14-7
7
ふいに、体を支えていた右手が軽くなる。仰ぐと、誰かの大きな手があたしの右手首をがっちり掴んでいた。
――ルイスじゃ……ない?
逆光で分かりにくいけど、浅黒い肌にがっしりした体格。束ねた長い黒髪が一房、前へと傾けた胸先に垂れている。
「xxx?」
ハスキーな渋い声で呼びかけ、その人は片手であたしの手首、もう一方の手であたしの襟首を掴むと、軽々と岩場に引っ張り上げてくれた。
「xx、xxxxx?」
厳しい口調で、何かを言っている。早口すぎて、聞き取りなんてレベルじゃない。
彼はまだ窪地でぐねぐねと動いている大きな口を顎でしゃくり、あたしの腕の中の仔犬に視線を移した。どうやら怒られているらしい。
よくよく見ると、彼は思いのほか若かった。それでもルイスに増して長身でイイ体格をしているせいか、彼より年上に見える。タクほどではないけど、スポーツ選手並みに胸板が厚い。
癖のない長髪は、鉄のように冴えた光を放つ緑味を帯びた黒。幾何学模様の藍染めの服を着て、マントにブーツ、背中には大きな荷物が二つ。旅の人のようだ。
やや冷静さを取り戻したあたしは、今さらながら小刻みに体が震えるのを感じた。あまりの急展開に、心がついていけてなかったらしい。座り込みそうになるのをどうにかこらえる。その代わり、習ったマフォーランド語がまるごと頭から吹き飛んでしまったようだ。
お礼の言葉が出ずに、仔犬を抱えたまま深々と頭を下げると、彼はなぜかあたしの肩に手を置いて覗き込んできた。
『おまえ、言葉が喋れないのか? それとも聞こえないのか?』
送心術だ。魔法士に見えないけど実はそうなのかと考え、アルも送心術を使えたことを思い出す。
――マーレインだけど、魔法士じゃないってことなんだろうか。
あたしの頭の中をいろいろなクエスチョンが飛び交っている隙に、彼がまた話しかけてきた。
『大穴喰(おおあなぐい)の巣の傍でなにをしていたんだ、おまえ?』
あたしは困って、腕の中の仔犬を指差した。
『助けたのか? それはガウルの子だろう。野生のものに軽々しく手出しをするな。群れから離れたら、どのみち生きていけない』
その言葉を拒むように、あたしは黙って仔犬をしっかり抱き締めなおした。
片手でつかんだ時は暴れまくっていた小さな動物も、両腕で胸に抱え込むと安定がいいのか、落ち着いてぴすぴす鼻を鳴らしている。
助けてくれた彼は、呆れたような顔をしつつも、それ以上は触れなかった。
『おまえも親とはぐれたのだろう? どこだ。送ってやる』
そう訊かれ、あたしはきょろきょろと辺りを見回した。方角を変えて眺めると、どれも同じような岩と砂地で、来たほうがさっぱり分からない。
――道路標識、なんて立ってるわけないよね……。
あたしが途方に暮れていると、彼がまた話しかけた。
『まさか徒歩で来たわけじゃないよな? 馬車か?』
頷いた。
首を振ってから、ヤー(はい)くらい言えよあたし、と心の中で自分に突っ込む。
『とりあえず街道まで送る。後は自力で何とかしろ』
なんだかルイスにされたみたいに手を引かれ、あたしは彼の後について歩きはじめた。
左手に仔犬(ガウルというらしいけど)、右手を彼と繋いで、あたしは凸凹した岩の上を進み――数歩も行かないうちに。
『伏せろ!』
突然彼が送心術で怒鳴り、あたしの手を下にぐっと引いた。
――こんなごつごつの岩に伏せるのは嫌だ!
思ったけど、彼の力に負けてしゃがみこむ。下を向いたあたしの視線の先で、進むはずだった岩の先が、がっと妙な音をたてて弾け飛んだ。
――……え。
また変な生き物か、と考えていると、『動くな』と囁いた彼が空いている右手を腰の剣に伸ばした。少し反った、短めの剣だ。
「xxx!」
聞いた声がしたので、あたしは顔を上げ、岩場の向こうでショールを巻きつけて立つ人の姿を見つけた。
「ル……」
名前を呼ぼうとして、素性を隠してる最中だと思い出す。言葉を呑み込んだ。
ルイスは鋭く同じ言葉をくり返し、左手の先に光を点す。
――魔法光……まさか、さっき岩砕いた……。
ルイスの怒りを察したあたしは、蒼ざめた。アルとのいざこざが脳裏をよぎる。
明らかにルイスと警戒の火花を散らし、庇うようにあたしに覆いかぶさる彼の袖を引き、味方だと告げようとするが、その単語が出てこない。あたしは何度も首を横に振り、違うのだと伝えた。
気付いたらしく、鋭い鉄色の瞳がわずかに戸惑う。
『知り合いか?』
必死で頭を縦に振る。ここで魔法なんかで大暴れしたら、旅どころじゃなくなってしまう。
あたしはまた鳴きはじめたガウルの子どもを抱え、彼の腕の下から這い出して立ち上がった。膝から砂を払い、繋いでいた手をほどいて、それをひらひらさせる。
納得がいかないのか、彼が不審そうにあたしの腕を取った。
『あいつは……いや、おまえ……』
言いかけ、首を振る。
『まあいい。行け。二度とはぐれるなよ』
「……ありがとう」
あたしはつい出てしまった日本語でお礼を言い、もう一度手を振って、小走りにルイスの元に向かった。岩の上を渡る振動に、ガウルの仔の鳴き声が飛び飛びになる。
「マキ」
待ちきれなかったのか、ルイスもこちらへとやってくる。あたしがちょこまか進む距離を、優雅な仕草で数歩で縮めてきた。
それでも息が少し弾んでいる。さすがに前にみたいに抱きしめてはこなかったけど、ルイスはすぐにあたしの両肩に手を置いて、声を送ってきた。
『怪我はないか?』
「うん」
彼が助けてくれて、と振り向いたあたしは、目が点になった。すでにそこには、あの鉄色の髪をした彼はいなかった。
「あれ……?」
『彼はなにを?』
「えと、ミ イリ(あたし 行った)……」
あっち、と岩の隙間から見えている窪地を指差す。あの気味の悪い口はまだ動いていて、見ているうちにぐるりと捩じれ、また砂の下に潜った。エグさ満点だ。
ショールから覗くルイスの青い目が、明らかに険しい。
『大穴喰の巣に近づいたのか?』
「えーと、ミ ヴィディ(あたし 見た)」
これ、と腕の中の黒い毛玉を示す。ルイスが呻いた。
『まさか……ガウルの子を助けようとして、巣に嵌まったところを助けられたのか?』
「ヤー(うん)」
さすがルイス理解力が早い、と感心したのに、彼の怒りは増したようだ。
早速、送心術でのお説教が始まる。
『危ないことを……。ヘクターに習わなかったのか? あれは鼻先の発光体で獲物を引き寄せて喰らう、地中生物だ。あの大きさなら、人もコマも一呑みだぞ』
あの光っていたのは、どうやら大穴喰とかいう不気味くんの鼻だったようだ。
――光る鼻はトナカイさんだけにしてくれよ。
などと、異世界の人には絶対理解できないことをあたしは思う。思っているうちにも、お説教は続く。
『遠くへ行くな、と私は言ったはずだけど?』
「デソーレ(ごめんなさい)」
不気味くんの存在は抜けていたけど、この単語だけはしっかり頭に叩き込んでおいた。使うのは目に見えていたから。
ルイスが苦笑を含んだ眼差しをあたしに向けた。
『まったく、君は私を驚かせる名人だ』
「トレ デソーレ(とても ごめんなさい)」
『謝るくらいなら、きちんと私の言うことを聞いてくれ。君を危ない目に合わせたくないんだ。山には何がいるか分からない。大穴喰どころじゃないものもいるんだぞ?
彼だって、さっきは君を助けてくれたが、だからといって信用してついていくなんて危険すぎる。売り飛ばされたりしたら、どうするんだ?』
まさかあたしが、と笑ったら、ものすごく真剣な声で怒られた。
『冗談で言っているわけじゃない。素性の分からない人間を甘くみるな』
「……ごめんなさい」
涙声になりそうで、あたしは小さく謝った。うつむくあたしを、ルイスが腰を曲げて覗く。
『すまない、きつく言いすぎた。だが……君たちはいろんな意味で危ない状況にある。守るためには、できるだけ目の届くところにいて欲しいんだ。いいね?』
「わかった」
あたしは頷いた。ルイスはあたしの頭を撫で、やっとほんの少し表情を緩める。
『帰ろう。リオコもタクも心配している。――ほら、その子は置いて』
素直に歩き出そうとしたあたしは、最後の一言に動きを止めた。
――置いて??
こんなにちっちゃくて耳も目も開いてないみたいで、今もお乳を探すようにふごふごあたしの服をまさぐっている、このいたいけな生き物を置いていく?
「ネイ(やだ)」
言い捨て、あたしはルイスが現われた方へ勝手に歩きはじめた。ルイスが追いかけてくる。
「マキ」
「ネイ(やだ)」
「マキ!」
「ネーイ!(やーだ!)」
後ろから腕を取ろうとする手を振り払い、あたしは彼に向き直った。
「やだよ! この子、まだ赤ちゃんだよ? せめて一匹でも大丈夫なくらいの大きさで放さないと、またあの変なのに食べられちゃうよ!」
『マキ。ガウルは大きくはならないが、獰猛な生き物だ。馴れさせるのは無理だ』
あたしの手首を取り、ルイスが告げる。
『いいか、野生のものを人の世界に引き込むことは、気紛れで許されることじゃない。彼らには彼らの摂理がある。それを無視してわれわれの生活に馴染ませるということは、この子がガウルであることを否定することになるんだぞ?』
――狼が犬になったように。
なぜか、その言葉が頭に浮かんだ。
あたしは黙った。助けてくれた彼も同じようなことを言っていたし、それがこの世界の人の考え方なのかもしれない。
それでも、あたしは腕の中の温もりを手放すことができなかった。
「一晩だけ……だめ? 一晩ご飯あげて、この子もお腹いっぱいになったら、ここへ来て帰すから」
――ああ、二日漬けの勉強くらいじゃ、ちゃんとした言葉が出てこないよ。
歯噛みをする思いで、あたしは日本語を変換しようと頭を絞った。五年習った英語でもうまく喋れないんだから、かなり絶望的だ。
それでもなんとか伝えようと、思い出せるだけの単語を並べる。
「リ マージェ ウヌス(彼 食べる 一度)、ボルヴォーレ(お願い)」
『……この子を食べるのか?』
「ネイッ(違うっ)、リ マージェ ウヌス(彼 食べる 一度)、クン ニ(わたしたちと)」
ルイスはしばらく考え込み、マフォーランド語と一緒に送心術を使ってきた。
「ミ ペタス ドゥヌ アル リ ウヌス マージャント、クン 二?」
『〝私たちと一緒に、彼に一度食事をあげたい〟?』
「ヤー!(そう!)」
『……分かった。そのことは後で話し合おう。もう行こう。だいぶ時間を取った』
あたしの腕を取り、促す。不安そうな顔をするあたしに、ルイスがやさしい目をして、腕の中で眠りかけていたガウルの子の背中を指先でつついた。
『君が助けたんだ。君がきちんと面倒をみるんだぞ?』
「ヤー(はい)」
『あの二人にも、君から説明すること』
「や、やあっ?(は、はいぃっ?)」
『といっても、今の君の言語能力じゃ誤解されるのが落ちだな』
事実なので、あたしは黙って彼を睨んだ。ショールから見える青い眼が悪戯そうなのは、気のせいじゃないはずだ。
『やっぱり、もうひとつ魔法話の指環を創ればよかったな』
さらりと言ってきたけど、実はこの発言、大問題だ。
異界の乙女が二人いるのに指環がひとつしかないのはおかしい、とかなんとかいう理屈をこねて、なんと彼はシグバルトに古い書物を解読させ、もうひとつ指環を創ろうと企んでいたのだ。ルイスってば、本当とんでもないことを考える。
天都を出る日、飛行船に乗り込む直前に会ったシグバルトがげっそりやつれ果てて、あたしはものすごくびっくりしたんだよ。
『旅立ちに間に合わず誠に申し訳ございません、マキさま』
結局解読はできたものの、大雑把な方法しか載っていなかったらしく、材料を揃えて試行錯誤するには時間的に間に合わないということになったのだそう。
シグバルトはとても申し訳なさそうに謝ってくれたけど、あたしは気の毒になってしまった。だって前髪で隠れているはずなのに、目の下の隈が見えるんだよ? 重症すぎる。
思わず彼の前髪をあげて惨状を確認したあたしは、理緒子の指環を借りて怒ってしまった。
『なに考えてんの、ルイス。自分でするんならともかく、他人に自分の好き放題押し付けちゃダメでしょうっ! 指環は一個あればいいの!』
しかも髪を上げてみて気がついたんだけど、シグバルトは斜視だったのだ。片目と片目とが、微妙に見ている方向が違うというやつだ。こういう人は、得てして両目の視力のバランスが悪い。
『それにシグバルトは目が悪いんだから、無理させてどうすんのよ! 視力のバランスがもっと悪くなって、物につまづいたり転んだりしたら危ないじゃない。せめて眼鏡くらい掛けるように言ってあげなよ!』
両目の視力が極端に違うと、物を立体的に見るのが難しくなる。あたしにも斜視の友だちがいて、その子に聞いて知ったから、偉そうなことは言えないけど。
シグバルトの赤面症や前髪の理由がなんとなく分かってしまって、あたしの怒りの矛先は、なぜか当の本人にも飛び火してしまった。
『シグバルトも、そんな前髪してたら目に良くないよ! さっぱり切って、目に合う眼鏡で視力矯正したらもっと楽になるし、斜視だって分かりづらくなるんだから』
『は、はい』
シグバルトはおどおど、周りは目をぱちくりさせている中、なぜかルイスは一人爆笑していた。それが三日前のこと。ものすごく昔のようだけど。
ルイスもそのことを思い出したのか、目に宿る悪戯そうな光が強くなる。
「……ルイス、ネ リーディ(笑うな)」
『君を笑ったんじゃないよ。君と出会えた幸運に感謝しているんだ』
なんでこんな歯の浮くような台詞をすらすら口にでき――いや、心で送れるんだ?
言い返す単語を探しきれず、あたしは日本語で言った。
「馬鹿」
『前も聞いたことあるけど、その〝バカ〟ってどういう意味なんだ?』
「馬と鹿って書くけど、意味なんて教えられるかっ!」
『君はこの旅で、日常会話くらいはできるようになるべきだな』
――ちょっと待った。なんであたしの課題が増えるんだ? 水門の鍵どうしたよ?
「ルイス、最低」
『ほら、きちんとマフォーランド語で喋って。喋らないと上達できないよ?』
わあ、この人さりげに鬼だ。
ってか、シグバルトに指環の創り方探しをごり押しした段階で、すでにサド決定だよね。
――あとでタクから、マフォーランド語の悪口全般を教えてもらおう。
決意するあたしは、その考えがすでにルイスの術中に嵌まっていたということに気がつかなかった。気付いたのは、もっとさらに先のこと。
あたしはそのとき、そんなくだらない彼とのやりとりに夢中になっていた。
ショールを被っている口元は目にすることはできなかったけど、たしかに彼はずっとやさしく微笑んでいたから。
太陽はもう天高く昇りきっていて、足元から光と熱がゆらゆらと漂う。
腕の中のガウルの子どもが、くしゃ顔をさらに顰め、かわいらしい小さな欠伸をひとつした。
次は理緒子です。やっとだ…。