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――ここで気を失ったりするもんなんだろうな、普通は。
どう見ても十六年間生きてきた場所とは違うらしいとの認識を高めながら、あたしは思った。
なんだか、驚きすぎて笑えてくる。
「はふぅ……」
溜息ともつかぬ息を洩らすと、金髪の男が顔を覗き込んできた。
『どうした。大丈夫か?』
なんでもないと言いかけて、言葉が通じないのだと思い出す。
首を横に振って問題ないと伝え、落としてしまったショルダーバッグを拾って土を払う。
『とりあえず家の中に入ろう。ここは寒い』
手からというか、心で語りかける彼に頷いて従った。手を握られたまま素直についていく。
ふよ、と光る玉が、あたしたちを追い越して先導した。
――魔法、なのかな。
とすれば、彼は魔法使い。剣を提げているから戦士という単純なものでもないようだ。
――はあ。もうちょっとファンタジー読んどけばよかった。
妙な後悔がよぎる。
冷静に考えて、ここは異世界(さっき彼もそう言っていた)。あたしは一瞬で移動して、帰り方なんて分からない。物語だと、主人公は異世界に行ってすぐに言葉が読めたり書けたり、不思議な力に目覚めたりする。そして、助けてくれる騎士や姫なんかと出会う。
――光とか、出せるの、かなあ?
ぼんやりと、引っぱられる手に視線を落とす。
鼻も頬も耳もかじかんできた中で、そこだけがほのかに温かい。助けてくれる騎士という設定は、ひとつクリアな気がする。
彼に続いてテラスから室内に入りかけたあたしは、落ち着いた臙脂色の絨毯に足を浮かせた。
『どうした?』
「あ、く、靴を……」
もぞもぞと靴を脱ぎかけ、不思議そうな彼の様子に気がつく。
「このままで、いいんです、か?」
『履物を脱ぐ必要はない』
「すみません。お邪魔します」
何かあったらとりあえず謝るなんて、日本人の悪い癖だ。
ぎこちなく運動靴で絨毯の上を歩く。ふこふこして妙な気分だ。
光の玉が大きな蛍みたいに泳ぎ飛んで、壁のひとつに止まった。と、電源が入ったように室内がさらに光に溢れる。
「うわ……」
みっしりと草花模様が浮き彫りにされた壁紙が四方を埋め尽くし、高い天井の中央にきらきらと光る硝子片が房状に垂れ下がる。金ぴかの額縁の絵画に華やかな装飾の家具と調度品。
――これ……家っていうより、屋敷っていうんじゃないのかな。
そんなことを考えていると、別の人が部屋にやってきた。
白髪を低めのシニョンにまとめた老婦人だ。足先を隠すロングスカートにエプロン。優しそうな丸顔にどことなく不安の色を浮かべて、彼とあたしを見ている。
――お母さん、かな。
「アルノ」
その人に呼びかけ、彼は手を離した。歩み寄り、なんだか言い聞かせるように彼女と数言会話して何かを受け取り、またこちらに戻ってくる。
再び手が差し出された。反射的にそれを握ったあたしの手の中に、固いものが転がってくる。
指環だ。
『なにこれ……?』
『魔法話の指環だ。これで君と会話ができる』
平然と、だが口頭で告げられる内容に理解の速度が追いつかない。
確かに喋っている言葉が、さっき頭の中で響いた声と似たような感覚で脳内変換されて聞こえた。それでも、聞こえたところで状況はさっぱり分からない。
『ごめんなさい、意味分かりません。これ、どうなってるんですか?』
『その指環には魔法が籠められている。正確には嵌まっているその石に、だが。
古くから我が家に伝わる魔法の指環で、大賢者ソロンが創ったとされる。その魔法が君の魔法力を助け、意思の疎通を可能にしている』
あたしは後悔した。
異世界の法則、しかも平然と光が空を飛ぶような魔法の世界の仕組みを聞いたところで、理解できるはずもない。
紅い宝石のついた指環を手の中でぎこちなく転がす。ふいに彼の手がさっと動いて指環を取りあげ、あたしの右の中指にぎゅっと押し込んだ。
『ああああたしの指、太いからっ。無理やり入れたら外れなくなっちゃうっ!』
彼がくす、と笑う。目尻に笑い皺。若いが、二十歳は超えて見える。
外国人の年は分からないが――異世界の人の年齢など、もっと分からないが。
『君の名は?』
『あ、朝野真紀です』
『あさのまき?』
『あさの、が家族の名前。まき、が自分の名前』
咄嗟に苗字という日本語が出てこない。彼は、マキ、とあたしの名前を呟いた。
『私はルイセリオ。ルイセリオ・セイアン・カーヅォ=アクィナシアだ』
『るいせる……?』
早口で聞き取りが追いつかない。彼はもう一度ゆっくりと名乗り、
『ルイス、と呼んでくれ。親しい者はそう呼ぶ』
『ルイス、さん?』
『〝さん〟っていうのはいらないな。マキ』
呼び捨てが普通なのかもしれない。お国柄はそれぞれだから、黙って頷いた。
『マキ。彼女はアルノだ』
離れたところで見守っていた老婦人を紹介する。あたしはできるだけ丁寧に頭を下げた。
『初めまして、マキです。すみません、突然お邪魔してしまって』
『いいえ。どうぞごゆっくりなさってくださいまし』
戸惑った表情ながら、アルノはやわらかく微笑んで会釈を返す。
『彼女は私の世話をしてくれている。君も安心して任せるといい』
『あの……ルイス』
初対面の人を〝さん〟付けをしない心地悪さをこらえ、尋ねた。
『すいません、まだよく分かっていなくて……。ここは、魔法ランドなんですよね?』
『〝魔法王国〟か。そうとも言えるが、君は面白いことを言うんだな』
――そう言ったのはそっちのくせに。
むっとなるあたしの心中など知るわけもなく、変わらぬ穏やかな調子でルイスが教える。
『ここはマフォーランド王国の西部、山都アクィナスだ』
『山都(さんと)……』
『山に囲まれた都市という意味だ』
それは分かる。意味が漢字表記される感じで、感覚的に聞こえてくるから。
問題はそれが、あたしのいた世界とどう関連するのかということ。
『あたしは地球という星の中の日本という国の広島から来たんですけど、知ってますか?』
『いや』
やっぱり。
あたしはショルダーバッグから、教科書を引っ張り出した。世界史の本をめくり、両開きの世界地図をルイスの顔の前で広げる。
『本当は丸いんだけど、平面にすると地球はこんな感じで……これがアメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、ユーラシア大陸。で、この島が日本』
『随分と小さい国だ』
余計なお世話だ。
『私の世界の地図を見せよう』
ルイスが手招く。
教科書をしまい、傍らで見守るアルノさんの前を通り過ぎて、やや小さい書斎っぽい部屋に入った。ルイスが壁にかかった図を指差す。
『これが世界地図。この大地の大半を治めるのが、マフォーランドだ』
羊皮紙のような厚みのある紙に、インクで描かれた地図。あたしの胸がきり、と痛んだ。
マンゴーのような形をしている上下に伸びた大地。
下の方にはたくさんの小島が固まっているけど、その他に大陸は描かれていない。探していないのか、それとも――。
傍らのローテーブルに、丸い球が台座に支えられて載っている。
『それは星球儀。この星、テーエを模した模型だよ』
あたしは固く目を閉じた。ここは決して地球などではない。そのことがはっきりと身に染みて分かった。