終-2
2.言えないこと――リオコ
扉が開いたとレインに告げられ、反射的に思ったのは、
――どうしよう。
という戸惑い。だけどそれは〝帰るか帰らないか〟という選択のためじゃなかった。
家族には会いたい。友だちにも、慣れ親しんだ向こうの文化や文明が恋しくなかったわけでもない。それよりもわたしには、もっと重要な問題があった。
布団の上でごろごろ転がりながら、そのことについて考えていると、枕の上にひょいと小さな頭が覗いた。ネウロの姿を借りたレインだ。
《まだ言ってないの?》
『……言えないよ。無理だよ』
《じゃあ、もう僕からバラすよ?》
『だめっ!』
がばりと跳ね起き、慌てて自分の口を塞いだ。シーツで仕切ってあるとはいえ、同じ部屋には真紀がいる。侍女部屋の中でも一番広い一室を二人でシェアしているので、家具には問題ないけど、隠しごとには向いていない。
すぅすぅと真紀の寝息が響く中、そっと両手を離す。ほう、と息を洩らした。
呆れたようにネウロが二本足立ちで腕を組む。
《君が鍵の使い方をもう少し学べば、声に出さなくても会話できるんだけど》
『そんな余裕ないの。ね、それよりも絶対真紀ちゃんには言わないでよ?』
《一応使用者の命令は絶対だけど、さすがにこの状況は、いくら僕でも心配する。扉を開けば分かってしまうことなんだ。君が――》
『す、すとっぷ!』
むぎゅうと今度は手のひらで、ネウロの口を押さえる。
――あ……意味なかった……。
精神交感のしやすさから、本来いる聖地から意識を飛ばして目の前の小動物を操っているだけの水門の神は、だけどわたしの意図を察したように言葉を止めた。
『ごめんなさい。だけどまだ、それを聞く自信がないの』
《時間はないんだよ?》
『分かってる。でも、どうしても――』
《分かってないよ。これを隠すことに、どれほどの意味がある? そんなことをして傷つくのは一体誰だと思っているんだ?》
『分かってるよっ!』
音量を抑え、それでもわたしは怒鳴った。
『だけど、真紀ちゃんのこと知ってるでしょう? 一度信じた相手を疑うなんて、できないんだよ。それに今、どれだけ揺れてるか。そんなときに追い込むようなこと言えるわけないじゃない』
真紀は強い。決断力もある。だけど他人の事情とか感情が入ると、途端にもろくなるんだ。
――やさしすぎる。
魔法士長のオズにそう言われたらしいけど、その通りだと思う。むしろ自分のためじゃなく他人のためだったらどこまでも強くなる、そういう子だ。まさに光。
一方わたしは〝水〟だと言われた。大地に寄り添い、風に運ばれる。一見他人に流され続けるようだけど、生き物は水をなくしては生きていけない。
『――さながら、すべてを受け入れる陰の支配者ですな。あなたは常に導かれ……いるべきところを間違うことはないでしょう』
意味深な言葉だった。なぜならオズに視てもらう直前、王様夫妻に、異界から持って来た鞄の底に隠してあったという一通の封筒を返してもらっていたから。
内容は――聖地にいたときに、もしかしてと思っていた事実が、まさにはっきりと記されていた。タクにもレインにも、詳しくは打ち明けていない。さすがにレインは、なにが書いてあったか察しているようだけど。
枕の下に隠している封筒を引っ張り出す。中の便箋に書かれているのは見慣れた文字、ママの字だ。
――会いたいよ……。
会って、今置かれている全部のことについて話して、それから――。
その先が、分からない。
向こうの世界で、やりたいことはあった。将来は調理師か栄養士の免許をとって、食品関係の仕事に就いて、お金を貯めたら小さなカフェを出す。それくらいのことだけど。
でも、わたしはこの世界で変わった。強くもなれた。それに、向こうの世界に友人がいるように、こっちにも友だちができた。好きな人も。
――……タク。
二人きりになったとき、タクの反応は予想通りだった。なにも言わない。『なにか言って』と言えば、『二人がいなくなると寂しくなるな』とだけ。
責任感の強さから、帰ることを勧められるだろうとは思っていた。だけど、そんなふうに確定事項のように言われると、さすがに傷つく。それ以来、彼とは話せていない。
聞けば、ルイスも似たり寄ったりで『一人で答えを出せ』と言われたそうだ。
「――もう、あたしたちいらないんだもんね」
役目が済んだ自分たちはこの世界で不要なのだと言わんばかりの真紀の呟きに、わたしの胸も疼く。みんなやさしいから、用済みだからポイ、なんてことをするとは思わない。頭ではそう分かっていても、ここにいる一番大きな理由がなくなったという事実は、わたしたちの立場を不安定にさせた。
[まほら]の鍵は、使用者を書き換えていない。わたしたち二人がいなくなればレインは眠りについてしまうかもしれないけど、それで構わないのだそうだ。
『それがこの世界の本来ですから。受け入れるだけです』
そう言ったヘクターさんは、寂しそうだけど笑っていた。誰もが無言で、あたしたちの帰還を後押ししてくれているのを感じる。
――タクとはもう無理なのかな……。
最後に会ったときは、怒って部屋を出たから(それでもタクは自室まで送ってくれた)キスもしていない。こんなことなら聖地にいたときに全部あげればよかったと考えて、さすがに我ながらひいた。
――こんな子どもみたいな体型じゃ、繋ぎ止めるとか無理っぽいし。
ふるふると首を振る。打算的になるのは嫌だ。でも、なりふりも構いたくない。
行き詰まる考えを突破したくて、抜け道を探すように、思いつくままの疑問を口にする。
『ねえ、レイン。扉くぐったら、わたし定点HからTに飛ぶんだっけ? うまく飛べるの?』
《ああ。こちらで産出される法玉は、クオリア素子を溜め込む性質があるらしくてね。それに魔法を組み込んで発動させる。ここから君たちの時代に飛ぶよりも、座標設定は簡単だ。うまくいくと思うよ》
『扉って何人までくぐれるの?』
《本当は一人と言いたいけど、君たちは二人だからね。まあ、結びつきが強いから大丈夫ということにさせておいて。正直はじめてだから、リスクは極力避ける方向で行きたい》
『そう。じゃあ、みんなで行くのは無理だね』
《確実にお勧めしない》
真紀は水門を開けるのを失敗したらみんなで逃げると言ってたけど、それは叶わないということだ。ま、成功したんだから関係ないけど。
『あ、召喚ができたんだったら、行ったり来たりもできるのかな?』
《……それは賛成できない。扉や異世界という言い方をしているけど、実際は時間旅行だ。過去と未来は交わるべきではないよ》
『そう、だね』
明るそうな道はどこも八方塞がりだ。
横になって天井を見上げたまま、ぼんやりと思う。帰れば、多少寂しくてもばたばたと忙しくて、こちらのことなんて忘れてしまうのだろうか。前の二人の彼氏のように、タクのこともいい思い出にできるのだろうか。
――そんなのムリ。
両手で顔を覆う。分かっている、思い出にならない過去はない。だけど、まだ選べるのだ。過去にしない道も残っているのだ。
――どうしよう……。
そんな悶々とした夜が、五日過ぎた。
真紀の顔色がひどい。目も腫れて、なんだか痛々しい。「だいじょうぶ?」と声をかければ、不安なのか抱きついてきた。
――なに考えてるんだろう、ルイス。
真紀にベタ惚れだから、絶対に引き止めて困らせているのだと思えば、これまで引き止める言葉はゼロだという。恋愛初心者の真紀は、もうキャパオーバーな感じだ。煮詰まりすぎて、ふらふらしながら侍女の仕事をしている。わたしは静観しかできない。
『リオコ、ちょっとあなたたち大丈夫なの?』
護衛役でもあるアマラさんが、さすがに声をかけてきた。肩をすくめる。
『わたしより、真紀ちゃんがいっぱいいっぱいみたい』
『見れば分かるわ。将軍は……引き止めるってタイプじゃないしね。ルイスは?』
『一人で考えろって』
『……あんの馬鹿、後ろから蹴飛ばしてやろうかしら』
そういえば、このお姉さんも意外と熱い人だった。一応止めておく。
『だけどルイス、なんで突き放すようなこと言うのかな? 真紀ちゃん完全パニックだよ』
『あいつ、意外にヘタレだからね。マキが自分を選んでくれなかったときの予防線を張ってるのよ。保身に走るなんて、男の風上にも置けないやつだわ、まったく』
『でも、アマラさんが声かけてくれてよかった。なんだかみんな、腫れ物に触るみたいに遠巻きで』
『それは、下手に寂しがったり別れを惜しむような真似をして、あなたたちに心配をかけないようにっていう配慮のつもりなのよ。無意味だと思うけど』
アマラさんの手が、やわらかくわたしの髪をかきあげる。気持ちが少し解きほぐれた。旅の間一度やりあったから、なんだか今ではすっかり〝戦友〟の気分だ。
『アマラさんは、どう思う? 帰って欲しいとかある?』
『馬鹿なこと訊かないのよ。それにね……わたしは未来視』
ぱちりとウィンクされる。はっと目を見開いた。
『視えたの? ね、わたしたちの未来、視たの?』
『ええ。あなたはもう決めたみたいね?』
違う質問で返され、だけど頷く。
『だいたいは……。肝心なことが、まだ迷ってるけど』
『大事なことは、口で言わなくちゃいけないってことでもないのよ?』
『え』
『あなたも、もらってるでしょう?』
手紙。手紙だったら伝えられるだろうか。どくん、と胸が高鳴る。
『だけど直接伝えられるのなら、そうしたほうがいいわね。だって会えば――言葉じゃないことまで伝えられるじゃない?』
そう言って艶やかに笑うと、アマラさんは、恋人同士ではなく子どもに祝福をするように、わたしのつむじにキスをした。大人びた甘い花の香りが、わたしの全身を淡く包んだ。
召還の前日。わたしはルイスとレインに会ってそれぞれ話したあと、長い長い手紙をふたつ書いた。本当はもっと思いつく限りの個人に宛てたかったけど、文章を練っているうちにあっという間に日が落ちてしまった。
あれだけ悩んでいた真紀も、すっかり落ち着いている。浮上のきっかけは、アルだそうだ。
「アルが泣きそうな顔しててさ。あたしがうだうだしてたら、みんなが悲しむなあって思ったの。で、決めた」
『そっか』
「あたしは帰る……って、ずっと言ってたか」
二人で荷造りしながら、真紀がふざけてぺろりと舌を出す。やっぱり真紀は笑顔がいい。わたしも安心した。
『わたし、今のうちにタクと話して来ようと思うの』
「一人で大丈夫?」
『うん』
「気をつけてね」
わたしの荷物は、ほとんどまとめていた。黒い鞄にぶら下がるピンクのベアが、ぽつんと独り大きなハートを抱えている。
――だいじょうぶ、だよね。
真紀のお守り作りの参考にした古びた肌身守りを一番上に押し込み、一通の封筒を手に、わたしはタクのいる離宮に向かった。
今は夜1の鐘が鳴った時刻、つまり夕方六時。明日のこともあるのでわたしたちは早めに夕食を済ませてしまったけど、この時間ならちょうどタクが訓練を終えて帰った、夕食前に滑り込み間に合うはずだ。
少し駆け足で行き慣れた離宮に着けば、めずらしくタクはリビングでアル王子と話している最中だった。テーブルにはグラスとお酒の瓶が数本。
クルスさんに案内されてきたわたしに、アルが無言で驚き、タクが動揺したように立ち上がる。
『突然ごめんなさい。タク、二人で話がしたいんだけど、いい?』
『あ、ああ。じゃあ――』
『ここを使え。すぐに茶の用意をさせる』
アル王子の指示で侍従が飛んできて、慌しく酒瓶とグラスを片付ける。クルスさんを促し、アル王子は鮮やかに一礼して部屋を出て行った。どうやらタクのお酒に付き合っていただけで、彼は飲んでいたわけではないらしい。
『その、座るか?』
タクが落ち着かない様子で、ソファを勧めてきた。わたしが座ると、ローテーブルを挟んだ向かい合わせに腰を下ろす。
『すまない、君が来るのなら酒は飲まなかったのに』
『今までだって、こんな時間にお酒飲んでることなかったでしょ? どうしたの?』
尋ねれば、気まずそうに目を逸らす。お酒のせいか照れなのか、目の縁が赤く染まり、左眉の下の傷が白く浮いて見える。
『わたしたちがいなくなることに乾杯でもしてた?』
『そんなわけがあるか! これはその……飲まないと、眠れないと思ったから』
言いにくそうに口元に左手を当てる。まだ右手が使えることに慣れずに、ときどき左がでてしまうのだ。動揺してくれていることが嬉しいなんて、わたしもどうかしてる。
膝に乗せた封筒を握る手に力が籠もり、しわしわだった紙に余計に皺が寄った。ふぅと息を吐いて言葉を紡ぐ。
『その、わたし今日のうちにどうしても会っておきたくて。ほんとにごめんね、突然で』
『君の突然にはだいぶ慣れたよ』
冗談めかされると、ほんの少し気が楽になった。
『タク。今日わたし、タクの本心を聞きにきたの。聞くまで帰らないつもり』
『本心……? 嘘をついた覚えはないが』
『嘘はついてない。でも、本心も言ってくれてない。でしょ?』
『……』
『わたし、タクが好き』
前と同じ告白をくり返す。呪文のように。
『他の誰でもなく、わたしを助けてくれて守ってくれて、不器用で、素っ気ないけどやさしくて、でも肝心な言葉をなかなか言わない、強くて背の高い、左眉の下に傷のある、今わたしの目の前にいる人が好きなの。タクはわたしを――』
言いつのるわたしの目の前で、ふわりと藍色の残像がよぎった。気がつくとわたしの手をとり、ローテーブルを押しのけて、タクが床にひざまずいている。
触れ合う唇と唇。苦さを含んだ知らない味が、ゆっくりと彼のものへと溶けていく。
目を開けると、身長差のせいで、片膝をつく彼とは視線がほぼ水平に合った。離れられない距離の向こうで、吐息がささやく。
『愛している。今もこれからも未来永劫、俺の剣の主は一人だけだ』
『わたしが……いなくなっても?』
タクが固く目を閉じ、真っ白になるくらい唇を引き締めた。舌を噛むんじゃ、と心配になり、空いた手で頬に触れる。
『できるなら、ここで胸を開いて俺の魂を君に差し出したい。そうすれば、ずっと一緒にいられるのに』
『タクが死んじゃう』
『君を失うなら、いずれそうなる』
『ねえ、タク。わたしに異界に帰って欲しい……?』
再度尋ねれば、先ほどとは違う苛立たしいため息が応えた。
『なぜ分からない? 俺がこんなに我慢しているというのに』
『だから、我慢してない本音が知りたいの。タク、答えて』
『なにを答えろというんだ! 俺が君を手放したいと思っているとでも思うのか? こんなことなら、さっさと君をイェドに連れて行っておくべきだったと何度後悔したと?』
『じゃあ、戻って欲しくない?』
『――君を哀しませたくないんだ。家族と離したくない』
顔を歪め、どこかすがるように、タクがわたしの膝に頭を埋める。
『向こうの世界から、君の家族ごとこちらへ連れて来られればいいのに』
『親戚一同が来たらどうするの?』
『丸ごと面倒見るよ。イェド領は広い』
冗談みたいに返されたけど、きっとタクは本気だ。
『大家族だね』
『言わなかったか? 俺の兄妹は兄が二人、姉が四人、妹二人。大家族には慣れている』
九人兄妹、しかも男女比が偏りすぎだ。思わず笑った。
『タクのご家族に会いたかったな』
『……そんなことを言うと、今すぐここから連れ去りたくなる』
『じゃあ……連れてって?』
畳みかけるように言えば、藍色の瞳が曇る。分かってる、タクは家族想いで情に篤くて筋金入りの騎士。わたしが好きになったひとは、そういうひとだ。
短く切っている髪を指でかきあげる。固いけど、男らしいその髪が好き。武骨な鼻も頬も、太い眉も、切れ長の目も、見た目よりやわらかい唇も、たくさん傷のある体も、手も足も全部が好きだ。
何度も見ているはずのその顔を、記憶に上書きするように、指でなぞる。
『ごめんなさい、困らせるつもりじゃなかったの。そう言ってくれたのが、嬉しくて』
『……俺も、君がそう答えてくれたことが嬉しい』
また唇が重なる。何度もお互いを感じながら、動かしがたい事実を思う。最初から終わりの見えていた恋愛だと――でも、絶対に動かせないわけじゃない。
両手で彼の頬を包み、ゆっくりと唇を離す。
『タク、わたし言わなきゃいけないことがあるの』
膝の上に置いていた封筒を手に取る。
決断は、タクの部屋に来る前にしていた。その上で、どうしても彼の言葉を引き出したかった。わたしは――卑怯だ。
『わたしは、帰らない』