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鞄を勝手に取り上げて見たタクに仕返しという名の罰ゲームを決行するにあたって、使えそうなものを選ぶために、真紀は自分のショルダーバッグをひっくり返した。
学校指定のものではなく、某スポーツメーカーの大容量のバッグはすごく重そうな雰囲気。
中からはジャージや小物入れなどの他に、数冊の教科書とノート、使い込まれた音楽プレイヤー。それに楽譜の束が出てきた。
「わー楽譜だ」
「部室におきっぱだと先輩に怒られるんだよ。鞄重くなるから、やなんだけどねー」
わたしたちは結構真剣に自分たちの異世界グッズを並べ、意見を出し合ってタクへの罰ゲームを決めた。
内容は二つ。罰ゲームらしく、彼を心底驚かせることと、ちょっと恥ずかしい思いをしてもらおうということ。詳しい内容は――あとのお楽しみだ。
罰ゲームを決めてからも、真紀はまだ片耳にネックバンド型のヘッドフォンを当て、手の平の半分サイズの音楽プレーヤーをいじっている。結構高価そうなそれらはお兄さんからのお下がりで、コーラス部としては必須アイテムらしい。
わたしは泣き顔が分からないように軽くお化粧をして、ソファベッドに座って真紀を眺めていた。なんとはなしに、疑問が口をついて出る。
「ルイスは真紀ちゃんの鞄の中、見なかったんだね」
質問というより確認の問いかけ。少し困った顔で、真紀がこくんと頷いた。
「興味なかったんじゃない? それかどうでもよかったか」
そんなはずはない。少なくとも〝異界の乙女〟という存在は、この国の人にとって決して軽々しい存在ではないはずだ。
「やっぱ指環で会話できてたから、違うのかな」
「それはどうかなぁ。だってあたし、都合よく指環持ってるルイスんとこに現われたせいで、ヘクターさんに最初かなり疑われてたもん」
「え……」
驚くわたしに、真紀も驚いた。
「あれ、聞いてない? 絶対どっちかが偽者だろうって、結構揉めてたんだよ。あたしよりルイスが疑われててさ、なんかスゴイ嫌な感じだったんだ。だから、鞄どころじゃなかったのかもね」
「そうなんだ」
真紀がヘクターさんに突っかかったのも頷ける。
あんまり話が分かるのもどうだろって感じなのかもね、と真紀は曖昧に濁したけど、わたしがタクやラクエルに護られている間、聞かなくてもいいいろんなことを彼女は耳にしたのかもしれない。
――だから、この世界のことを勉強するなんて言い出したのかな。
伝説のことも、真紀はわたしより詳しい。百五十年前に同じように異界の乙女が現われて、なのに記録がほとんど残っていないということも、その人はどうやら異界に帰ったらしいということも、真紀から教えてもらった。
わたしは、伝説のことはあまり本気で考えないようにしている。お姫様は好きだけど、ファンタジックな世界はどうしても日常とは思えないから。
それでも、過去に同じような人がいたかもしれないってことと、話をする真紀の口調がいつになく歯切れ悪かったことが、わたしの心に引っかかっていた。
床に転がっていた紅い指環を拾い上げ、そっと撫でる。これを身につける以上、きっと耳に入れたくないような声だって聞こえるはずだ。小学校時代の自分のように。
――でも……あれが耐えられたんだから、平気よね?
胸の裡(うち)で囁く。
大丈夫、大丈夫。言葉で自分に呪文をかける。
一番しんどかったときは、いつもこうやって言い聞かせて、顔と心に硬い壁を張り巡らせていた。だけど、四年と半年かけて少しずつ解きほぐされてきたそれは、すぐに元の硬度を取り戻してくれそうにない。
どんな顔をすればいい? どんな声を出せばいい?
グロスを塗った唇を噛みしめ、ドアを睨みつけるように見るわたしを、ひょいと真紀が覗き込んだ。茶色い目がわたしを見て、唐突に両頬が摘まれる。
「笑って!」
ルイスに言ったのと同じ台詞を言って、真紀が間近で笑う。
「笑おう、理緒子。笑って、余裕見せつけてやろう。あたし、ついてるから」
摘んだわたしの両方の頬っぺたを、今度は両手で挟みこむ。
「女の笑顔は最高の武器なんだって。一緒に笑って、タクに罰ゲームさせてやろう?」
「なにその微妙な格言」
「んー、先輩の口癖」
真紀に頬っぺを包まれたまま、わたしは笑った。真紀も笑う。おでことおでこがくっつくくらい二人でくすくす笑いあって、わたしたちは手を繋ぐと、外へ出た。
わたしの左手に合わさる真紀の右手。二人ともその手は少し冷えて、かすかに震えていた。
だけど、わたしたちに涙はない。まだ少しだけ赤くなった目元のまま、わたしたちは何度目かの質(たち)の悪い神様の企みに、笑顔で喧嘩を仕掛けにいった。
部屋から現われたわたしたちを見て、タクたちは少し驚いたようだった。
個室の壁にもたれる形でヘクターさんが立ち、奥の壁際に置かれたスツールの左端にルイス、右端にタクが浅く腰掛けている。彼らの間に広がる分厚い窓ガラスの向こうには、どこかのっぺりとした青空が壁紙みたいに貼り付いていた。
話が盛りあがっていた雰囲気はない。ぎこちない会話が途切れた間の悪い沈黙の中に、わたしと真紀は飛び込んでしまったようだ。
こちらを見る彼らの表情に、わたしとタクのことを知っているのだと察する。思わず、真紀の手を握る力を強めた。真紀も握り返し、わたしを見て口の端をきゅっと上に向ける。
わたしはふうっと大きく息を吐くと、真紀の手を離した。タクのほうへ歩いていく。
気まずそうな、腫れ物でも見るようなタクの目つき。これは、わたしにすまないと思っているせいのだと思いたい。だけど、全部を信じるわけにはいかない。魔法の指環を使っても、人の心を覗けないから。
わたしは、どきどきする心臓を落ち着かせようと胸の前に手を当て、口を開いた。
「あのね、タク。わたし、すごくショックだった。勝手にバッグを取られたっていうことだけじゃなくて、なにも言ってくれなかったってことが、すごく……すごく嫌だったの。そのことは、本当に怒ってる。
でも、タクがわたしに親切にしてくれたことは、嘘じゃないと思う。こっちへ来て何も分からないわたしにいろいろ教えてくれたり、励ましてくれたり。だから、もう一度タクのことを信じたい。信じるの恐いけど、信じようって決めた」
わたしは、心に溜めていたことを一気に喋った。日本語で。
指環をしなかったのは、そのほうが好きに言えるんじゃないかっていう真紀の意見だ。
たしかに言葉が伝わらないと思うと、肩の力が抜ける。なにしろ〝バカ〟と言っても通じないのだ。それはそれで悔しくもあるけれど。
いつにない勢いで喋ったわたしを、タクはやや吃驚したように見ている。
何か言おうとしたので、わたしは首を横に振って止めた。
「まだ、わたしタクを完全に許せる気持ちになれない。だから――罰ゲーム、受けてね?」
目に力をこめて、わたしは顔いっぱいで笑いかける。合図の言葉を聞いた真紀が進み出て、タクに「頭下げて」と言った。指環は、今は真紀がしているのだ。
タクが不審そうに、頭を下に向ける。真紀が上から被せるように、ヘッドフォンを彼の両耳に当てた。わたしのところに戻ってきて、手を握る。
『じゃ、罰ゲーム、開始!』
真紀の口からその言葉が出た途端、その場の男の人全員が目を丸くし、同時に彼女の手の中のプレーヤーのボタンが押された。
両耳から大音量で流れ出した異界の音楽に、タクの体が、まるで雷にでも当たったみたいにびくんと震える。切れ長の両目がこれでもかというくらいに見開かれ、唖然呆然という顔になった。
罰ゲームに選んだのは、真紀セレクトの激しめハードロックだ。真紀の音楽プレイヤーにはありとあらゆるジャンルの曲が放り込まれていて、詳しくないわたしは彼女に一任したのだ。
なにしろこちらの世界は、お城に馬車に剣に魔法。リズムの早いギターサウンドなど聞かせたら、絶対に飛び上がるという予想の結果が、これ、だ。
実際かつてない驚きの表情を作ったタクは、ヘッドフォンをしたままうなだれ、やがて小さく肩を震わせはじめた。笑っているらしい。
『なんで笑うかなぁ』
真紀はかなり不満そうだ。声もなく笑いながら、タクが顔を上げる。流れる音楽はかなりの音量らしく、合っていないヘッドフォンと耳の隙間から、かしゃかしゃとノイズが洩れ聞こえた。
『いや、これはかなり強烈だ。頭が痛い。くく……』
『笑わないのー。これはタクの罰ゲームなんだから。理緒子を泣かせた罰』
『……ああ、もちろん罰を受ける覚悟はしていた。まさか、こんなことをされるとは思っていなかったが』
ヘッドフォンを外さないまま、タクが笑い顔を真顔に戻し、わたしを見る。
椅子に座った彼と私の瞳が、ほぼまっすぐに合わさる。
『リオコ、君を傷つけて本当にすまなかった。心から謝る。だが初めて会ったあの夜、俺が君に言ったことは本心だ』
『言ったこと?』
問い返すわたしに、タクは『まだ言葉が通じない頃だったな』と呟き、改めて言い直した。
『あの荷物は俺の知らない間に回収され、王子に差し出されていた。知らなかったといって済ませられることではないのは分かっている。だが、君が使命を果たすこの旅で、どうか君を守り助ける担い手となる許しを俺にくれないか』
そう言って、タクはふわりと床に降り、片膝をつきその横に拳を当てて、わたしの前で頭を垂れた。ヘッドフォンを嵌めて、どこか苦しそうな彼は、それでも真摯だった。
――知らない間に回収され、王子に差し出されていた。
その台詞が、わたしの頭の中をぐるぐると回る。
そうだ、タクは鞄をわたしに返したとき、一言も自分で拾ったなんて言わなかった。決めつけたのは、わたし、だ。
ひくつく喉を押さえ、何度か唾を飲む。歩み出ようとするわたしの手を真紀が掴み、黙って左手に紅い指環を通した。
わたしは頷いて、タクの前に立ち、その頭からヘッドフォンを外した。いつの間に電源を落としたのか、音楽は聞こえない。
居心地の悪い沈黙を、飛行船のエンジン音が埋めていく。規則正しいその音は、まるでこの船の鼓動のようだ。手を当てたわたしの胸が、まだどきどき跳ねて、時を刻んでいる。
『タク。わたしね、小さい頃いじめられて、いろんな人からすごく悪口を言われたの。一番ショックだったのは、友だちだと思ってた子が、陰でわたしの悪口を言ってると知ったとき。だから嘘は大嫌いだし、嘘をつく人は信じられない。
でも……タクは、嘘をつかなかったよね? 正直に、話してくれた。だからわたし、タクを信じる。タクも、わたしに正直でいてください』
『ありがとう、リオコ』
タクが顔を上げて、もう一度わたしを見た。その切なそうな深い藍色の瞳に、わたしの胸がきゅうっと詰まる。わたしはぎこちなく微笑んで、スカートのポケットから用意していたものを取り出した。
『今回のこと忘れないように、タクに印をつけていい?』
『ああ』
頷いたものの、タクはわたしが持っているものが何なのか、よく分からないみたい。たしかに、こちらの世界ではいなさそうだ。わたしも、本物は動物園でしか見たことがない。
わたしはタクを立たせ、剣を提げている紐のところにそれを結びつけた。軍服を着替えても、旅の剣士っぽいきりりとした彼の腰にぶらりんとしがみつく、ブルーのテディベア。
くっと真紀が笑う声がした。そちらを向くと、ルイスとヘクターさんも笑いを堪えているのか、横を向いている。
タクが戸惑うように、クマを指で摘んだ。
『リオコ、これは……?』
『だから、タクの罰! 絶対外しちゃだめだからね?』
『あ、ああ。分かった』
ちょっと睨んでみせると、神妙にタクが頷く。なんだか急に立場が偉くなったみたいな気分がして、わたしは可笑しくなって、ちょっとだけ笑った。タクの表情が、ほんの少しだけ緩む。
わたしの肩に圧しかかっていた空気が、ふっと軽くなった。
重かった時間がやっと動き出して、窓の向こうの雲がゆっくり流れはじめたような、そんな気がした。