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朝、起きたらいつの間にか、馬車の前側の庇が扉のように閉じられていた。窓を開けると辺りはひんやりと寒く、濃い霧に包まれていた。手を伸ばしても指先が見えるかどうか、それくらい濃厚で真っ白なガス。
寝起きの悪い真紀を起こすと、さすがにその霧を見て驚いていた。
鳴きながらふんふんうろつくガウルの子を座席から落ちないように見つつ、二人で服を着替える。猫っ毛のわたしと違って、硬くてつるんとした真紀の髪は、指でざっと梳かすだけでも形ができるんだ。羨ましい。
着替えの早い真紀は、わたしが鏡を覗きながら髪を整えている間に、馬車の後ろからガウルの子の籠をとってきた。その籠に、昨日よりも犬らしくなったきたその子を押し込める。
「やばい、なんかやばそうだよ、理緒子。早く片付けよう」
『う、うん』
気圧されるように頷くと、わたしは化粧ポーチをおさめ、寝巻きを片付けて座席の背もたれを起こした。
外に出ると、すでに焚き火は消え、ルイスがこちらに背を向けて立っていた。その手には、細身の剣が白く輝いている。わたしたちに気付いてふり向く。
『二人とも馬車に戻れ! すぐに出るぞ』
出る、と言われて目を凝らすと、馬車はすでにコマが繋ぎ直され、御者台にはタクが座っていた。
わたしの手を握る、真紀が震えている。いや、震えているのはわたしかもしれない。二人で小刻みに震えながら、わたしたちは金縛りにあったようにその場から動けずに、白い霧の海を注視した。
ミルク色の波がふわり、ゆらりと形を変えるたびに覗く――光。
明らかにぎらりとした生き物の目は、大きく小さく無数の灯火となって、白い波の向こうから瞬きもせずにこちらを見ている。
――取り囲まれてる……!
わたしは慄いた。膝が笑う。壊れたおもちゃみたいにかくかくしている。
恐くてたまらないのに、一方では、あの小さなほうの光はガウルの額の目なのだろうか、なんて考えてしまう。完全な逃避だ。
『全員早く乗れ! ここを出るぞ』
鋭いタクの声に、びくっと背筋が震え、わたしは現実に戻った。真紀とくっついたまま、馬車によじ登る。変な表現だけど、足が萎えてよじ登るしかなかった。
最後にルイスが馬車にやってくる。剣はまだ手に持ったままだ。
『マキ』
『……やだよ』
『マキ。これが最善なんだ』
『う……』
真紀が半泣きになりながら、腕に抱えていた籠からガウルの子を引っ張り出した。ルイスに渡そうとして、引っ込める。
『マキ』
『ちゃんと戻れ、るの……?』
『私が責任を持って戻してくる。君がその子を渡してくれたら』
ルイスの声は冷静で、突き放していて、それでいてやさしかった。
ガウルの子をルイスに渡した途端、真紀が泣き出す。つられてわたしも泣いた。
何も知らないしわくちゃの変顔が、ぼやんとした目でわたしたちを見ている。耳は付け根から少し立って、目を覆っていた膜が薄くなってきている。体もなんだか、しっかりして見える。
――たった半日にもならないのに。
この子は、生きて、成長してるんだ。そう思ったら、また泣けてきた。
『いつかまた会える』
ルイスの声に何度も頷いて、わたしたちは、彼に連れられて去っていくガウルの子をじっと目で追った。ルイスの金髪が白い霧の向こうに隠れた瞬間、真紀が馬車を飛び出そうとする。
わたしははっと、彼女の胴にしがみついて押さえた。
『だめだよ、真紀ちゃん。邪魔しちゃう。帰れなくなっちゃってもいいの?』
『理緒子……』
『あの子、帰れなくなってもいいの? お父さんとお母さんのところに、きちんと帰してあげようよ』
なんて子どもっぽい説得なんだろう、わたしってば。
だけど、わたしの頭の中はそのことでいっぱいだった。あの子は、きっと両親のもとに帰る。わたしがそう願うように、それが一番幸せなんだ。
こっちの世界の人に恋しながら、元の世界を恋しがる。その矛盾を心の底に押し込め、わたしはただ祈った。無事に帰れますように、と。
数分後、ゆっくりと薄らいでいく朝霧の合間から、再び金色の頭が覗き、こちらへとやってくる。かさりとも音を立てずに、ルイスは帰ってきた。剣は鞘に納めて、手ぶらだった。
『ちゃんと戻したよ』
それだけを言うと、真紀の頭をくしゃりと撫で、馬車に乗り込む。すぐに馬車が動き出した。
真紀が、涙で真っ赤になった頬っぺたを手のひらで拭う。
『ど……どうだった? ちゃんと、仲間だって、分かってくれた?』
『ああ』
『みんなに齧られたりとか、なかった?』
『現われたのは、一匹だ。私はあの子を群れから離れた岩の上に置いて、少し距離をとって待ったんだ。すると群れから一頭が出てきて、子どもに近づき、匂いを嗅いですぐに首をくわえて連れて行ってしまった』
『く、首くわえたの?』
わたしは驚いて語尾をひっくり返した。声もなくルイスが笑う。
『首の後ろの柔らかい皮膚を口で咬んで持ち上げるんだ。母親は子どもをそうやって運ぶ』
『なんだ。じゃあ、お母さんだったのかな?』
『分からない。ガウルは母系集団だからな。複数のメスがみんなで子どもを育てる。母親だったのかもしれないし、兄弟かもしれない』
『でも、くわえて運んだってことは、あの子を受け入れてくれたってことだよね?』
『おそらくな』
『よ、よかったぁ~』
座席に腰掛けたまま、真紀が手足を投げ出してへにょりと崩れる。およそ女の子らしくないだらけ加減に、わたしは笑い、ルイスは眉を顰めた。
『はしたない』
『気が抜けたのー。だって、鳥とか人間が巣に戻すと、親が子どもだと思わずに殺しちゃうとかいうじゃない。二人が脅すから、いろいろ想像しちゃったんだもん』
そんなことがあるんだ。わたしは感心したのに、ルイスは違ったようだ。
『なぜそれを知っているのに拾ったりしたんだ』
『気がついたら拾ってたの。もういいじゃん。ルイス、お説教ばっかり』
真紀が子どもみたいに、ぷう、とまだ赤い頬を膨らませて、そっぽを向く。
『説教をするのは、君がそうさせるようなことをするからだろう』
『あーもう。ほんとルイスしつこい』
泣いたのが照れ臭いのか、苛立たしげにぼやいて、真紀は席を離れた。わたしから手を離し、
「タクんとこ行ってくる」
『分かった』
日本語は分からないはずだけど、ルイスは真紀の言ったことを察したらしい。
『邪魔はするなよ』
「聞こえません~」
お互い言葉が通じてないのに、会話として成り立っちゃうところがすごい。
――愛の力かなあ。
なんて、心の中でにまにま考えていたら、なぜか前の席に座るルイスは沈んだ顔をしている。
そういえば霧がすごいせいか、今日はいつものショールをつけていない。なんでもルイスの金髪碧眼はこの国ではめずらしくて、目立つのを避けるために被っているらしいけど、すごくもったいないと思う。
ルイスの顔は本当に綺麗だ。男の人に綺麗というのもなんだけど、女性的というのでもないやや面長の輪郭に、すっきりした鼻筋、深く切り込まれた両眼。その造形に淡い色彩が、この上もなくよく似合う。
――あー眼福。
タクもかっこいいんだけど、ルイスは別格。観賞用だ。少しうつむいて、窓枠に頬杖をつくルイスの斜め顔を眺めていたら、青い瞳がちらりとこちらを見た。
『なに?』
『ううん。なんか、ルイス落ち込んでるっぽいから』
『朝は苦手なんだ』
『そっか』
うん、朝の物憂げな美形。絵になります。
『少し気をつけたほうがいいかな。マキにも言われた』
『真紀ちゃんも寝起き悪いよ。朝起こすの大変だもん』
『そうなのか? うちにいたときは、そんなことはなかったみたいだけど』
『一度起きると平気なんだよ。起きるまで、二度寝三度寝しちゃうの』
『三度寝……』
肘をついたまま、その手を額に当ててルイスが笑う。そんなふうに真紀をネタにしてしばらく二人で喋っていたら、会話の途切れたあと、ルイスが真面目な顔でわたしに尋ねてきた。
『――リオコ、やっぱり君は家に帰りたいか?』
わたしは目を逸らし、黙って頷いた。その質問は、きっと真紀にしたかったんだろうと、直感的に思う。
――そっか。それでルイス元気なかったんだ。
わたしが、群れに帰るガウルの子にわたし自身を重ねていたように、ルイスも元の世界に帰る真紀の姿を見ていたのかもしれない。
ルイスはそんな感情をひとかけらも見せずに、ただ綺麗に微笑みかけた。
『そうか。きっと帰れるよ』
『……ねぇ、ルイスは、わたしたちに帰って欲しい?』
これはちょっと意地悪な質問だ。そしてもちろんこの〝わたしたち〟は〝真紀に〟という意味でもある。それはわりとすんなりルイスに伝わったようだ。
表情を隠すように、彼は長い指で目の辺りを覆う。
『困ったな。そういう質問をされるとは』
『答えてよ。そうじゃないと、水門開けたら、わたしたち元気に帰っちゃうかもよ?』
『それは、元気に帰っていかないという選択もあるということか?』
『教えない。だって、旅の間なにがあるか分からないじゃない。でしょ?』
謎かけみたいなやりとりに、ルイスは少し黙り、口を開いた。
『帰りたくない、と言わせるように努力はするつもりだよ』
――わあ、ルイス、結構本気だ。
恋愛経験のないっぽい真紀は、こういう人にロックオンされて大丈夫なんだろうか。
心の中で同情はするけど、基本的にわたしは恋愛の味方だ。真紀には悪いけど、ここはルイスを応援させてもらおう。
『そっか。がんばって』
『リオコは頑張らないのか?』
『わたし?』
『そう。やっぱり……帰りたいんだろう?』
――タクを好きなのに。
口にされない一言は、それでもけっこうきつい。わたしは下唇を噛んで、ちょっと黙った。声がかさつく。
『がんばるよ。でも……分かんない。わたし、先のこと考えるの苦手だもん』
『私もだ』
ルイスがいつもと違う、どこかはにかんだような顔で、わたしの唇にまとわりつく髪を指先で払ってくれた。さすがに照れ臭い。
――だけど……男の人と恋バナかぁ。
元いた世界じゃ考えられないこの関係はなんとなく、一人っ子のわたしには経験のない、お兄さんという感覚が一番近い気がした。
――もし、こっちへきてすぐにルイスに会っていたら……その後でタクに会っていたら、わたしはタクを好きになっていたのかな。
どうしようもないことを思う。
『ねぇ、ルイス』
『ん?』
『わたし、二人に会えてよかった』
このまま、どちらの結果にも辿り着かないまま、旅がずっと続いていけばいいのに。
絶対にありえない空想に飛ぶ心を、耳慣れた馬車の車輪の音が、少しずつ少しずつ現実へと引き戻してくれていた。
『もう霧は晴れたようだな』
しばらくして、ルイスが閉めていた窓の木戸を開ける。真っ白な霧が包んでいた朝は肌寒かったのに、今は馬車の中に熱がこもっていた。
窓を開け、外気を入れたルイスは外を覗き、わたしを手招く。
『見てごらん』
『なに?』
『ほら、あそこだ』
指差されたほうに目を遣ると、坂を下って来た道の周辺に転がるごつごつした岩場に、何かが立っていた。黒っぽい体。犬にしては体形が丸くて、猫にしては大きくて鼻が飛び出ている。
体はふさふさした毛で覆われ、首の後ろには銀色の鬣(たてがみ)が炎みたいにたなびいている。岩と木の間を動く横姿には、脇腹から後ろ足にかけて、見事な銀の縞模様が浮かびあがって見えた。
そして、どの顔にも四つの輝く眼。
『あれ……』
『あれがガウルだ。すごい数だな。三十はいる』
それはとても不思議な光景だった。黒くて銀色の鬣をもつその獣たちは、四つの目でただわたしたちを観察しているようだった。
怒るでもなく、拒むでもなく、ただじっと。
ここはきっと彼らの社会で、わたしたちは招かれざる客だったのだろう。だから、帰るのを見届けられてるんだ。なぜだかわたしはそう感じた。
『これだけいるのに襲われないというのも、気味が悪いものだな』
魔法士のルイスにとっても、これはあまりない出来事みたい。緊張した顔色をしている。
遠くの岩場には、大きめのガウルが小さなガウルを傍に連れて立っていた。一瞬あの子か、と思うけど、何匹かそういう親子がいて、どれがそうなのか確信がもてない。
そのとき、ふいに視線を感じる。はっと見上げると道のすぐ傍の大岩の上に、一際巨大なガウルが立って、こちらを見下ろしていた。
赤っぽく光る四つの瞳は、血に飢えた獣ではなく人でもなく、わたしたちの及ばない未知の言葉を発しているようだった。その足元に纏わりつく、小さな影。
――あの子だ……!
ぐっと胸が熱くなる。ああきっと、お別れの挨拶をしに来てくれたんだろう。そう信じたい。
『……真紀ちゃん、会えたかな』
『会えただろう。こんなに近くにいるんだ。気付いてるよ』
刺激をしないように、小声でわたしはルイスと会話した。御者台にいるタクと真紀も、この親子との最後の挨拶を交わしてくれていればいいと願う。
やがて、大きなガウルは子どもの首を口でやさしく咥えあげると、風のように岩山の陰に消えた。それをきっかけに、他のガウルたちも瞬く間に姿を消す。
静かな別れにふさわしくない車輪の音が、やけに耳に大きくざわめいて響いた。砂利の多い道にうすく轍(わだち)の跡を残しながら、わたしたちはガウルの棲む山を下っていった。