Interlude Ⅱ――男たちの思惑(1)
(1)――シグバルトの憂鬱
天都にマキさまを連れていくと聞いた時、正直厭な予感がした。面倒なことになると。アクィナス領主邸で資料探しに呼ばれ、その予感は的中し、現実はさらに悪いほうへと転がっていった。
我が主人たるルイセリオ・セイアン・カーヅォ=アクィナシアは、悪い人物ではない。魔法士団の最高峰[双月]の士団長を務め、あのレスラーン・エルド・カシュゲートをして次代の魔法士長は彼以外にいないと言わしめるほどの人物である。
しかし、その能力や経歴に反して、人格はいささか問題があった。その容姿が能力と同じく稀有なもので、日の光を紡いだような金の髪と青空を写し込んだ碧眼ということが、彼の人格形成に深く関わってしまったことは否定できない。
極端に人と距離を置き、故郷たるアクィナスだけでなく公務の場ですら、侍従はもちろん客人も滅多に寄り付かせることはないと聞く。
氷のアクィナス――その二つ名がごく自然に彼に纏わりついたのも、至極当然のことだった。また本人もかえってそれをよい仮面にしているように見えた。
それが、たったひとつの出会いで崩れた。異界の娘との出会いで。
「――若様が笑っておられますっ」
血相を変えて叔母のアルノがそう報告に来た時は、一瞬何が起こったのかと思った。
それが、あの異界の娘とひとつ椅子に腰掛けて寄り添って笑っているのだと聞き、私は最初信じなかった。あの主人が、誰かに心を開いたと?
しかし、それは事実のようだった。アクィナスの邸宅に呼ばれた時、顔馴染みの侍従から領主との会見の様子を聞き、それは確信に変わった。主人はあの娘を必要としているのだと。
最初から変わった娘だと思っていた。身形や言動もだが、時折驚くほどの真っ直ぐさで人の懐に飛び込んでくる。
私は、過去のトラウマのために女性ときちんと話すことができない。それなのに、彼女に対してはそれができた。私が赤くなったことを自分のせいのように謝ってくれたことか、お嬢様ではなく名前で呼んでくれと言ったことか。
そのどれもが要因で、どれもが違う。おそらく、マキさまがマキさまであることが最大の理由なのだ。
最初は、人嫌いの主人の代わりに私が彼女の世話をするつもりで接してきた。だが、そんなことなど杞憂だったのだ。彼女はとっくに彼の心の鍵を掴んでいた。
――まったく……こんな日が来るなどとは。
肩の荷が下りた気がする。主人がやっと心から寄り添える相手を見つけたのだ。素直に祝福をしよう――心清らかにそう思ったのは、ほんの数瞬だった。
――なぜ、こうなる……?
主人とマキさまが仲良く眠っている様子を、あたたかく傍らで見守っていただけだというのに。
私は今、主人である[双月]士団長の仕事場の一画を占拠し、古書を三方に積み上げた状態で苦行の二日目を明かしていた。
主人の状況は、予想以上に難航していた。仕事を片付けたくとも、テーエの旱魃が進み水の探査に魔法士が多く借り出されて、城に残った者がほとんどいないのである。
もちろん主人もその役割を大いに期待されていたが、なにしろこちらは地ではなく天の水を探そうという立場。事情を説明すると無理強いもされなかったようで、副団長であるニコラウス・シェズキスとフェイラード・イシェイを呼び戻し、引継ぎをすることになった――ここまではよい。問題は別にある。
「どうだ?」
「……なにをどうお聞きになりたいんです?」
いつもの調子で主人にさらりと訊かれ、私は陰鬱に答えた。
私は昨日主人から、魔法話の指環の創り方を探せとの勅命を受けたのだ。古書の山の隙間から長い前髪の下でも分かる隈の浮かぶ顔を覗かせ、恨みがましい視線を注いだとて無理はあるまい。
「どこまで進んだんだ?」
「神王記の第八章が済んだところです」
「まだまだだな」
思わずキレた。
「当たり前ですっ。だらだらと四十巻もあるわが国最長の叙事詩を原文で読めって、あなたは侍従を殺す気ですかっ!」
「ソロンが予言の書以外に書物を記していないんだ。そこに指環の創り方が載っていない以上、他から当たるしかないだろう」
「だけどなんで原文なんです? 古語ですよ? すでに使われなくて久しい死滅した言葉ですよ? 現代語訳が山のようにあるのに、なんで原文なんですっ?!」
訴えるだけでもう泣きそうだ。主人は氷と称えられた表情で淡々と言う。
「訳文では落ちているところや意味が曲解されているところもある。わざわざヘクトヴィーンが神殿の書庫から貸し出してくれた、本物の原文だぞ? 歴史好きのおまえも垂涎の代物だと言っていたじゃないか」
「あんな喜びは一瞬で消えました。なんですか、明日までに全部読み切れって。もう無理です。私の能力の限界です」
拗ねて捻くれまくった私の状態を悟り、主人は仕方なさそうにとっておきの一言を放った。
「シグ。古語を現代語並みに操れるおまえだから任せているんだ。マキのために頼む」
「……マキさまではなく、あなたのためでしょう?」
主人の頬がぴくりと引きつる。図星だ。
「旅の間マキが不自由をしてもいいのか?」
「マキさまのご性格なら心配要らないでしょう。通じていないのに喋ってなんとなく雰囲気で会話してしまいそうですし」
私もとっておきの情報で言い返す。
「ヤーマトゥーロ神官長様に文字も教えて頂くということですから、二日後の出立までには簡単な意思の疎通くらいできるようになっているんじゃありませんか? 順応性高そうですし」
主人が明らかに気まずそうな顔をした。多少はかわいいところがある。これで口が悪くなければもっと良いものを。
「だが言葉が不自由だと、何かあった時に助けてやることができないだろう? 女性だし」
「国一番の魔法士なら、ご自分で指環を創ってはいかがです?」
主人はソロンと同じくマーレインにして超一級の魔法士。他人に頼るのが嫌いな彼は、持ち得る知識を総動員して自力で魔法話の指環を創ることも当然考えたはず――しかし。
「すでにあるのなら、その方法を学ばせてもらうのが近道というものではないか」
「……できなかったんですね」
大きな溜息がこぼれ出る。
まあ、予想はしていた。なにしろ相手は伝説の大賢者。これで自力で指環を創るなどできたら、主人はさらに人間離れしてしまう。これ以上常識からはみ出てくれては、こちらが困るというものだ。
「では、若様にも古書の旅にご同道願いましょうか」
「ちょっと今仕事が立て込んでいて……ああ、行かないと。ニコルを待たせているんだった」
「ありがちな台詞で逃げるとは、若様も落ちぶれたことで」
皮肉を言いつつ、私は布をとって再び神王記を読み始めた。国宝級の書物だけあって、手袋をはめ、会話するときは布を掛けて細心の注意を払う。
本当はマスクがいいのだが、そこまでするとさすがに自分の精神状態に自信が持てなくなりそうなので勘弁させて頂いた。一応保護魔法はかかっているらしい。
――なんだかんだと私もお人好しだな。
そもそも、こんなものは侍従の仕事ではないのだ。主人が簡単に他人を受け入れないのを知っているから、こうして度々関係のない仕事も引き受けてしまう。損な性分ではある。多少厭味を口走るくらいは見逃して欲しい。
私よりねじくれた性格の主人は、何も言わずに引き上げた。よほど仕事をしてもらいたいらしい、と思っていると、突然ふわりと暖かいものがかざされた。
主人の手の平が、ちょうど私の頭の上辺りにある。光が出ているわけでもなく風が流れるでもなく、そこから伝わる何かが疲れ切っていた私の頭、うなじ、肩、目の周りをじんわりと包み込んでいく。治癒術――魔法士の初歩らしいが、いきなりされるとさすがに驚く。
「……ありがとうございます、若様」
「礼なら完全読破した後に聞かせてくれ。期待している」
どうしてこの人は普通の励ましができないのだろう?
私の口の悪い原因の何割かは、絶対にこの主人にあると思う。仕方ないので皮肉で返す。
「ご期待に沿うつもりは一欠片もありませんが、善処いたします」
「なぜそこで素直に頑張ると言えないんだ?」
「主人が主人ですから」
カシュゲート士団長にも〝似たもの主従〟と評された。毒舌家に毒舌呼ばわりされるとは、なかなかのものではある。
――こんな人にマキさまを任せて大丈夫なんだろうか……。
姉や叔母には絶対に打ち明けられない不安が、胸をよぎる。だが――ひねくれすぎてある意味一周回ってしまっている主人の性格は、実は単純なのだ。好きなものが極端に少なく嫌いなものが大半なだけで、その限られた対象に異常なまでの情熱を注ぐのだ、仕事同様。
私は出て行きかける主人に、少しばかり治癒の礼をしてやった。
「――若様。シェズキス副団長とのお話し合いが終わられたら〝エスイ〟と〝イオ〟という物質について調べておいて下さいね」
「なんだそれは?」
「両方とも古代の鉱物または石と考えられる物です。エスイとイオを密閉した容器の中で結合させ、腐敗させた後に生じた〝白い金〟を精錬し〝赤化〟したものが〝緋色の金〟。それをさらに発酵させて、ようやくあの魔法話の指環の石たる〝緋煌石(ひこうせき)〟の完成というわけです」
青い目がやや見開かれた。照れをごまかすように、私は素っ気なく続ける。
「私も愚かではありません。これだけの量全てに眼を通すと本気で思われたのですか? 神王記の現代語訳くらいは、とっくの昔に全巻読破しております。
そこから必要そうな箇所を選り抜いて、片っ端から拾い読みしていっているのです。時間がないのですから、完璧より効率を選ぶのは当然でしょう?」
「なるほどな。だが、鉱物を〝腐敗〟や〝発酵〟させる方法に辿り着きそうか?」
「言葉の意味が変化していると考えるか、別の状態を表わしているかのどちらかですが、もう少し時間を頂けるのでしたら、万が一にでも辿り着く可能性がないともいえません」
「万が一か……希望が見えてきたな」
どうしても皮肉を言いたいらしい。私は睨んだ。
「せっかく進捗状況を教えて差し上げたのに、厭味を言うならもう教えませんよ?」
「そう睨むな。勉強が済んでいるようなら、あとでマキに声援を送りにきてもらうように言っておくから」
「声援を送られたいのはあなたでしょう。これで若様があの方を掴まえ損ねたら、私の努力も水の泡なのです。せいぜい頑張って下さいね。若いライバルも現われたことですし」
途端に主人の顔が険しくなる。他の人が見たらどれほどの叱責をされて見える状況だろうが、私は軽く笑い流した。
「あなたが普段そんなに表情豊かではないと、マキさまはご存知なのですか?」
「知るわけないだろう」
「私としては愉しいばかりなのですがね。いろんなあなたが見れて」
「勝手に愉しんでいろ」
「私だけではありませんよ。叔母の中ではすでに屋敷に子ども部屋を作る腹積もりのようですから」
この事実には、さすがの主人も呆れたらしい。だが、浮かれている叔母や姉の心情を思ったのか、何も言わなかった。
三年前の婚約破棄以降、主人に女性の影が皆無だったのは事実だし、われわれがみな家族同様に思っていることを彼は知っている。
「本当に……みな喜んでいるのです。マキさまが来て下さって良かったと、あなたのために。異界の乙女であろうとなかろうと、われわれにとっては重要ではないのです。無事にお戻りになられること、それだけを願っています」
「分かっている」
「旅の途中で手など出さないで下さいね」
一応、釘は刺しておく。
「……善処する」
微妙な答えに一抹の不安がよぎったが、私は気に留めないでおいた。二人のことは二人がどうにかすればよい。私はこの古語と戦って、ソロンの指環の謎を解き明かすことが急務だ。
その日の夜は当然、一睡もすることはなかった。
…とゆーわけで、シグバルトでした。