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『……何をしたのです、あなたは』
『普通に接しただけだ。最初に会った時は、彼女は冷静だったし』
『状況が呑み込めていなかっただけですよ! どう見ても、まだユリアミスさまとそう変わらない年頃の少女です。いくら――の――とはいえ、まずは体調や精神面を気遣うのが当然でしょう! 異界から来たんですよ!』
『そう怒られても。私も異界の人間など初めてだし』
『怒ります。まあ、あなたにきちんとした女性の扱いを求めた私が愚かでしたが』
『女性と手もつなげない男が何を言う』
『女嫌いよりましです。あ、失礼しました。あなたの場合は〝人間嫌い〟でしたね』
『侍従とも思えないな』
『侍従だからこそ忌憚無い意見を進言しているのです。ヤムート医師はどちらですか?』
『診察をしたが、どこも悪くないというので帰らせた』
長い溜息がひとつ。
『……どうしてあなたはそうなのです。これから病状が出るかもしれないとは思わなかったんですか?』
『彼女の気は弱まっているが、安定している。病気ではないよ。異界の人間の身体の造りは、詳しく知らないが』
『分かっているのですか? 彼女は大切な――』
『……うるさい……』
間近で聞こえる内緒話とも思えない男たちの会話に、耐えかねてあたしは呟いた。
内容はおそらくあたしのことで、もうしばらく聞いていたい気もしたけど、指環のせいで翻訳機能がかかっているから頭に響いて眠れない。
気付いて、ルイスらしき人物が近寄ってくる。
『目が覚めたか?』
『もうちょっと寝てたいけど……ここ、どこ?』
『客室のベッドだ。狭くてすまない』
あたしはまだ半分目が開かないまま、右手を伸ばして今寝転がっている場所の幅を調べた。
きっちり片腕を伸ばして指先が出るくらい。
『……充分広いです。あと、お風呂に入って服を着替えたいけど、でき、ますか……?』
『湯浴みの準備をさせよう。着替えは用意した』
湯浴み。バスタブと石鹸と熱いお湯を期待するけど、そこに辿り着きたくても、身体が重くて動かない。まだ完全に目覚めきらないせいか、甘えが洩れる。
『疲れた。起きれない……しんどい』
我ながらどっちなんだと思う。
風呂に入りたいのか寝たいのか――いや、我儘が言いたいだけだ、たぶん。
『私がお連れいたしましょう、マキさま』
ルイスの横からシグバルトが顔を出す。背中に手を回され、寝惚けていたあたしの頭に〝お連れ〟される意味がやっと通じる。慌てて起き上がった。
『じ、自分で歩きますからっ』
『ご無理なさらずとも』
『こ、子どもじゃないんで』
どうやら運動靴を履いたまま寝かされていたらしい。ベッドから立ったあたしは、また目の前が暗転するのを感じた。
『……うわぁ。立ち眩み』
『大丈夫か?』
近くの男の腕にすがる。逞しい腕の温もりに、自分の指先がどれほど冷えていたか思い知った。
『ちょっと、くらっときた、だけ』
『顔色がよくない。無理をせずにシグに運んでもらえ』
心揺れる申し出だけど、恥ずかしいし重いと思われたくないし迷惑かけたくないしで、あたしは頷くのを踏み止まった。
『じゃあ、手に掴まらせてもらってもいいですか?』
『どうぞ』
紳士的にシグバルトが右手を差し出す。あたしは不恰好にそれを上から掴んだ。上品に預けるだけでは、体を支えきれそうにない。
しっかり支えてもらって歩き出したのに、第一歩で毛足の長い絨毯にスニーカーのゴム底が引っかかって、つんのめる。
『大丈夫ですか?』
『すみません。運動神経鈍くて』
謝るあたしの腰を突然、力強い何かがしっかりと抱え、ぶわっと体が浮き上がった。
『わ……っ!』
『このままでは夜が明ける。私が連れて行く』
ルイスの声が、有り得ない近さで聞こえる。
避けたつもりの〝お姫様抱っこ〟という状態だと気付き、恥ずかしくてあたしの顔に一気に血が駆け昇った。
『あの……ちょっとっ』
『君が無理をすると、この家の主人である私にも迷惑がかかる。いいな?』
ちっとも良くないが、頷くしかない。
ルイスに掴まるのも申し訳ないので、あたしは所在無く胸の前で両手を小さく縮こませた。
『シグ。アルノとミルテに湯浴みの支度を』
『承知いたしました、若様』
敬礼のように右腕を胸の下、左腕を後ろに回して頭を下げ、シグバルトが出て行く。
浴室は、部屋の片隅にカーテンで仕切られた場所にある、タイル貼りの小部屋だ。少し凹んだ場所に作られていて、カーテンなしでも入口からすぐには目に入らない。
その横の小さな腰掛けに、ルイスはあたしを下ろした。
『……ありがとう、ございます』
『何度も言うが、君は客人だ。望んでここを選んだわけではないかもしれないが、私の責任においてできるだけのことはする。して欲しいことがあったら言え』
『すみません。なるべく迷惑かけないようにします』
ルイスはなぜか溜息を吐くと、ほつれた金髪をやや乱暴にかきあげる。
『君をもてなすのは光栄なことだ。アクィナスの民も誇りに思うだろう。だから……あまり謝るな。君に窮屈な思いをさせているのは、こちらの配慮不足だと思えてならない』
すみません、とまた口を突いて出そうになり、あたしは呑み込んだ。
彼の言葉が耳に引っかかる。責任、光栄、誇り、アクィナスの民。支配階級の人間が口にする言葉というだけではない、重い響き。
『あの……伝説のこと、なんですが』
恐る恐るあたしは尋ねた。
『異界から来た人は、ここでは何と言われているんですか?』
『……渡り人(わたりびと)と呼ばれている』
『その渡り人は……何をしに、来るんですか?』
ルイスは、ためらうように口をつぐんだ。
『長い話になる。明日にしよう』
『いえ。簡単にでも教えて下さい。それを聞いて明日倒れるくらいなら、今日まとめてショックを受けたほうがましです』
座ったあたしを見下ろすルイスは、ものすごく複雑な瞳をしていた。
『渡り人は、天の水底(みなそこ)を開ける、水門の鍵を手にするといわれる』
『鍵、ですか』
くり返して、あたしは呟いた。少し黙って、動きの悪い脳にそのキーワードを浸してみる。
『それは……この世界にとっていいこと、ですか?』
『おそらくは』
『悪いこともある、んですか?』
『テーエは今、急速に乾いてきている。もし水門が開くことで雨が降れば、大地は潤い、人々は渇きから救われるだろう。だが、それを実際体現した者は、私の知る中にはいない』
『雨が降ったら、この国の人は助かるんですね?』
『ああ』
『ルイスも?』
『……ああ、そうだ』
そっか、とあたしは力なく頷いた。
少なくとも異界から来たということで迫害されたり、白い眼で見られることはなさそうだ。助けてくれた人にも迷惑はかかからないようだし――伝説の役割を期待されると困るが。
『でも、来るなって言われなくて良かったよ』
ぽつんと本音が洩れる。しんどくて、体も心も泥みたいで胃も頭も痛くて、これで来て欲しくなかったと言われたら、正直立ち直れなかった。
『良かった……それだけ分かればいいや、もう』
『マキ?』
『ありがと、ルイス。今日はダメダメだけど、明日はもうちょっと頑張るから』
何を、と言われても分からない。しっかりしなきゃと思うだけだ。
ルイスが何か言おうとした時、二人の侍女を連れたシグバルトが戻ってきた。熱い湯気のたつ甕(かめ)を両手に提げて。
男二人を部屋から追い出し、ばたばたと、あたしの初めての湯浴みの支度が始まった。