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何も考えられなかった。ただ逃げたくて逃げたくて――あたしは、絡むドレスを振り払うようにしてその場を走り抜けた。
ホールから出る間際、誰かの呼ぶ声が聞こえた気がしたけど、たぶん気のせい。あの中であたしがいなくなったのなんて、きっと誰も気がつかない。
――理緒子とタク、置いてきちゃった……。
だけど、もうあの洪水の中に戻る気はなかった。勝手だけど、迷子になってるとでも思ってもらおう、そう思った。
闇雲に角を曲がり、人の少ないほうを選んでいくと、庭に面した回廊に突き当たる。そろそろハイヒールに当たる踵が痛みはじめ、あたしは足を止めた。かすかに吹き込む風が、頬にひやりとした感覚を呼ぶ。
いつの間にか泣いていた。ぐいと頬を拳で拭うと、し慣れない化粧が剥がれる。
汚い。醜い。あたしの心と同じだ。
持って来てしまったグラスに口をつける。
――……苦い。
お酒だ。外の廊下に出て、草の陰に吐き捨てる。ついでにグラスの中身を全部空けた。
夜気が冷たい。外は星が出ていたけど、お城から溢れる光でそこまできれいな空ではなかった。草陰には、あたしと同じく夜宴を抜け出したらしい男女が数組。他人の睦言を聞く趣味はないし、聞いても分からないから、あたしは空のグラスを持ったまま、適当に灯りの燈らない薄暗い廊下を歩いた。
人気のない、きれいなポーチに出る。少しやせた白月が明るくそこを照らしていて、あたしは手すりの陰に座り込んだ。ドレスが汚れるけど、どうせ捨てられる運命だ。しっかり汚しても、たぶん罰は当たらないだろう。
グラスを床に置き、両腕に膝を抱えた。虫の声が聞こえる。風が通って、むき出しの腕は少し寒いけど、それくらいが丁度いいような気がした。頭を振ると、フェイオウが一輪ぽとりと落ちた。
人ごみを抜けたから、あたし今きっとひどい格好してる。
あたしは髪から花を振り払い、指を通していつもの頭に戻した。散ってしまった赤い花。あたしには最初から似合わなかったんだ。
――ごめんね、こんなところで枯らしてしまって。
ちょっと可哀相になって、落ちた花を拾いあげる。ぽとり、と涙が手に落ちた。ああ、もうなんで泣くんだ、あたし。泣く資格なんてないのに。
――帰んなきゃ、部屋に。
どうせ帰るところは他にないのだ。帰って――水門の鍵を探しに行く支度をしないと。
頭では思うけど、現実は真っ白で何も思い浮かばない。旅の支度って? 何を揃えるの? どうやって行くの? また、ルイスに頼るの?
――もうやだ……一人じゃ何にもできない、あたし。
当たり前だけど、それが頭で分かっても、きちんと意味が呑み込めていなかった。
人は一人じゃ生きていけないとか、独りじゃないとか、繋がってるとか。
きれいな言葉だけど、実際は自分が馬鹿で子供で未熟でどうしようもないって認めるところからじゃないと始まらない。あたしはやっと、ようやくそのことに気がついた。
――今からみんなに頭下げて、ごめんなさいって言おうかな。
言えるのかな。
そんなことを考えていたあたしの前に、誰かが現われた。すらりとした影に長い髪。
月の光を浴びた眼差しが、鋭いグリーンの光を弾いた。
――誰……?
まだ若い男は、あたしを見てにやりと笑い、何か話しかけた。意味は分からない。人をどこか小馬鹿にしたような口ぶり。厭な感じだ。少なくとも、あたしに好感はもっていない。
立ち上がったあたしの腕を、ふいに片手を伸ばして彼が掴んだ。
「何するの……っ!」
『おまえ、もうひとりの渡り人だな』
頭の中で響く声。久しぶりの感覚に、恐怖を感じる。
『私が連れてきた娘を異界の乙女と宣言してくれて、感謝しているぞ』
くくっと笑う。感謝なんてしているようにはない。愉しんでいる、そんな気がした。
――この人は、人の恐怖を愉しんでる。
思った瞬間、猛烈に腹が立ってきた。
なぜあたしは、この人にいたぶられなければならないのだろう。
『もうしばらくいい子でいておけ。そうすれば、命だけは助けてやる』
何を言っているの? 分からない。
『おまえを聖地には行かせない。水門の鍵を手にするのは……ひとりだけだ。あの女が、この私に王冠を授ける』
どきっとした。
言っている意味はいまだによく分からないけど、ひとつだけはっきりしたことがある。この人は、あたしも理緒子も物のように思ってるってこと。
――ふざけんなよ。
心に怒りの灯が点る。
浅慮はしない。ついさっきそう決めたはずなのに、あたしの心は急速に怒りモードを突き進んだ。どうせ言葉など分からないのだ。
「あんた、いい加減にしなさいよね。人のことなんだと思ってるの?」
『おまえ、なにを言っている?』
「ふざけるのも大概にしろって言ってんのよ。悪いけど、世の中がみんなあんたの言いなりになるとでも思ったら大間違いよ。ざけんじゃないよ」
怒っているというのは、口調だけでも分かるらしい。
あたしの腕を掴んだまま、男の目が丸くなった。
「あんた王子? そうよね? 偉そうだし、他人のことこれっぽっちも考えてなさそうだもんね。あの王様そっくりよ!
理緒子の後見人か何のつもりか知らんけど、なんなん王冠て。自力で王様になろうっていう気はないわけ? そんな根性のないやつに、誰が王冠なんかやるかいうんよ!」
断っておくが、これは序の口だ。あたしとしてはものすごく抑えてる。だってまだ方言あんまり出てないもん。
『何を言っているんだ、さっぱり分からんぞ。奇怪な言葉だ』
ぷちん、キレたぞ。
「誰も分かれ言うとらんのよ。黙って聞きぃや」
王子黙る。広島弁効果?
「ええかげんにしぃ言いよるんよ。あんたね、そんな態度でおったら、ほんまに人に嫌われるよ? ええん、それで」
王子がうつむく。ひょっとして通じちゃった? ある意味まずいんだけど。
「あんたまだいくつよ? あたしとそんな変わらんのんと違うん? だったら、もうちょっと態度変えてみんさいよ。このまんまじゃったら、あんた、ほんまどうもならんよ?」
ますますうなだれる王子。ひょっとして、叱ってくれる人とかあんまりいなかったのかな。
少し可哀相になる。ルイスのところみたいに、身分ある人の家庭環境って、あたしの想像を軽く超えた複雑怪奇な関係が錯綜している感じだ。その中で、まっすぐに育つ確率は限りなくゼロに近いんじゃないだろうか。
あたしは左手首を掴まれたまま、王子の頭に右手を伸ばした。身長がそんなに違わないから、うつむかれると目の前なんだ。
さらさらの黒髪に指が触れた途端、彼がびくっとした。その瞬間、あたしは悟った。
――彼自身が一番ぴりぴりしてるんだ。
たぶん、さっきの棘々していたあたしと同じ。心の中のトゲトゲが声にも顔にも態度にも出て、それが余計に自分を苦しめていて。
「……あのさ、あたしが言える立場じゃないけどさ。あたし、あんたそんなに悪い子じゃないと思うんよね。たぶん、自分が自分を一番嫌いなんじゃないん?」
おそらく正解。
ああこいつ、あたしとそっくりだ。かわいげのないところが。
「あたしも今、自分が一番嫌いよ。けどさ、自分からは逃げられんのよ」
月を見る。そして、足元の影を見る。
これがあたし。逃げても逃げてもついてくる、黒いやつ。
一生付きまとわれる。生きているから。ここに居るから。ここに居ることを選んでしまったから。
「あんたがあたしを嫌うのを止めようとは思わんよ。むしろうちらの周りを傷つけたら、そっちのほうがよっぽどキレるわ。けど、あたし――あんたを嫌いにはなれんと思う。あたしも一緒じゃけ。嫌なやつじゃもん」
――ごめん。あたしひょっとしたら、あんたを気持ちの捌け口(はけぐち)にしたかも分からんわ。
心の中でそう謝って、あたしはもう一度彼の髪にそっと手を触れた。その手を彼が払いのけ、そのまま軽く捕らえる。あたしははっと身を引いた。
緑の瞳が微笑みかける。さっきとは違う、邪気のない笑い方だ。
『おまえはまるで、野生のミヤウのようだな』
ミヤウ? 動物かな、なんて考えてると、あたしの耳に聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「マキ!」
純白と金の正装に身を包んだ、背の高い人影。宝飾品よりも輝く黄金の長髪が、蒼い闇にひらめいている。
――あれ、ルイスだ。なんでここに居るんだろう。パーティにいなくて大丈夫なのかな?
振り向いてそう思ったあたしは、目が合った瞬間、彼の顔が凍りつくのを見た。
「ミア=ヴェール・アルマン……」
「アクィナス」
にやり、と王子は、最初と同じ不敵な笑顔をルイスに向けた。二人の間の妙に緊迫した空気を感じ、あたしは鈍い頭でこの状況を再確認してみた。
足元にお酒の空グラスが二つ。あたしは明らかに泣いた後で、髪のセットは乱れ、花は床に。痛いくらいに左手首を掴まれてしばらくで、今は右手も取られている。これは普通に見て、
――どう考えても、王子に襲われた、の図だよね?
実際は逆だ。主導権を握っていたのはあたし。ずっと怒ってた。
まあ相手は王子だし、ルイスも大騒ぎはしないだろうと思って、あたしはおずおずと声をかけた。
「ルイス……?」
「ヴェニアス、マキ」
なんだろう、行けって言われてるんだろうか。
あたしがどうしたらいいか分からないでいると、王子がふっと息をついて手を離し、ルイスのほうに軽く押しやった。
勢いがついて彼の傍まで来ると、ルイスがいきなりすごい力であたしを引き寄せる。
強張った顔。すごく、恐い。
「アディウィ プリンセ」
ルイスはあたしを左腕に抱いたまま軽く頭を下げ、それでも王子を睨むようにして、そこから立ち去った。
広島弁訳つけませんでしたが、だいたい分かりますかね…?