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旅は時間的なこともあって、ほとんど馬車に乗りっぱなしだった。ツークスを昼前に出て、そこから休憩を挟みつつタクとルイスが交代で馬車を運転し、夕方隣の都市ブゼナに着く。
宿はさすがに普通の宿だけど、街外れの人の少ないところにタクがとってくれた。あたしと理緒子、タクとルイスで隣同士の部屋だ。
ルイスは停められる場所に一人で馬車を置いてきたらしく、あたしたちを降ろしたあと、しばらく姿を見なかった。宿に現われたのは日が沈んでからだ。
ツークスを出発して以降、ルイスは極力自分の容姿を晒すのを避けるようにしている。頭から大きなショールを巻きつけ、それを目深まで引き下ろして、目と髪の色を隠しているのだ。
『髪を染めてくればよかったな』と笑っていたけど、ルイスは元から目立つのを嫌う。あたしたちのことで無理をさせているのだと思うと、笑っては流せなかった。
隣の部屋に誰かが入った物音がしたので、廊下に出、隣のドアを叩いた。案の定ルイスが開け、あたしを見て驚いた顔をする。
何か言いかけ、あたしが魔法話の指環をしていないことに気づくと、ドアを肩で押さえたまま頭に手を載せた。
『一人で部屋の外に出ないよう、タクに言われなかったか?』
「そうだけど、帰ってきてるか気になって」
もごもごと日本語で言い訳するあたしに、ルイスがいつものように微笑む。
『心配することはない。君たちのことは私たちが守る。安心して休むといい』
――心配なのは自分たちのことじゃなくて、ルイスのほうなのに。
伝えたいけど、あたしの異世界語スキルはあまりに低すぎた。仕方なく頷く。
『いい子だ』
扉の陰で、素早くルイスの唇が髪先をかすめる。このあいだは『髪の毛ひとすじも傷つけさせない』なんてことを言われたけれど、ルイスはそんなに黒髪が好きなんだろうか。
よく分からないことを考えつつ、跳ねあがる心臓を押さえ、あたしはじゃれるようにルイスの胸に軽く拳骨をくらわせた。そして、つつがない宿の一夜が過ぎていった。
出発は早朝だ。まだ朝靄が色濃く残る時刻から、再び馬車を走らせる。といっても運転はタクとルイスなんだけど、座っているだけでも結構な苦行だ。
ブゼナを半分も過ぎていないところから街の様子はすっかり消え、鉱都ツークスから続いていた手入れされた土の道が本格的な砂利道に変わって、馬車はがったんがったん揺れた。それはさらに山道に入ったようで、上がっては下りながら周りはどんどん山の景色を深めていく。
王様に期限を宣言されて、もう七日。旅を急ぐのは分かるけど、これが連日ひっきりなしだと、さすがに理緒子だけでなくあたしも辛くなってきた。吐き気とかなんとかより、揺さぶられすぎて同じ体勢で居るのがしんどいのだ。
三都市めのブンゴルトで一泊し、山道との格闘を再開して数時間後、あたしは根をあげた。
『ごめん、ちょっと休憩欲しい』
『わたしも』
消え入りそうな声で、理緒子が同意する。乗り物酔いしやすいうえに体もほっそい彼女は、二人掛けの前の席を占領して、完全に伸びていた。
実は朝出発した後すでに一度トイレ休憩をとっていて、もう少しでお昼休憩にさしかかるところだったんだけど、あたしの体はかなり真剣に悲鳴をあげていた。
ルイスが座席の壁についている紐を引っ張り、御者のタクに伝えて馬車を停止させる。
『大丈夫か?』
『うん、ごめんね。少し外の空気吸ったら、気分良くなると思う』
『もう少ししたら街に入って、宿でゆっくりできるから』
ルイスが労わるように、あたしの頭を撫でた。触れた部分が、カイロでも当てたようにあったかくなる。魔法のひとつの〝治癒術〟ってやつだ。
だけどこれは、もともと本人の持っている傷を治す力だとか代謝機能を高めることができるだけで、根本的な〝治療〟ではないのだそう。強引にやると、あとから反動で疲労がどっとくるらしい。だから、今体力の落ち気味な理緒子には、頻繁にできなかったりするのだ。
それでも時折〝治癒術〟をかけてもらうと楽らしく、最初に天都に来た時のように食欲がなくなるところまではいかなかった。街道を外れ、やや開けた場所で馬車が停止する。
理緒子がやっと起き上がって、座席の背にかけていた水筒を取って水を数口飲んだ。柑橘系のいい香りがその場に漂う。
水筒の水には、疲れに効くコジという果物の絞り汁を混ぜてあるとかで、とても爽やかで飲みやすい。異界の生水や生の食べ物が合わなかったらどうしようかと頭をよぎったけど、散々いろいろ飲み食いしたあとなので悩むだけ無駄だった。
あたしもコジ水を少し飲み、二人に『外に行ってくるね』と言い置いて、席を立つ。
座席の肘掛に頭を戻した理緒子が、ひらひらと手を振った。
「いってらっしゃい」
『あまり遠くへ行くなよ』
心配性のルイスが腕を取り、送心術で伝えてきた。あたしは頷き、まだ浮遊感漂う体をぎこちなく移動させて馬車を降りる。御者台の上から、タクが声を掛けてきた。
「マキ、キエル ヴィ ファルン?」
――うーん、なんだかこれは、基本の挨拶にあった気がする。
あたしは悩み、とりあえず心当たりのある決まり文句を口にする。
「ダンカス。ミ ファルン(ありがとう、元気です)」
「クィ ヴィ イリス ネッセージョ?」
――熱線所? いや、そんなところはないか。
あたしが適当に笑ってごまかすと、タクは分かっていないのが分かったようで苦笑した。
「エスト クィダート」
〝気をつけて〟じゃないかと思われる言葉に、あたしは手を振って応え、お花摘みに向かった。
断っておくと、お花摘みは本当に花を摘むわけじゃない。その〝お花を摘む〟格好――地べたにしゃがみこむっていう姿から想像してもらう行為のことだ。
辺りの景色は、山なんだか岩なんだか石なんだかというくらいの殺風景さだ。木は生えているけど、茸みたいに緑の帽子を被ったタコ足状の枝をしたものが、ぽつぽつとあるくらい。あとはアロエみたいなのとか。岩陰にはキッキーナも、花はついてないけど生えている。
緑といえばそれくらい。アクィナスやキヨウが、どれだけ恵まれているか身につまされる気がした。深刻な現実をごまかすように、あたしは咳払いして喉の違和感をとった。
しばらく歩くうちに、体のこわばりや浮遊感が落ち着いてくる。あたしはときどき馬車をふり返って離れすぎないことを確認しつつ、それでも見えないところを探して進んだ。
大きな岩場を乗り越えると、足がさわりと柔らかなものを踏みしめる。砂地だ。
――このあたりでいっか。
岩と砂が広がる景色を眺め渡し、あたしは岩陰の砂を足で掘った。おもむろにしゃがみ、素早く用を済ます。仕上げに持ってきたのは、普通のトイレでも使う小さなティッシュもどきだ。なんでもカシェというそれ用の紙で、放っておくと自然に砂と一緒になるのだという。
――エコだな、異世界。
なんて思いながら、あたしはズボンを履き直し、犬か猫みたいに足で砂をかけた。痕を見られるのはなんとなく恥ずかしい。
すっきりしたあたしは、両腕を突き上げて伸びをし、胴をひねって体を充分にほぐした。こっちへ来てから、すっかり運動量が減ってしまっている。といって、飛行船の中で腹筋をして眩暈がしたので、馬車の中では絶対に無理だ。実際それどころじゃないし。
気温は、酷暑というほどではなかった。ここはキヨウよりは南だけど、山の上だし、空気も乾いているので過ごしやすい。でも直射日光は結構きつい。
――帽子被ってくればよかったなあ。
ぶつぶつ思ってストレッチを続けるあたしの目に、なにかを照り返した太陽光線が飛び込んでくる。ピカ、としたものが、数メートル先で二度、三度きらめいた。
不思議に思うより早く、あたしの体が動いた。あたしは岩を伝いながら近づき、岩場から一段低くなった窪地に辿り着く。そこへ、
「きう」
と、なにかの鳴る音。
あたしは窪地を覗き込み、音の主を発見した。砂でできたすり鉢状のそこに足をとられてもがいているのは、黒い毛もじゃの小さな生き物だ。
「きう、きう」
ゴムが擦れたような声なんだけど、どこか甘えたかわいらしさが漂うのは、この生き物がまだ保護を必要とする大きさだからなのだろう。
というか、どう見ても、しかめ面をしてる黒い垂れ耳の犬の子どもにしか見えない。
――野生の犬かなあ。
助けてやりたいけど、迂闊に触ると咬まれそうだ。仔犬に似たそれは、短い四本の足をじたばたと動かして上へのぼろうとする。が、滑りのいい砂が、嘲笑うようにそれを阻んでいた。
「きうぅ~」
母犬を呼ぶように鳴かれ、あたしは負けた。
岩場に生えていたキッキーナを右手で掴み、砂の斜面に足を滑らせると、砂から突き出ている石に爪先をかける。そこから思い切り左手を伸ばして、もがく仔犬の腹の下に差し入れた。
――よしゲット!
むくむくして見えるその生き物は意外に軽く、片手で簡単に持ち上がる。
「きゃきゃっ、ぎゃっ」
「あ、こら動くなって」
「ぎゅー」
浮き上がるのが恐いのか、仔犬が暴れて変な鳴き声をあげる。あたしはまだ、やわらかい砂の斜面から突き出た小さな石に足先を乗せているところだ。
体勢を踏ん張ろうとした途端、足元の石が砂に持っていかれる。
「わっ!」
咄嗟にキッキーナを持つ右手に力を籠める。力のかかった茎は岩から外れたけど、砂の奥深くに下ろした根が、あたしと仔犬の体重をなんとか支えた。砂が、ざあっと音をたてて流れる。
ふう、と息を吐くあたしの目の前を、砂より早く落ちた小石がころころ転がっていった。窪地の最深部までその勢いは止まらない。転がる先には、きらりと光る何かがあった。
――そういえば、あの光を見つけてきたんだっけ。
思った、そのとき。
光るものに小石が到達し、した刹那、窪地全体がぐるりと捩じれたかと思うと、真ん丸い巨大な穴がそこに開いた。赤黒い穴はぬらりと艶を帯び、周辺には卸金(おろしがね)も真っ青な尖った棘がぞろりと並んでいる。
「え゛っっ!」
慌ててあたしは岩によじ登ろうとした。だけどそこに足場になる石はなく、滑る砂に足をとられ、先程の仔犬と同じ状態にまんまと陥る。
しかもあの大きな口のようなものが、砂ごと周りのものを呑み込みはじめていた。あたしの足回りの砂が、どんどん吸い寄せられていく。
半泣きになりながら、あたしはそれでも仔犬を手放せなかった。脇に挟みかえ、左手をキッキーナに伸ばすが、体勢がいまいちでまったく届かない。状況を悟ったのか、脇に抱えた仔犬がまた暴れる。
「きうきうきうきうきう!」
咬まれこそしないが、ここで暴れられるのは辛い。今さらながら、迂闊に馬車を離れた自分の馬鹿さ加減を呪った。
――ルイス……!
空から伸びたひとすじの糸にすがるように、あたしは金髪の魔法士の名前を心の中で呼んだ。