第9章 氷と光――ルイスの想い
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マキの心が分からない。
黙っていることなどできない性格だから、最初からいつも思っていることが次から次へ表に現われる。表情も豊かで言わなくても本音が見えてしまうから、言葉など通じずとも分かりあえる――そう思っていた。
――私が……甘かったのか。
指環をリオコに渡してから、マキとは極端に話す機会がなくなっていた。二人がタキ=アマグフォーラに発つまでに前の乙女の資料に目を通し直しておきたかったこともあり、忙しくしていたせいもある。
だが、まだ天都へ来て二日目。期限は二週間と決まったが、もう少しゆっくりしても間に合うし、その間にマキとも時間が取れるだろう。私は安易にそう考えていた。
思ったより仕事が押し、再びマキと顔を合わせたのは、城の上位から中位貴族まで招いて開かれた夜宴の会場だった。
誰に何を吹き込まれたのやら、王が異界の乙女のお披露目すると言い出した時から、厭な気はしていた。〝お嬢様〟と呼ばれることを拒み、自分で自分の服を洗濯すると言い張った娘が、飾り物の舞台にあがることを素直に受け入れたがるまい。
それでもドレスは仕立てたとラクエルから聞き、意外に思った。が、ほっともしていた。あの娘も女だったかと。
しかし、宴の席に現われたマキは、まるで人が変わったようだった。象牙色の肌に映える緋のドレス、頭に飾ったフェイオウの花。
すべてが彼女を美しく引き立てていたというのに、そこに笑顔はない。人形のように立ち、リオコの隣でぴりぴりしていた。
ヘクターが護衛を手配していたはずだが、予想以上の観衆の興奮に全く役に立たず、壇上から降りた直後二人の娘は一瞬で人の波に呑み込まれた。
ムシャザが駆けつけたので安堵したが、それでも気になって何度もそちらを見る。しかし、マキは目を合わそうとしなかった。
――また機嫌を損ねたかな。
私はあまり深く気に留めなかった。思えば、そのときすでに様子がおかしいと気付くべきだったのに。
マキは、すぐに怒ったり拗ねたりする。
そこが子供っぽくて、まあ十六なのだから仕方ないと思うが、本人はおおいに反省して落ち込んでしまう。その急落ぶりが、最初可笑しくてたまらなかった。こんなにも人間は感情の振り幅が大きいのだと、初めて知った気分だった。
喜怒哀楽とはよく言うが、あんなに濃厚に詰まっている人間も珍しい。私とは正反対だ。
私は、この容貌とマーレインという力で、この世に生まれ落ちた瞬間から浮いた存在だった。
あまりの奇異な容貌に両親は一時別居し、元々仲の良かった夫婦だからすぐに元に収まってユリアミスが産まれたわけだが、それでも自分が家族に埋められない風穴を開けているのだとは、ずっと感じていた。
マーレインの力を持つ者の常で、私は六才で天都に上がり、魔法士となった。
世界の気を読み、操るのが魔法士。産まれながらに精霊の加護を受けている私にそれは難しいことではなく、すぐに大人たちを追い抜いて魔法士の初級士団たる[無月(むげつ)]へと昇格した。
そんな私にやっかみや僻み、奇異の視線などはついて回るもので、氷のようだと評されることの多い表情や感情の淡さは、それらから身を守るための自身の鎧として生まれたものだった。
それは長い間、私の心までも覆っていたのに。
マキに引きずられるように発露していく、ありのままの感情。機嫌の悪さや怒り、皮肉、笑い。それらすべてを見せても、彼女は受け入れてくれた。何事もないように。
――随分と……いろいろなところを見せてしまったな。
そもそも、私が誰かをあれだけ身近に置いたこと自体、異例なのだ。
人というものに不信感を持つ私は、男性の友人とでも一晩いると苦痛になる。天都での侍従も通常三名以上つくところが、僅か一名という徹底ぶりだ。マキにここまで踏み込ませた自分が、自分自身で一番信じられなかった。たとえ彼女が私以外頼れる者がおらず、寄る辺ない身であるとしても。
だから、その存在がここまで私の心を縛っていたとは、あの時まで気付きもしなかった。マキの姿が会場にないと送心術でレスラーンに告げられた、あの瞬間。あの痛み。
――なにをしているんだ……私は。
飲み物を取りに行ったマキが怯えたように走り出した時、私は声を掛けたが、呼び止めようとはしなかった。なぜ、すぐ連れ戻しにいかなかったのか。悔やまれてならなかった。
――いや、それより……。
傍にいるべきだった。イェドの勇者のように、仕事をすべて放棄して彼女の傍にいるべきだったのだ。それをいろいろなことを口実にして、遠ざけてしまった。
異界の乙女は神官の領域。魔法士が口を出すことではないが、保護した者としてヘクトヴィーンは私にも権限を与えてくれていた。その事実で守っている気になっていたとは言えない。
――腹を立てていたのだ……私は、彼女に。
同じ異界から来たリオコと楽しそうに喋り、泣きだす彼女を抱き締めて守ってやろうとするマキを見た瞬間、なぜだか傍にあったはずの自分の居場所が急に小さくなったような気がしたのだ。
彼女が他人を守ろうとする意識の強い娘だということは、分かっていたのに。
ヘクターのことも父のことも、彼女の怒りの発端は私だった。私にまとわり機嫌を気にし、他人である私の名誉を守ろうと一生懸命になるマキが、たまらなくいじらしくかわいく思えた。それが関心がリオコへと移った途端に、私は彼女を切り捨てた。
マキがいないと知った瞬間、襲ったのはそんな怒涛の後悔。
気がつくと、レスに怒鳴られていた。頭が真っ白になる。探そうとして、基本的な魔法士としての探査すら思いつかない有様だった。印を組もうとすると、指が震えていた。
――情けない……。
マキが命を懸けて水門の鍵を探す旅に出る決意をしたというのに、私は彼女を失うかも知れないという状況で、ただおろおろするばかり。
やっと気がまとまり、彼女の気配を中庭の外れで見つけたときには、二度と離さないと思った。どれだけ彼女が大切か、思い知った気がした。しかし――彼女は無事ではなかった。
若い男に腕を掴まれ、頬に涙の跡。誰に何を言われようと、相手を引き裂かずにはいられない状況だった。
さらに男の顔を見た瞬間、血の昇った頭が一気に冷える。
「ミア=ヴェール・アルマン……」
永久の緑葉と讃えられる瞳が、妖しく笑っていた。
王位継承の確執を逃れて乾都イェドで暮らす、サルディン王の血を最も濃く継ぐと言われる御子。その性格は激しやすく、幼き頃は飼っていたペットの死を哀しむあまり、世話をしていた侍従三名の首を刎ねさせたという、凶王子の呼び名をもつ若者だ。
異界の乙女を連れてきた者に王位を譲るという王の気まぐれな一言を信じ、リオコの後ろ盾としてこの天都にやってきた彼は、もっとも気をつけるべき存在だと忠告されたばかりだというのに。
自分の不甲斐なさに歯軋りをした。それ以上事を荒立てる気はなかったのか、王子はすぐにマキを解放したが、私の怒りは抑えられなかった。
とりあえずその場を離れ、彼女の具合を視る。気はそんなに乱れていない。
彼女は心が強い。何をされても耐えたのだろう。
空素の密度を高めて魔法光を灯し、左腕を診ると、掴まれていた指の痕があった。
――これ以上の傷が他にあったら……。
私は、アルマン王子を刺すかもしれない。一瞬そんな妄想にとりつかれる。
傷を残したくなくて治癒をしようと思ったら、マキが腕を引っ込めた。
『マキ?』
――なぜだ? 恐がっているのか?
傷をなくすくらいでは、彼女の負ったものは消せないのかと思った。
苦しくなり、どうしていいか分からなくて、彼女を抱き締める。君の話す言葉が、これで分かればいいのに。
『すごく心配した……何をされたんだ? 王子は、君に何を……』
想像するだけでおかしくなりそうだ。マキ、なぜここにいるのに遠く感じる?
『君に何かあったら、私は……王子を許さない』
胸に抱かれたまま、マキが泣き出した。
これからすぐ王に会って、アルマン王子の処分を求めようと心が固まる。だが、マキは泣きながら何か言い――笑ってみせた。
心が凍る。
――なぜ笑うんだ、マキ。
君は、辛い時に笑うような子ではなかったはずなのに。
王子が――いや、私がそうさせたのか。
もう何も考えられない。差し出してきたマキの手を無視し、腰を抱き寄せて部屋まで連れて行く。
彼女の心は、どうやっても見えなかった。
…字、多ぃ。すみません…。