胃腸の不調が続くわたしはいつもこれ。コメイのほんのりした甘さが嬉しい。
真紀も同じもので、ルイスとタクはコメイの上に焼いたお肉と野菜を載せてソースをかけた、ロコモコのようなお店オススメのがっつりメニューだ。
『さて、次はどの曲にいこうか。――そちらの小さいお嬢さん、リクエストは?』
マイク持ってDJやったらいいんじゃないかっていうくらい色っぽい声で、ヴェルグが前の席に座る女の子に訊く。まだ小さいのにしっかりその子もフェロモンにやられてるみたいで、少し恥ずかしそうに、だけど目をきらきらさせて口を開いた。
『〝ユリアの花〟がいい!』
『おや、これはずいぶんと大人っぽいお嬢さんだ。好きな人でもいるのかな?』
『うん!』
『お父さんには内緒にしておくんだよ? 彼女のように、報われない恋が花と散ってしまわないように、ね……』
シャラリ、とシトゥラが哀愁を帯びた和音を奏でる。そして歌が始まった。
それは物語だった。――偶然出会った、貴族の男と貧しい娘。ひっそりと愛を育んだ二人は、やがて男の親に関係を見つかってしまう。
二人の仲を裂こうとした親たちは、男に嘘を教え込む。女が裏切っていると。信じた男は別れを告げ、絶望した女は一人荒野をさまよう。やがて真実を知った男は、やり直そうと追いかけるが、彼女はすでに荒野で倒れ、息絶えていた。
男の涙に応えるように降り注ぐ、天からの雨。そして湿った荒野には、可憐な小さな花が咲き乱れる。男はその花に、女の名をつけて慈しんだ。〝ユリア〟と――。
――うわあ、こういう話だめだぁ。
いい話とか聞くとすぐに涙腺の緩むわたしは、潤んだ目頭を指先で押さえた。ただでさえ色気のあるヴェルグの声は、バラードの旋律にこれ以上ないくらいはまっていて、鳥肌が立つほど情感に溢れていた。
みんな食事の手を止めて聞き惚れている。歌が終わった途端、店内が拍手と指笛の嵐に包まれた。手を叩きながら、真紀が興奮したように言う。
「すごいね、生歌。歌詞は全然わかんなかったけど」
『ごめん、真紀ちゃん。指環忘れてた』
「ううん。歌詞わかんなくても曲よかったし。ラブソングだったの?」
わたしは真紀の手を取り、歌の内容を簡単に説明した。
『ユリアの花って、どんなの?』
『高地に咲くピンク色の小さな花だ。雨期にしか咲かない』
『じゃあ、この先の高地で見れるかな?』
『……雨期は、もう終わる』
そう教え、ルイスがどこか重苦しく黙る。真紀はふーんと言って、再び始まったヴェルグの歌声とコメイのスープに意識を切り替えていた。
わたしも同じようにスプーンでスープを掬ったけど、歌声はあまり耳に入ってこない。言葉の断片が、解けないパズルのように心の中で浮かんでは消えていく。
〝高地〟〝雨〟〝女性の死〟――。
胸の奥がざわざわする。何かを形作るにはピースが足りず、かといって流してしまうには引っかかる小骨のような断片をうまく処理できずに、わたしはしばらく胸苦しさを持て余した。
ハスキーな声が、硬い響きで奏でられる異国の旋律と複雑に絡み、耳の縁を通り過ぎていく。
歌い手に背中を向ける形となる真紀は、何度もそちらをふり返り、そのたびに食事の手が止まって、ついにはルイスに無言でお叱りを受けていた。