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2.和紗と扉
それからわたしは、彼――朝野光樹から異世界マフォーランドについての話を聞いた。
本当は彼は、わたしの家にあるという異界の扉を閉じたら、さっさと帰るつもりだったらしい。それがわたしの好奇心が勝ったというか、幼い頃から呪いのように家に燻っていた従姉の失踪という事件が解決されるかもしれないという期待に、わたしのほうから強引にあらいざらい聞き出したのだ。
異世界のこと。伝説のこと。聖地のこと。入り乱れた過去と未来のこと。
ついでに今日ここに来る前に、近所の喫茶店で聞き込みをしてきたことも。
正直――信じる信じないを語るに値しないレベルだった。厨二病的な稚拙なストーリ構成。話す男がまあまあなだけに、まったくもって残念な感じだ。
「ようは、うちの従姉は真っ裸で王様の上に落ちて、お妃様になって亡くなりはった。それが向こう時間で百五十年前。あんたの妹さんはこの秋にいなくなって、先週の年末に帰ってきはったけど、彼氏と一緒に向こうに戻りはった。これで合うてる?」
「別に信じてくれんでもいいんよ? わしは扉閉じて、王様の言付けものを届ければいいんじゃけぇ」
「信じへんとは言うてません。確認しただけです」
「……素直じゃないのう」
「だいたいな、十七の妹さんを送り返したかて、おかしぃやろ? 高校生よ? 大学生なら分かるけど、高校生一人を知らん場所に行かせるなんて考えられへんわ」
「それはあんたの口を出す話じゃない」
きっぱり言い、彼は深い息をついて無造作に整えた髪に指を通した。
「従姉さんのことは残念に思うけどが、正直わしには責任はない。とるゆうてとれるもんでもないしな? とりあえず、これでだいたいのことは話したわ。あとは好きにせぇ」
言付けものだという紙袋を置いたまま、止める隙も見せずさっと立ち上がる。
「ほいじゃ、お邪魔しました」
一礼して振り返りもせず出て行く彼に、なぜか敗北感ともやもやした気持ちが湧き起こる。が、口にすることはできなかった。
――なんやの好き勝手言って……けど、連絡先くらい聞いておくべきやったかな。
少々後悔したが、その感情こそわたしに盛大な後悔をもたらすものとなった。
なぜならその後、実は地元の他大学に通っていた彼とコンパで再会し、それがきっかけで連絡先を交換して残り三つの異界の扉探しに付き合う羽目になったり、そのままなりゆきで深い交際をいたしてしまったりと、冗談のような展開が芋づる式に待ち構えていたからだ。
まあ、そういった紆余曲折がありながら、あっという間に十年が流れたりするわけだ。
おかげさまで妙なご縁のできた朝野光樹とは、ご両親にも顔の知れた仲になった。
お互い三十前なのでそろそろと思うのだが、口が悪いのと素直じゃないのの組み合わせなのだから、話が進展するはずもない。彼は昨年物理学の博士課程を無事修了して関東で就職、こちらは地元の雑誌社ですっかりお局状態だ。
今日こそはと思えば、横浜の中華街でいい雰囲気のお昼を食べたあと、たいして観光をするわけでもなくぶらぶらして電車を乗り継ぎ、見知らぬ街に連れて来られた。その理由も、ずっと持ち歩いていた重そうな手提げ袋の中身も説明はなしだ。
――ほんま腹立つ男やわ。なんで来てしまったんやろ?
十月とはいえ、日が傾きはじめると寒い。吹き過ぎる風に身を震わせて両腕を抱き込めば、見ていたように彼がまたこちらを向いた。
「着ときんさい」
抜けない方言で呼びかけ、自分の厚手ミリタリージャケットを放って寄越す。
「そろそろなんじゃけど、冷えたらいけんし。案外時間がかかるかもしれんけぇ」
「そろそろってなんのこと? いい加減――」
訳くらい話してくれても、と言おうとして、彼がはっと表情を変えたのに驚いた。視線の先の薄闇で、ピンクのマフラーを巻いた高校生らしい少女が一本向こうの路地に消えていく。
「和紗はそこに居れ!」
叫んで彼が走り出す。だがいくら慎み深い京女でも、こんなときにじっとしているなんてできない。
借りたジャケットを着込み、転ばないように気をつけながら走って後を追った。ほんの数メートル先の角を右折する。
そこへちょうどさっきの女子高生が、足早にこちらの道に向きを変える――彼女にとっては左折する――ところと出くわした。
刹那、見覚えのある真っ白な光がその場を包む。思わず足を止めた。光樹が怒鳴りながら、路地角にいる誰かに走り寄る。
「だめです、高遠さんっ! 今ここでそれを使ったら、娘さんはどこに行くか分からんようなる。娘さんの運命を変えてもいいんですか!!」
真っ白な光の中で、ふわりと浮いたように見えた少女の姿が、数秒後かき消えた。
「――いやあああぁっ!」
女性の慟哭と同時に、光を発する玉が宙に放り出され、虚空に呑まれる。その光景をわたしはこれまで三度、いや四度見ていた。
次元迷彩付き超低周波電磁界発生装置(ELFFG-DC)の発動。異界の扉が閉じられたのだ。
路地壁にすがり抱き合って泣きくずれる夫婦が、光の中に消えた子の親なのだろうとは、すぐに察した。そして、消えていった子が〝高遠理緒子〟という名で、光樹の妹の真紀とこれから異世界で出会う少女なのだということも。
深まる黄昏に止まらない嗚咽が沁みていく。彼らに茫然と視線を向ける男に、背後から近づいた。
「光樹」
「……和紗。なんであの子が行くのを止めんかったんかゆうて、怒ってもええで」
自嘲なのか口の端が歪む。首を振り、そっとその広い背中に腕を回した。
「怒らへんよ。光樹ならこうする思うてたわ。生粋のシスコンやもん」
「シスコン違うわ。でもな……わしも正直、まだ迷うちょる。ほんまにこれが正しかったんか、わしにはどうしても分からん」
「正しいよ。未来の理緒子ちゃんは幸せなんやろ? ええやん、それで」
「そうじゃな……」
光樹はやさしくわたしの腕を解き、「ちょっと行ってくるわ」と高遠夫妻の元に歩いていった。気づいた二人がわずかに顔を上げる。
「お邪魔してすみません。ぼくは真紀の兄で、朝野光樹といいます。今日はお二人にお話があってきました」
「……はい」
「けど、正直ぼくは説明が苦手で。ちょっと他の人に手伝ってもらおうと思うとるんです」
そう告げ、彼はズボンのポケットから小さな何かを取り出した――銀色に光る玉。
もうすでに全部使い切ってしまったはずの未来の機械を起動して検索画面を呼び出す。おもむろに中空に手を伸ばし、時空の隙間に隠された不可視のそれを掴んで上下を捻れば、彼の手の中の玉は二つに増えた。
「これでよしと。……奥さんはお会いしたことがあるでしょうが、うちの妹はちょっと頑固で、言い出したら聞かんのですよ。ほんまは因果を乱すからやめておけと、ぼくは止めたんですがね――」
独り言のような言葉が続くうち、淡い蒼の宵闇にきらりと金色の粒が舞った気がした。それがひとつふたつ増えて、急激に下から上へと吹き上げる洪水となった、次の瞬間。
その場には別の人物が立っていた。一人ではない。目を惹くのは背の高い、光樹よりもはるかに体格のいい浅黒い肌、黒髪の男性だ。まるで映画のような飾りのついた軍服にマントを着ている。
その彼に包み込まれるようにして寄り添うのは、白いワンピースドレスを着た華奢な女性だ。さらにその腕には二、三歳と思われる幼児が抱かれ、五歳くらいの男の子と十歳くらいの女の子が大きな砂時計を挟むように持って、残りの手で男女の手をそれぞれぎゅっと握っている。
ワンピースの女性が泣き笑いの表情で、うずくまる夫妻に呼びかけた。
「――パパ、ママ。ただいま帰りました……!」
「理……緒子……?」
たった今異世界に送り出したばかりと思った娘が、明らかに年をとり、さらに家族を連れて現われたという状況に、高遠夫妻はもう恐慌状態だ。光樹が如才なく仕切る。
「高遠さん。いきなりのことで驚かれたでしょうけど、彼女は本当に本物の本人なんです。手を握ってみてあげてください」
女性から差し伸べられた手に恐る恐る触れ、ご主人が大きく何度か頷いた。その頬を濡らす涙が、もう哀しみに満たされていないことをわたしは傍らから願った。
「詳しいことはぼくから話すより、直接娘さんたちから聞かれたほうがいいでしょう。とりあえず、お家に戻られてみたらどうですか? 時間なら、まだありますし」
「は、はい」
娘夫婦にも促され、高遠夫妻が立ち上がる。ちびっ子たちがもの珍しそうに跳ね回り、聞き覚えのない外国語と日本語の交じり合う会話が聞こえる中、若夫婦が丁寧に光樹とわたしに頭を下げた。
「すみません、お世話になりました」
「いいえ。どうぞゆっくりされてください」
頭を下げ返すと、何度も会釈しつつ両親を間に支えるようにして、彼らはわたしたちが来たほうの道に歩いていった。それを見送り、
「……どないなってるん?」
戻ってきた彼に訊けば、寒いのか気まずいのか、居心地悪そうに肩をすくめた。
「見ての通りよ。向こうでは、もう十三年経ってしもうとるんじゃけどな。会えんより会ったほうがええゆうて、真紀に押し切られたんよ。砂時計が落ちきるまでじゃけぇ、三日くらいのことじゃけどな」
「扉、閉めにきたんじゃないの?」
「閉めるで? まあでも三日くらいはええじゃろ」
手の中で、彼が〝エルフ玉〟と呼ぶ二つの銀色のボールを転がす。
「実は十年前真紀が来たとき、こっちの扉は開けられんかったらしいんよ。たぶんさっき見たとおり、高遠さんがエルフ玉ぶつけて扉を閉じちゃったんじゃと思うわ。けど、そうすると理緒子ちゃんは、ずっとこっちに来れんけんな」
「それで開けにきたん? わざわざ?」
軽く睨んで尋ねれば、またも肩をすくめて無言の肯定が示された。もうひとつ気になったことを問いかける。
「なんでエルフ玉、もう一個あるの? まさか光樹んとこの扉、まだ閉じてへんとか?」
「やあやあ、和紗さん。そう怒らんと」
「怒ってるん違います、呆れてるんですっ。なにが因果律が乱れる、よ。自分とこだけ扉開けて、ずっと連絡とってたんやろ? このシスコン!」
「だからシスコン違う言うとるじゃないか。連絡とっとったのは事実じゃけど、ほとんどうちの親とじゃし」
重そうな手提げ袋を肩に担ぎ直す。
「高遠さんとこにも、あとで十三年分届けんとな」
「そっちで一緒に受け取ってはったんや?」
「ああ、母さんのいい文通相手じゃわ」
世話好きのおっとりした光樹の母を思い出し、なるほどと納得する。彼女なら誰とでも仲良くなりそうだ。
星の輝きが増してきた空の下をそぞろ歩く家族の後ろ姿を眺めつつ、光樹がつぶやく。
「とりあえず明日じゃな。わしらも今日は帰ろうで」
「わしら、てどういうこと?」
「明日休みとっとるんじゃろ?」
ここで頷いたら負けな気がする。負けな気がするが――頭を振り下げ、頭突きするふりをして腕に抱きついた。
「……ベイブリッジ見えるとこがいい」
「あのな和紗。ドクター出立ての初任給の低さをなめんな? もう給与明細改竄したくなるけんね」
「明細変えても振込み額変わらへんかったら意味ないやろ。もう、あほ光樹」
――べつにベイブリッジが見たいわけじゃないゆうの。気付け、どあほ。
視線の先で淡い宵闇の藍と残照のオレンジが交じりあい、その中を邂逅を果たした家族がこちらに再び頭を下げ、家の中に入っていくのが見えた。影絵になった家にやわらかな光が灯る。
「ベイブリッジは見えんけど未来への架け橋は見えたとか、どう?」
「へたくそ」
「わりとええこと言うたと思うんじゃけどな。……なあ、和紗さんや」
左腕にからみついているわたしの手をとり、ぎゅっと腰を抱く。
「家族って、ええ思わん?」
「……ええと、思う、けど」
「けど、なんよ?」
覗きこむ顔の表情ははっきり見えない。それでも切れ長の目にふざけた色はなかった。息が止まりそうになり、慌てて視線を逸らす。
「もう寒いし、早う家いこ」
「……はいはい」
手を引っ張れば、軽く息を吐いて彼がついて来る。寒いからと繋いだ手が、借りたジャケットのポケットにつっこまれた。
「連絡とっとったこと、黙っとってすまんかった。けど、未来のことに和紗を巻き込むのは嫌じゃったけえ」
「だいぶ前から巻き込まれてるやん」
「扉閉じるのとは訳が違うわ。……でもまあ、これで隠し事はほとんどのうなったわ」
「ほとんど?」
ちらと隣を睨めば、前を向いたままポケットの中の手だけが握り直された。
「実はわし、母校の大学に帰ることにしたんよ。任期付きじゃけどな」
「母校、て……」
「〝関東は嫌や。地元は離れん〟ゆう我儘な人がおってんよ。その人と家族になるには、わしが動くしかないじゃろ」
答えないでいると、歩みを止めずに呟くように彼が続ける。
「これでも考えたんで? 素直じゃない人に頷いてもらうにはどうしたらええんか、ゆうて。……ポケット、手入れてみ? 反対側」
左側のポケットに冷えた手を入れると、こつんと指先に当たる固いケースの感触。取り出してみる勇気はない。その代わり、ひとつぶ涙が眦(まなじり)を転がり落ちた。
「中身は後のお楽しみじゃ」
「……うん」
「な、わしの家族計画聞きたい?」
「うん」
「子どもは二人じゃ。上が男で下が女。さっそく来年の秋には一人目が産まれて、しゃべれるようになったら絶対に真紀を〝おばさん〟て呼ばせるんよ」
「……ほんま光樹はシスコンの極みやな。シスコン王決定や」
「シスコンじゃない言うとろうが。この五年間〝おじさん〟呼ばわりされた恨みを返すんよね」
光樹の妹にもどうやら子どもができたらしい。この家系なのだから、さぞ口がたつのだろう。
「うちも〝おばさん〟は嫌やな」
「じゃろ? 和紗にも紹介しちゃるわ。今度はわしが嫁さんを自慢する番よ」
黙って、ポケットの中の繋いだ手に力を籠めた。
ひとつ、ひとつと光の灯る住宅の合間から、低い月が顔を覗かせている。盛りをわずかに過ぎた少し痩せた黄金の天体は、どこか懐かしく、そして初めて見るようなやわらかな優しさに満ちていた。
――家族、か……。
履き慣れない厚底のミュールは歩きにくいし、吹き抜ける秋の夜風は凍えそうに寒い。
それでもなぜか、このままこうやって隣の男と歩き続けたい気がした。金色の月に向かって、どこまでもゆっくりと二人のペースで。
あれこそが彼の言う〝未来への架け橋〟とやらに繋がる扉かもしれないと、そんな夢を描きながら。
次回視点が変わります。
今度こそ最後っ!