第15章 闇夜――リオコの混乱
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岳都ブンゴルトから光都ヒューガラナに向かう山道の途中で、わたしたちはいつもより早い昼食をとることにした。
ひどい砂利道を走り続ける馬車に、あの真紀がとうとう不調を訴えて、まだ太陽が空の天辺にくる前に旅は一時停止したのだ。
『せっかくだから、もう食事も済ませてしまおう』
というタクの思いつきで、トイレに行ったマキを待つ間に彼が場所作り、ルイスが火起こし、わたしが配膳、という分担で準備を進める。道から少し入った岩と岩の間の砂の平地が、今回の休憩場所だ。
二人とも手際がいい。前の旅でも感じたけど、タクはアウトドアに慣れているらしく、積んであった木の杭を二本立てるとコマを外した馬車の屋根の前側についた布の庇(ひさし)をぐーんと伸ばしてそれにくっつけ、あっという間に簡易のテントを作ってしまった。
魔法士のルイスなんて、適当な枝を拾ってきて穴を掘った中にそれらを並べ、指先でぽっと火を点けておしまい。最初見たとき、これにはタクも苦笑していた。
わたしはみんなのカップを用意して、火をまたぐようにタクが作ったコの字の枝の真ん中にフックをひっかけ、水を入れたヤカンを下げる。これはお茶用だ。
暑いところでお茶って意外だけど、結構美味しい。味は――複雑。不味いってわけじゃなくて、ハーブティーとか苦手な人はダメかもしれない。
香茗茶っていう名前のお茶は、もとから少し八角に似た香りがするんだけど、旅ではこれにさらにいろんな薬草を煎じて煮出す。色も匂いもものすごくなるけど、岩蜜蜂の蜜蝋の欠片を入れると飲みやすくなる。それに飲んだ後、どこか体がすっきりするんだよね。今ではお気に入りだ。
タクが木に繋ぎなおしたコマに水をあげている間、わたしは椅子になりそうな手頃な石を見繕って、陰を作った場所に運んだ。気付いて、ルイスが手伝ってくれる。
四人分を並べ終わり、ヤカンが湯気を上げはじめた頃、ふいにルイスが何もない荒野に顔を向けた。大地にひざまずいて、右の手の平を触れる。
頭からすっぽりショールを被っているので、表情は分からない。
『――近くで大穴喰が暴れている。マキを探してくる』
『分かった』
口早にタクに告げ、ルイスはいつも二本持っている剣を一本だけ提げると、周囲の岩を乗り越えて行ってしまった。
『タク、大穴喰ってなに?』
『砂の多い荒地に棲む生き物だ。普段は砂の中に潜っていて、通りかかった人やコマを捕らえる。巣に近づかなければ、それほど恐ろしくはない』
タクは恐がらせないようにそう説明してくれたのだろうけど、人を食べるっていうだけで、想像力的に完全にアウトだ。モンスターにしか思えない。
蒼ざめたわたしは何でもないことを祈ったけど、そのとき真紀は、やっぱりそのモンスターの巣穴に嵌まりかけていたのだそう。そして、戻ってきたのは二人だけじゃなかった。
『か~わ~い~い~』
語尾にハートがついちゃいそうな声で、わたしは真紀の腕の中を覗いた。ガウルと呼ばれる四足動物の赤ちゃんだというその生き物は、本当にぬいぐるみみたいにもふもふふわふわの黒い毛をしている。
毛の少ない顔はしわくちゃで、どっちかというとブサかわいい系だ。耳は小さく垂れて頭に貼りついていて、目もまだちゃんと開かないみたい。
大穴喰の巣に落ちそうになっていたところを助けたらしいんだけど、それを聞いた途端、タクが呆れた顔をした。タクの呆れ顔なんてめずらしい。
『その子は野生だ。人の匂いがつく前に帰せ』
『帰すっていっても、周りに親いなかったよ?』
『ガウルは耳が良く警戒心が強い。それに仲間意識も強い。君がその子を助けたところも、どこかで見ていたはずだ。よく襲われなかったな』
『私も一応確認したが、付近で群れは見当たらなかった。日が昇りきっているし、隠れたのかもしれない。夜行性だからな』
ルイスの説明に、タクがため息をひとつつく。
『だが、旅には連れていけないぞ?』
『あたしが世話するから。お願い』
『ガウルがどういう生き物か、知識のない君にどこまで世話ができる。こいつらが何を食べるか、知っているのか?』
『でも……まだ赤ちゃんだし。今だけ置いててもいいでしょ? とってもお腹減ってるみたい。お願い!』
真紀の言うとおり、その子は彼女の腕の中で丸まったまま、しきりにふんふん匂いを嗅いでいる。ときどき腕の下に鼻を突っ込む仕草をするのは、お乳を探しているのかもしれない。
真紀に拝むように両手を合わされ、タクは納得していないようだったけれど頷いた。途中だった昼食の支度を、四人プラス一匹分に改めて準備し直す。
『じゃあ座って。昼食にしよう』
食事を配るのはタクの役目だ。片手でさっとハンカチサイズのカシェを折り畳み、器の形に整えた中へ一人分の食事を入れたものを渡してくれる。
旅の食事は、イェドから出たときはコメイが主食だったけど、今回はパニカという固焼きしたパニだ。普通じゃが芋に似た根菜を生のまま擂って蒸し焼きにして作るパニは、擂ったものを乾燥させて粉にし、発酵させて二度焼きするとかなり日持ちがするのだそう。
ビスケットに近い風味のそのパニカと蜂蜜入り薬草茶、干し肉、ナッツ。野外で食べるメニューは、そんな感じだ。
わたしたち女の子はいいけど、男の人はちょっと物足りなさそうだ。しかも、いつも等分なんだよね。体格が違いすぎるから遠慮するんだけど、
『旅では体力が肝心だ。食べられなかったら後でもいいから、きちんと自分の分は食べろ』
と、かえってタクにお説教されてしまった。今鞄の中に食べ切れなかったパニカが二つもあるんだけど、いつバレるか冷や冷やしてる。
ルイスに治癒術をかけてもらうんだけど、胃の調子いまいちなんだよね。RPG世界にでてくるみたいなルイスの魔法は、わたしの元気の素を高めるだけで、本当の意味で治しているわけではないのだというし。
――本気で体力つけないと、この先まずいよね……。
運動全般の苦手なわたしは憂鬱に思う。そのわたしを、ルイスが覗き込んだ。
『リオコ、まだ顔色がよくないな。お茶は飲めそうか?』
『あ、ありがと』
わたしはぎこちなく笑って、彼から蜂蜜薬草茶の入った木のカップを受け取った。湯気と一緒にたち昇る甘い複雑な香りが、鼻をくすぐる。
『今日はキッキーナを入れてみたんだ。いい香りだろう?』
『キッキーナって飲めるの?』
『主に薬としてだけれどね。花も葉も茎も乾燥させて、お茶にしたり粉末にして服用する。美容にもいいというから、ぜひ飲んでみるといい』
お茶担当はルイスだ。魔法士という職業のせいか、彼は薬草や自然のことにすごく詳しい。
彼の勧めに、わたしは素直に薬草茶を一口飲んだ。蜂蜜は控えめで、代わりに清々しいキッキーナの香りと甘味が喉をすべり降りていく。
『美味しい』
『それはよかった』
わたしの左隣では、真紀がガウルの子どもを膝に乗せ、困った顔をしていた。小さな珍客のためにタクが用意してくれたのは、小さなパニカと蜜蝋が一欠け。
『ねえタク、牛乳はないの?』
『ない。ベクのミルクは街にいってもなかなか手に入るものじゃない』
『でも、さすがに固形物は無理っぽいよ?』
真紀が蜂蜜の塊を指先で砕き、それを鼻先に持っていくと、ガウルの子どもは舐めるというより吸いついてきた。そのまま指をくわえて、もぐもぐしている。お乳が欲しいんだろうな。
タクはまだ機嫌が直らないのか、普段のやさしさが嘘のように冷たく、『ちょっと待て』と真紀をあしらった。あっという間に自分の分を食べ終えて、ぐいっとお茶を飲み干す。
どうするんだろうと見ていたら、タクは空のカップに真紀が砕いた蜜蝋の欠片を全部入れ、ヤカンのお湯を少量注いだ。それをすっかり溶かして、
『貸してみろ』
ひょいと左手でガウルの子を摘みあげ、パニカを蜂蜜湯に浸して口元に持っていく。
『あ』
ぱくん、とパニカをくわえたガウルの子が、そのままちゅっちゅとしゃぶりはじめた。しばらくするとパニカを口から外し、また蜂蜜湯に浸して吸わせる。それを繰り返していくうちに、溶けたパニカがしゃぶられて、少しずつ小さくなっていくのが分かった。
右手でガウルの子のお尻を支え、食事をあげているタクは、あれだけ言ったわりになんだかやり慣れてる雰囲気満載だ。
――そういえば、アル王子は動物好きなんだっけ?
同じことを思ったのか、真紀が尋ねる。
『タク、慣れてる。もしかしてアルのペットの世話でもしてた?』
『ガウルは滅多に人に馴れない。それに、俺が近衛に入ったときはもう王子は動物を飼うのを止めてしまった後だ』
教えつつ、タクの手は小さな黒い生き物をやさしく持って、食事をあげ続けている。
ちゅっちゅとパニカを吸う音が、タクの声に混じった。
『以前、ガウルの子を育てたことのある男に会ったんだ。……まったく、こんなものを世話しようなどと思う人間に、人生で二度も出会うとは思わなかった』
滅多にないため息まじりのタクの愚痴よりも、気になったのはその言葉の前半部分だ。
『その人が育てたガウルってどうなったの?』
『成獣になり、群れにも属さず彼の元にいた。彼は少し特殊な男だったからな』
『特殊?』
『ああ、獣と話せる』
真紀とわたしの目が、タクの右隣のルイスヘ向かった。金髪の魔法士が苦笑する。
『私は無理だよ。だが、稀にマーレインでそういう古い力を持ったものが現われる』
『古い力?』
『そう。魔法力は昔の人のほうがもっと強かったんだ。今ではどんどん弱くなっている』
ルイスの笑顔に、どこか複雑な陰が纏う。
『ガウルを連れた原始型マーレインか……なかなか大変そうだな』
『ああ、ガウルにも人にも敬遠される。彼は自分と離れて群れに入るよう何度も言い聞かせたが、結局そのガウルは彼を庇って人の手に倒れた』
予想できる結末。あっさりと告げられた事実は、それでもやっぱり重い。
わたしはお茶のカップを持ったまま、黙って下を向いた。お昼の日射しは痛いほど暑いはずなのに、なぜだか急にしんと冷え込んで感じられた。
『マキ。命を大切にすることは大事だ。俺も生き物は好きだし、小さい頃から何頭もコマの世話をしてきた。だが……』
『……分かってる。ごめん、タク。手、しんどいでしょ。代わるよ』
真紀が遮ってそう言い、ちっとも手に負担のなりそうにない小さな黒い毛玉を、再び膝に戻す。
タクがあげていたパニカの欠片はすっかり食べられてしまい、真紀は代わりに自分の分のパニカを砕いて蜂蜜湯に浸して吸わせはじめた。あげながら、ぽつんと言い出す。
『うち、さ……あたしたちの世界では〝犬〟っていう動物がすごく身近で、家族として飼うこともあるんだよ。うちも飼ってて――でも、兄の喘息が……埃とかに弱い咳の出る病気が酷くなって、結局愛護センターに……その、飼えなくなった動物を引き取ってくれるところへ連れて行くことになったの。あたしはすごく反対したけど、親はあたしが学校に行ってるうちに連れてって』
タクたちに分かるように説明を加えながら真紀は話し、ちょっと言葉を切った。
『親は、センターが少しの間だけど新しい飼い主を探してくれるから大丈夫だって説明してくれたけど、あとから調べたらそうじゃなかったの。仔犬以外貰い手がつかないんだよ、そういうところってさ……つまりあたしは、間接的にその子を安楽死させてしまったわけ。
そのことを知って、あたしは親を恨んだけど、でもやっぱり自分がいけなかったんだと思う。その子が大事だったら、親にも話してちゃんと自分で別の飼い主を探すべきだったんだよ。どんなことをしてでも』
わたしの左手を握る真紀の手に、少し力が入った。じっとりと熱が伝わる。
『大変だからとか、よく分からないからで済ませてしまうべきじゃなかったんだよ。あたし、ずっと後悔してる。だから、もうそういうことはしたくないんだ。
タクの言っていることは分かる。ルイスにも怒られたけど……けど、やっぱりあたしはこの子を放っておけないの。できるできないじゃなくて、やるかやらないかの問題なんだと思う。あたしはこの子を助けると決めた。だから、知恵を貸して欲しいの。
あたしが飼うことがこの子を助けることにならないんなら、どうすればいいか教えてよ。どうすればこの子がきちんと生きていけるのか、一緒に考えて欲しいの。お願い』
真紀は一気にそう言うと、膝にガウルの子を乗せたまま、ぺこりと頭を下げた。
タクが、やや驚いたようにしている。隣に座るルイスは少し笑って、膝につきそうにうなだれる真紀の頭に、やわらかく片手を載せた。くしゃりと髪をかき回す。
『君らしい説得だな。これがマフォーランド語で喋れたら完璧だ』
『……人が真面目に喋ったのに、なんでルイスはすぐそういうことを言うかな』
顔を上げ、真紀が左隣の男を睨む。意味深な言い方に、わたしも彼を見た。
『なんなの、ルイス。マフォーランド語って?』
『ああ、マキが魔法話の指環はひとつで平気だと言い張るから、だったらマフォーランド語を上達してもらおうかということになったんだ』
『いや、勝手に決めないでよ!』
意地の悪そうな笑顔を見せるルイスと慌てる真紀を眺め、わたしは内心冷や汗をかいた。
――わあ、スパルタそう……。
タクも同じことを考えたらしく、苦笑して、いつものやさしい表情を見せた。
――あ、タクの機嫌が直った。
『分かった。その子のことは、できるだけ考えよう。だが、旅の目的も忘れるなよ?』
やんわりと釘を刺され、真紀がぐっとつまる。どっちに転んでもスパルタな雰囲気の漂う男の人二人の視線を浴び、目顔でこちらに救いを求めてきた。
わたしは仕方なくにっこり笑うと、『ふぁいと』と一声やる気のない励ましを贈る。ん、自分で蒔いた種だからね。
真紀の大きなため息が、膝の上のガウルの毛をふわりと波立たせて通り過ぎた。
…また長い。申し訳ないです。