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ぎこちない。鏡の暗さが、そのまま空気にまで滲み出てきたようだ。
口を開くと、言葉の前に溜息がこぼれる。
『……ごめんなさい、ルイス。ぶち壊しだね、あたしのせいで』
『気にするな』
ふっと顔を上げて、ルイスがあたしを見る。青い目が笑っていた。
『君は……気が強いんだな。驚いたよ』
ああぁ。今はこのやさしさが逆にイタイです。ほんと、ごめん。ルイス、ごめんね。
『大神官ヘクトヴィーンも形無しだな。彼にあれほど言う者も滅多にいない』
『ひょっとして、上司、とかだった?』
『あー……直属の、というわけではないが、身分は上だよ。クガイだからな』
『クガイ?』
『上位貴族だ。カーヅォの中でも位が高い』
うう゛最悪。やっちまったよぉ。
『そのうえ彼はカヌシェの一族。太陽神系一門の宗家だ。普通だったら……』
妙な間をおいて、にやりとルイスが笑う。
『だった、ら?』
『即刻鞭打ち牢獄行き。私であれば首が飛ぶ』
『クビ?』
『文字通り、だ』
手刀で自分の後ろ首を叩く。打ち首獄門、なんていう時代劇用語が頭をよぎった。
『うそお???』
『絶対身分制だからな』
『うええぇ~っ。まじ? うそ、どうしようルイス。やばいよね? あたし天都に着いたら、即行牢屋行きになるのかな? 絶対無事じゃないよね?』
捕まって牢屋に入れられて、鞭でびしばし叩かれて最後に首をちょきんっと、あたしの暗い妄想はジェットコースター並みに走り出す。
なのにルイスは横を向いて――ぷっと噴き出した。
『……るいす?』
『いや、すまない。君があんまり動揺してるから、つい……』
――つい……? 冗談で乙女心をからかっちゃ困るんだよ、君ぃっ!
わなわなと拳を握る。心の中は大噴火だ。
そんなあたしの心中も知らず、ルイスは顔を真っ赤にして笑っている。笑い転げている。
『おもしろいな、君は』
『……オモシロガラナイデクダサイ』
『いや。ヘクターにあんな口を利いたのに、随分と動揺するんだと思って』
『それとこれとは別です』
『本当に斬首になったら、どうする気だったんだ?』
『ええええっ!』
『だから、冗談だよ』
どっちなんだよ。
天国と地獄のジェットコースターをたっぷり三周ぐらいした気分になって、あたしはちょっとぐれた。というか、疲れた。
近くにあった椅子を引き寄せて座る。はあ、とまた溜息。肘掛に左肘をつき頭を支えて、まだ笑っているルイスを見る。少年みたいに、笑い涙を親指で拭っていた。
『……怒んないの、ルイス?』
『うん?』
『だってその前は、あの人に一生懸命あたしを天都に連れて行かないように言ってたじゃない。なのに、ぶち壊しちゃったんだよ? 怒んないの?』
今この場に敬語がそぐわない気がして、タメ口で喋る。
ルイスはまだ唇の端に笑いの余韻を残したまま、乱れた金髪に軽く指を通して、あたしの前に立った。
握っていたあたしの右手から紅い指環を取りあげ、中指に嵌める。最初のときのように。
『マキが行くと決めたのなら、それでいい』
『でも……』
『マキ。水門の乙女は伝説だ。信じない者も多い。王もその一人だ』
『え……?』
驚くあたしの横に、ルイスは腰を下ろした。もともと深く座ってなかったから半分以上空いていたけれど、それでも彼に椅子は狭い。あたしにも。
異界の男性と椅子を半ケツした状態で、あたしは彼の話を聞いた。
『この世界は乾いてきていると言っただろう? 百五十年前の大旱魃の後、しばらくはこの国も潤っていた。だが、また徐々に雨が減りはじめ、ここ数年は特に厳しい日照りで何万もの人が亡くなった。
そこで王は、時が満ちる前に異界の乙女を呼び寄せ、水門を開けようとした。しかし……どうやっても叶わなかった』
日に焼けたブロンズ色のルイスの横顔。
――きっと、元は色白なんだろうな。
聞きながら、あたしはそんなことを思っていた。
『水門は大陸の南、タキ=アマグフォーラに眠ると言われる』
『場所、分かってるんだ』
『ソロンの書に残されている。アマグフォーラは、もともと神が降り立った神聖な場所。神が人を創り出したと言われる聖地だ。ソロンはそこで、始祖神イシェンナとイシュナムに祈った。そして水門が現われたんだ』
『あらわれた?』
日焼けした顔が、くしゃりと歪む。苦笑いだ。
『それが一体どういう状態かは分からない。アマグフォーラに近付くことはできても、誰一人として入ることはできなかった――どんな優れた魔法士でさえ』
『異界の扉は? 開けられたの?』
『いや。文字通り世界中を探したが、異界への扉は見つからない。記録が残っていないと言っただろう? 最初の聖女が現われた場所を調べたくても、君がさっき言ったように、私の先祖に出会ったことは確からしいが、それ以上のことは不明だ。突然現われ、突然去っていった。まさに魔法だ』
ぽんっと詰めた指先をおどけて開く。
魔法。
ルイスがしてみせた飛ぶ光や鏡電話は、実はあたしの思う魔法とは違う次元のものなのか。
――あたしの世界も、知らない人が見たら魔法の世界かもしれないんだよね。
理屈の分からないことを軽々しくただ〝魔法〟という言葉に押し込めて安堵していた自分が、少し恥ずかしくなった。
『だけどルイス。あたし、魔法使えないよ? いいの?』
『マキ……』
『あたし、不思議な力なんて何もないよ? あたしが何かして異界から来たんじゃないし……正直ただの偶然だと思うし。ひょっとしたらほんとに――』
ニセモノかもしれない。
その言葉は言えなかった。だけど、たぶんルイスには伝わった。ちょっと哀しそうな顔をしたから。
『そしたら、ルイス困るよね。どうしよう。それだけの人がやってダメだったのに、あたしがそこへ行って何もできなかったら、どうすればいいんだろう?』
『マキ』
横向きのまま、ルイスがあたしの右手に左手を重ねた。男らしい、大きな手。あったかい。
『君は今朝言った。ここに来たのは何かをするためだと。私もそう思う。この指環も――』
手を重ねたまま、紅い指環を指先でそっと撫でる。
『私は魔法士だ。光を読み、風を視て、気を紡ぐ……常人には感じられない細かな自然の動きや流れをよい方向に変えるのが私の役目だ。だが、この渇きはどうすることもできない。
みんな必死だ。神官たちは知恵を絞り、役人は資金を切り詰めて治水整備し、騎士は剣を置いて、新たな水源を探すために危険な土地を拓いている。ヘクターなどは、ソロンの書を読みすぎて丸暗記だ』
最後に出た気難しげな男の名に、あたしは少し笑った。
『水門の乙女は、夢だ。砂漠で見る蜃気楼のように、追えば消える。いつしかそう思う者が信じる者の数を超えていた。意見を同じくする者が増えると、極論を言うものも出始める。異界の乙女は、でっちあげだと』
『……そんな』
『君が天都に行けば、少なからずそういった意見を持つ者の目に晒される。好奇の目にも。私は、それを恐れた』
その非難はきっと、聖女を知る数少ない人を先祖にもつ彼にも及んでいるのだろう。以前から――今も。
『ルイスのご先祖のことは、なんて言われてるの?』
『嘘つき。虚言。妄想。だけど、何を言われても言い返しようがないよ。証拠はこの指環だけだ。それなのに……親たちは乙女を妄信していた。非難などまったく耳に入らない様子で、先祖こそがすべてといわんばかりだ』
親との亀裂も入るはずだ。ルイスはあたしの手を、きゅっと握った。
『私は何とか手がかりにならないかと、この指環を家から持ち出し、調べるためにいつも持ち歩いていた。そしてやっと――役に立つ時が来た』
紅い石を支える、鈍い金属の光。この光沢は大切に磨かれていたのではなく、百五十年分の焦がれた想い。夢の乙女への。
――やっぱダメだ。
あたしはそんな期待されるような子にはなれない。
ルイスの右手が、あたしの左頬を包んだ。
『泣くな、マキ。指環は古くさいが、悪いものじゃない。よく似合ってる』
下手なごまかし。それはあたしを古くさいと言っているのと同じだと気付けよ、鈍感。
だけど――涙をぎりぎり目の端で止まらせるのは、成功したみたい。
頷いて彼を見上げた。瞬きをすると涙が落ちそうで、我慢する。だめだ。落ちる。
『――』
目から雫が離れたと同時に、ルイスの親指が受け止めた。
ナイスキャッチ。心の中で拍手喝采だ。
ルイスはそれをやさしく横へすべらせて払い、微笑んだ。
『君はまったく忙しいな。怒ったかと思えばうろたえたり、拗ねたと思えば泣いたり』
『……子どもだと思ってるんでしょ』
『うん。あー……いいや、かな?』
だからどっちだ。
『おもしろいとは思ってる』
まあそれはどうもステキな評価をありがとう。
また笑ってるし。あたしは悔しくて恥ずかしくて、見られないように顔を横に向けた。我ながら、ほんとに子ども。ただの駄々っ子だ。
『……ねえ。ルイス、さ。天都、一緒に行ってくれる?』
『ああ、いいよ』
『行ってさ、一緒にヘクターさんに怒られてくれる?』
『……それはどうかな』
『怒られてよね?』
『まあ考えておく』
『悩んでいるうちに引きずり込むから』
『ひどいな』
ルイスが笑う。あたしも笑った。肩と肩がくっついて、笑いの振動が二倍になる。嬉しさも二倍。優しさも二倍。あったかさも二倍。
ありがと、という気持ちを籠めて、彼の肩先にことんと頭を預けた。
彼と一緒なら、天都の意地悪神官も怖くない。たぶん、きっと。
信じられていなかった奇跡のひとつが、だって確かにここにあるから。
ルイスの手に包まれたまま、あたしは紅い指環を嵌めた手を、そっと閉じた。
真紀ターンいったん終了。理緒子に戻ります。(時間はそのまま進みます)