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やっぱりルイスはお金持ちらしい。
テーブルに並べられた食器類を見て、あたしはそう判断を下した。
緑と白のテーブルクロスの上に燦然と輝く、銀色の皿とナイフにフォークにスプーン。フォークは二股だけど、なんとなく馴染みのある光景だ。食器を照らす燭台にも、普通に火(だと思う)が灯っている。
あたしは声を潜め、長いテーブルの真向かいに座るルイスに呼びかけた。
『ごめんなさい。あたし、マナーとかよく分からないけど』
『フォークで押さえて、ナイフで切って口に入れる。フォークだけで食べてもいいが、フォークは食べない。皿も食べない。それができれば問題ない』
真面目な顔でルイスが教える。
ちょっと笑った。冗談を言う人とは思わなかった。
『気が楽になった。ありがとう』
『ここは私しかいない。堅苦しく考えることはない』
あたしは顔を上げて、少し離れて立つ老婦人に目を向けた。
『アルノさんは一緒に食べないんですか?』
『わたくし……で、ございますか?』
驚いたようにアルノが問い返す。戸惑う瞳を一瞬ルイスへ向け、慎ましく頭を下げた。
『わたくしはお客様と御席をご一緒できないのです、マキさま』
『君の世界では、侍女も席を同じくするのか?』
『侍女なんていません。うちは先祖代々平民階級ですから』
〝さま〟と呼ばれたむず痒さもあわせて、あたしは刺々しくそう答えた。直後、しまった、と心の中で舌打ちする。
――お金持ちなのは、ルイスが悪いんじゃないのに。
『ごめんなさい。あたしってば、こういう状況に慣れてなくて……その、失礼なこと言いました。すいません』
『……いや。風習が異なるのに戸惑って当然だ』
明らかに身分のことを無視して、ルイスが微笑む。
『アルノが同席しないのは失礼にあたるかな?』
『いえ、いいんです。ここはルイスの家ですから、気にせずこちらのやり方でいってください。そのうち慣れますから……たぶん』
慣れるのだろうか。不安が波のように足元から押し寄せる。
あたしは、右手の中指に嵌まる指環をイライラと触った。
アルノが若い男性から大きな料理皿を受けとり、テーブルに並べていく。よく分からない白いスープに手羽先っぽい肉の山盛り。ピラフに似たぱらぱらの粒のご飯もどき。
どれも見たことはないが、臭いをかいだ限りでは食べられそうな雰囲気だ。
ルイスがナプキンを広げるのを真似て、あたしも膝にナプキンを置いた。毎日こんな食事だったら気も抜けない。しかも、太りそうだ。
――なに食べよう。
きょろきょろ見回していると、料理を運んできた男性が声をかけた。
『どちらをお取りいたしましょう、お嬢様』
――おおぉ。お嬢様、ときたよ。
心の中で悶える。居心地の悪さをこらえ、あたしは脚付のボウルに入ったスープを指差した。
『スープ、ください』
『かしこまりました』
とろりとしたスープはチキン風味。クリーミーだが舌に触るものがある。豆かじゃが芋を濾した感じに近い。
――うん、美味しい。
空きっ腹に染み入る味だ。美味しいです、という意味を込めて、給仕の男性に頷きかける。
『これは何のスープですか?』
『キャスバという植物の根をすり潰したものです』
『すごく出汁(だし)が効いてます。鳥ですか?』
『カケロの骨から採ったスープをベースにしています。お気に召されたのであれば、料理人も喜びましょう』
『とっても美味しいです』
『カケロの肉を焙ったものもございます。お取りいたしましょうか』
『あ、お願いします』
添えられている大きなフォークを使って、食べやすそうな肉の欠片を皿に載せてくれる。
『どうぞ、お嬢様』
『あの……ちょっと、お嬢様は止めてもらえないでしょうか』
失礼は避けたいので、できるだけ丁寧にお願いする。
『あたし、お嬢様と呼ばれる身分ではないので。あなたも――すみません、まだご挨拶していなかったですね。あの、お名前は?』
『シグバルト・コバシュと申します』
『あたし、朝野真紀です。マキって呼んで下さい。よろしく、シグバルトさん』
椅子に座ったまま、横向きで握手する。くすり、とルイスが笑う声が聞こえた。
『なんですか?』
『……笑わないで下さい、若様』
傍らの男が、なぜか顔を赤くしてルイスを睨む。
〝若様〟と呼ばれた彼は、ナイフとフォークで優雅にカケロの肉を切り分けながら、笑いをこらえた目を向けた。
『君がその男を困らせているのを楽しんでいるだけだ。気にするな』
『困らせる?』
『こちらでは、若い女性から男性に手を差し伸べる時は、好意の表われと解釈される』
『つまり……』
あたしは彼に告白したようなものなのか。
『ごめんなさい。そんな気なかったんですけど』
『……いえ』
『シグ。彼女はおまえが好みじゃないらしい。諦めろ』
『はあっ?』『そんな……!』
ずれたルイスの指摘に、あたしとシグバルトの声が重なる。短い黒髪を前に流して目の表情を隠した彼は、まだ顔を真っ赤にしたまま、あたしから眼を背けた。
どうやら、ものすごく失礼なことをした気分だ。
『すみません。変な誤解させたみたいで』
『……いえ、お気になさらず』
『あの、あたしの世界では女からも普通に握手するので』
『いえ、大丈夫ですので』
言えば言うほど彼は困っていくようだ。ルイスがくくっと笑いを洩らす。
『笑ってないで、ルイスもフォローしてください』
『しなくても大丈夫だろう』
『そうじゃなくて。〝若様〟だったら、きちんと仕切って下さいって言ってるんです』
『彼に罰を与えればいいのか?』
どうしてそう極論に走る。
もともと忍耐強いほうではないあたしは、息をひとつついて傍らの男に宣言した。
『シグバルトさん。あたしは優雅に慎ましく振舞える人間じゃありません。女ですけど、あなたの知ってる女性像とは天と地ほどかけ離れているので、普通の扱いをして欲しいです』
『普通の、でございますか?』
陰になっている表情が再び戸惑う。あたしの言う普通が、こちらの普通と違うのだ。
『あまりかしこまった態度でなくていいってことです。それに、あたしはこの国の人間じゃないのでマナーが分かりません。失礼になっても、見逃してもらえますか?』
『それは当然承知いたしております』
『それから、習慣やマナーやすることが間違っていたら、その場ですぐに教えてください。間違っていることを間違ったまま覚えるのは嫌です。言ってくれないと分かりませんから、きちんと教えてください――アルノさんも』
ちらりと、正面の男にも一瞥をくれる。
『ルイスもお願いします。恥ずかしい思いをするのは嫌ですから』
『君は客人だ。さっきも言ったが、マナーを気にする必要はない。知らなくて当然なのだから、恥ずかしく思う必要もないんだ。堂々としていればいい』
『……あなたは知らない場所へ突然来て、知らない言葉と知らない環境と知らない習慣に晒されて、それでも普通に堂々としていられるんですか?』
腹立たしくあたしは詰問した。瞬時に、なごやかだった食事の席が張り詰めた空気を纏う。
崩壊していく感情を静めるように、あたしはまた、ふう、と息を洩らした。無作法にテーブルに両肘をついて、額に手を当てる。
『すみません。少し疲れていて』
『もう休むか?』
休む。休みたい。
靴も靴下も脱いでお風呂に入って、清潔な寝巻きに着替えて、テレビのついたリビングでまったり寝転びたい。だけど――それが、ここでどこまで叶えられるのか。
絶望的な気がして、あたしの目にうっすら涙が浮かんだ。
『シグ、彼女を部屋に――』
『……いえ、食べます。せっかく作ってもらったんだし、冷えたらもったいないですから』
あたしはナイフとフォークを手に取った。緊張の加減がおかしくなったのか、手が震える。
ゼラチン状になった肉がなかなか切れない。かちゃかちゃと耳障りな音を立てて、あたしは敵(かたき)のようにカケロの肉に挑んだ。
切れ味の悪いナイフに苛立ち、涙が零れそうになる。あたしは諦め、フォークを突き立てた。ゴムのような弾力の肉が、にゅるりと滑る。
――肉にまで馬鹿にされてるんだ、あたし。
これじゃ運命に見放されてるって思ってしまっても、嘘じゃないかもしれない。
『マキさま。お皿をお取り替えしましょう』
見かねたシグバルトが声をかけてくれる。
あたしは首を振って、頑固に肉にフォークを何度もがんがん打ちつけた。そして何度目かの挑戦で――カケロの肉の切れ端は見事に皿から飛び出て、ぽとりと床に落ちた。
限界だった。
あたしの中で何かが切れる。涙が溢れた。ぐらりと視界が揺れ、そのまま横向きに、体が何もない空間に落ちていく。
あたしは人生で初めて、気を失った。