終章 未来――二人の絆
*この章だけ、真紀&理緒子の視点がランダムになります。
1.迷い――マキ
元の世界に帰れる。
突然ネウロの姿で現われたレインからそう告げられ、あたしたちは混乱した。
帰れたらいいなとは思っていた。だけど、それはあくまで希望的観測というやつで、現実になるとは正直、心のどこかで信じていなかった。だから言葉も一生懸命覚えようとしていたし、この国の行く先が気になってあれこれ口出ししていたのに。
帰る。
このひとつの事実だけで、あたしは自分の足元がばらばらになっていく気がした。
嬉しいけど素直に喜べないあたしたちを、ネウロの四つの眼がくりくりと見上げる。レインは何も言わない。そろそろ人目も気になったから、丸い毛玉を手のひらに掬い上げた。
『レイン、もう少しこのままいられる?』
《あー……うん。このネウロに意識は完全に奪っているから、ニ、三時間ってとこかな》
『分かった』
小声で話し(といってもレインの声は、おそらく周りには聞こえていない)、彼を上着の袖に隠すと、予定通りタクのいる離宮へ向かう。理緒子との会話はゼロで、眼を合わせることもなかった。
前もって連絡していたからか、タクは部屋にいた。手にしていた書類から顔を上げ、いつものように部屋付きの侍従に通されたあたしたちを見た途端、表情が一変した。
『どうした、二人とも。なにかあったのか?』
『あったというか……なんというか、ね』
ため息でごまかす。思い切ったように理緒子が顔を上げた。
『扉が、開いたの』
『扉? それはまさか……』
『そのまさか。あたしたち帰れるんだってさ、元の――』
『向こうの部屋で話そう』
あたしの言葉を遮って、タクが奥のリビングに促した。お茶の用意をしようとしていた侍女を退らせ、自分で淹れたお茶をテーブルに並べる。タクがそんなことをするとは意外だ。
だけど今はそんなことに感心する心の余裕はなく、あたしたちは無言でテーブルについた。無邪気に餌を催促するパンが、少しだけ煩わしい。断りを入れ、用意の小皿に木の実と水を入れて足元に置くと、すぐに床に飛び降りた。
『それで、一体どういうことだ?』
落ち着いたのを見計らい、タクが切り出す。
『ルイスは知っているのか? なぜここにいない?』
『レインから直接聞いたの。……はい、説明よろしく』
袖口から大福サイズの毛玉を取り出してテーブルの上に置けば、タクの眼が胡乱になった。それがさらに、体型のせいでお尻を床につけたまま二本足で立ち上がり、やあと手を振れば極限まで見開かれる。
『なんだ、これは?!』
《失礼だなあ。コレとか言わないでくれる?》
『その声は確かにレインだが……なぜまたその恰好なのだ?』
《一応こっちにもいろいろと都合があるんだよ。平たく言うなら、扉が開いたことをいち早く知らせてあげようという僕の親心、かな?》
『ごまかすな。それだけではないだろう』
《ま、自分の目で現状を確かめたかったというのもあるんだけどね》
『……現状?』
思わず聞き返すと、ネウロの丸い目がこちらを仰いだ。
《君たちが本当に帰りたいかということ》
『!』
はっと理緒子と眼を見合わせる。
《とりあえずルイスとは、可能な限り短期間で扉を開く、ということで話をしていたからね》
『なんで?』
《……君たち、いなくなった世界で自分たちがどういう状況になっていると思ってるの?》
時間の推移が同じであれば、約三ヵ月の失踪事件だ。別の意味で帰るのが恐い。
《これでも責任は感じているんだよ。だから望むと望まないとに限らず、君たちが帰る手段は確保したかった。問題はあるけどね》
『問題?』
問い返せば、二本足立ちのネウロがちんまりと腕を組んだ。その短さで、良く組めるものだ。
《まず扉の位置だけど、なぜか理緒子の来た定点Tに反応がなくて、申し訳ないけど独断で真紀の来た定点Hに照準を絞らせてもらった。すまない》
いいの、と理緒子が首を横に振る。
《まあその件は、定点Hから飛び直すこともできるんじゃないかと考えている》
『普通の交通手段でいいんじゃない?』
《……それは置いておいて。もうひとつの問題は、扉を使用すると過去に接触してしまうために検証実験が行なえない――つまり、君たち自身が実験台になるしかないということだ》
『ちょっと待って。それじゃどうして扉が開けられたって分かるの?』
《検索条件を無機物に指定して召喚を試したら、二〇〇九年十二月二日の中国地方版の朝刊がアクィナスに届いた》
家とか車が来なくて良かったよ、まったく。
『でも、三月の合じゃないのにどうやって?』
《合じゃなくても三つの月の影響を減らせる日は他にもある。公転周期が異なるから完全に一致することは稀だけど、月光のほぼない朔(さく)のときを狙った。僕は正直、月の影響がどこまであるのか疑っているけど、状況はできるだけソロンの条件を再現したほうがいいからね。
君たちに行なうのは〝召還〟だけど、彼の術を基礎としているものだし》
『じゃあ、帰るのは――』
《ああ、次の朔となる一週間後だ》
一週間。その間に答えを出さないといけないのか。レインの言い方では、朔――つまり新月の初まりであれば、さらに次の時でも召還の術は可能のようだ。だけど時が経てば経つほど、どちらの状況に対しても傷が深くなる。
――あたしたちが帰るんなら養子の話も止めてもらわないといけないし、今の部屋も引き払うように王后様に言わないといけないし……ああ、パンもジャムに引き取ってもらわないといけないなあ。
早く選ばなければという思いの片隅で、ぐるぐる巡る考えがすでに〝帰ること〟を前提にしていることに気付いて、あたしは泣きたい気持ちで顔を伏せた。
『レイン……ほかに注意すること、ない?』
《うん。召還を行なう場所は未定だけど、長距離の移動をしなくてもすむ場所を選ぶつもりだ。七日間を有意義に使って欲しい》
有意義。その意味は、今の動かないあたしの頭でも充分理解できた。黙って、足元のパンを腕に拾い上げる。
『……ごめん。先、帰るね。ちょっと考えたいから』
『わたしも――』
『理緒子はタクと話さなきゃ、でしょ? あたしも少し一人になって、頭冷やしたい。その代わり、レイン頼むね。パンとは一緒にできないし』
『分かった』
『タク、ジャムに連絡お願いできる? パンのこと、あるから』
『顔を出すように言っておく。マキ、大丈夫か?』
そう言われるということは、相当な顔色してるんだろうな。強張った表情で心配されたことに、ふっと可笑しさがよぎった。
『平気じゃないけど、大丈夫。タクもしっかり、ね?』
『ああ、ありがとう』
精悍な顔がほころぶ。タクが席を立って部下を呼び、送るように言いつけてくれた。あたしは部屋に残った二人+一匹に手を振ると、内宮へ戻った。
クルスさんという二十代半ばの彼は、イェド近衛隊の一人で、何度かあたしたちの送り迎えをしてくれた人だ。いつもと様子の違うあたしに心配そうな顔をしたけど、何も訊かず、気遣うように手のひらを上にして差し出してくる。恥ずかしいけど、こういうときに断るのは失礼だと侍女教育で叩き込まれたあたしは、素直に右手を預けた。
タクの部下であるイェド近衛隊はほぼ理緒子親衛隊と化していて、あたしはお荷物な気がするんだけど、人のいい彼らは『お二人が仲良くされているところがむしろイイんです!』と公言してくれ、かなりとっつきやすい。指環がないから会話は難しいけど、彼がずっとにこにこしてくれるせいで、落ちていた気分も低空飛行ぐらいになってきた。
内宮に入り、そろそろ部屋が見える頃、突然クルスさんが足を止めた。
「フラウリューノ マキ(マキさま)、ボルヴォーレ リーディ(笑ってください)」
分かりやすい音節でゆっくりと話しかけ、おどけるように自分の両頬を指で差す。
「……フォル リ(彼のために)」
眼差しで廊下の先を示され、あたしは侍女部屋の扉の前に佇む金髪の男を見つけた。
「ルイス……」
「ヤー(はい)。ユノリューナ ネ エスト コンヴェーナ ラルゥーモ ヴィザーゴ(若い女性に哀しい顔はふさわしくありませんよ)」
まったく、紳士のタクの部下はどこまでも紳士だ。
「……ダンカス アレス、シンジォーロ クルス(ありがとうございます、クルスさん)」
「トゥーテ ネ ダンカステ(お礼には及びません)。ミ ジス レヴィード、フラウリューノ(それでは失礼します、お嬢さま)」
騎士らしく踵を合わせて右腕を胸に当てると、あたしとルイスに礼をし、気遣い屋さんのクルスさんは戻っていく。
腕を組んで鋭い眼差しを突きつけていたルイスは、礼儀正しく立ち去るクルスさんの姿に、ようやく剣呑さを解いた。ドアを開けようとするあたしを遮り、手を取って中へエスコートする。どうやら締め出されていたわけではないらしい。
物言いたげな顔で目尻に触れてきたので、恥ずかしくて、さり気なくその手をほどいた。
「中で待てば良かったのに」
「女性の部屋に一人でいる気はないよ」
日本語であっさりそう返され、あたしは閉口した。気を遣う部分がずれている。だいたい侍女部屋に公然と来る段階で間違いなのだ。逢引(!)なんてもってのほかだし、ルイスは[双月]士団長で、異界の乙女を送り届けた功績も新しい、大・魔法士だ。醜聞にもほどがある。
それを「あまり会えないのだから他への牽制にちょうどいい」などと押し切られると、複雑にもなるってものだ。
――ほんとにあたしのこと好きなのかな……。
なんだかアルに張り合ったりとか、意地とかプライドであたしを独占したがっているように思えて仕方ない。
「アルノたちだったら大丈夫なのに」
「彼女たちは退らせた。大事な話がある」
「扉のこと? レインから聞いたよ」
パンをクッションの定位置に降ろし、軽い口調で言うと、ルイスの顔がわずかに曇った。
「いつだ?」
「三十分くらい前、かなあ? 理緒子と一緒にタクのところに行く途中で会ったの」
彼がネウロの意識を借りて現われたのだと説明すれば、いつものごとく眉間の皺が増えていく。
「あの傍若無人の神め……まったく。他人を眠らせた隙になにをしているのだか」
「気を遣ってくれたんだよ。ルイスが疲れてたって言ってたから」
窺うように下からちらりと見上げると、やっぱりちょっとやつれた気がした。青い眼にも覇気がなくて、だけど身だしなみだけがきっちりしていることに違和感がある。
「ひょっとして、王様に会ってきた?」
「ああ、さきほど報告を済ませた」
かすかな失望がよぎる。おかしいと思っても、レインのようにいの一番にあたしたちに報せてくれなかったことが、胸に小さな棘を刺した。
――仕事に嫉妬するとか、そんなの嫌なのに。
しかもその仕事も、あたしたちのための仕事だ。帰りたいと彼の胸で泣いたあたしに、こんなことを言う資格はないと分かっている。でも。
「ルイスは、どう、思う……?」
「どうって?」
「扉、開いて嬉しい?」
「……それは、私が君に訊くことだと思うけど?」
ルイスが歩み寄って、あたしの頬に指をひとつすべらす。
「なぜそんな顔をしている? 喜ばないのか?」
「……わかんない」
「分からない? なぜ?」
その質問に、堪えていたものが弾け飛んだ。
「わかんないよっ! 一生懸命この世界を好きになろうとしているのに、ルイスはあたしの家になってくれるって言ったのに、なんで帰そうとするの? なんで扉……開けたりなんかしたの?」
「マキ、落ち着いて。座って」
あたしの手首をとり、一緒にソファに腰を下ろす。あたしは泣きじゃくりながら、支離滅裂な言葉を彼に叩きつけた。
「家族に会いたいよ。帰りたいけど、でも……こんな中途半端するくらいなら、最初から好きだとか言わんで! もうなんか、頭ばらばらになりそう」
「分かってる。すまない。扉を開けたのは、私の意地だ」
えぐえぐいっているあたしの額に、こつ、と額を合わせる。濃い金色の睫毛が目の前で揺れていた。
「扉が開けなければ、ずっと君はこの世界に留まる。だけど、それでは意味がないんだ。君が、君自身の意志でここにいたいと思ってくれないと」
「あたしの、意志……」
「混乱させてすまない。それでも、これは君ひとりで決断すべきことだから」
吐息交じりの低い声は擦れていた。思わず眼を閉じる。だけど彼の唇は、あたしの前髪をかすめただけだった。
「私の気持ちは、[まほら]で話したときのままだ。分かるね?」
「でも、あたし……」
「君がどんな結論を選んでも、私は受け入れるつもりだ。余計なことは心配せずに、君自身がどうしたいかだけを考えてくれ」
ぷつ、と、あたしの中にかすかに残っていた何かが切れた音がした。ずっと張り詰めていた最後の――。
相談することも拒否されて、彼へ伸ばしかけていたあたしの手が宙に凍りつく。
「あ……じゃあ、もうルイスのお仕事もおしまい、なの?」
「そうはいかないよ。召還には補助が必要だ。君たちがどっちの結論を出しても大丈夫なように、準備は万端にしておきたいからね。なにしろ、かつてない規模の魔法術だ。慎重にやりたい」
「……そう」
「まだ日はある。ゆっくり答えを出すといい」
親指の腹であたしの涙を拭い、髪に触れて、ルイスがソファを立つ。キスも抱きしめることもなかったと気がつくのは、彼が去った後からだった。
――ルイス……。
一人残されたまま、声を殺して泣く。逢いたかったひとに逢えたはずなのに、あたしはなおさら独りぼっちになっていた。
ルイスは王城内でいろいろ作業をしているようで、一日一回は顔を出した。主に仕事が終わる、あたしたちの夕食後の空き時間におやすみの挨拶をしにくる程度に。
レインはあのあとさっさと帰ったみたいだけど、どうやらあのネウロと相性がよかったらしく、ちょくちょくやって来るようになった。ネウロは食材の立場から王后様にお買い上げいただき、今では籠に入れて理緒子のペット状態だ。パンが狙ってしょうがなくて困る。
おかげで同室だった部屋には花柄のシーツで仕切りができ、そのせいか理緒子と扉についてほとんど話せていない。タクと話した内容も、あたしとルイスほど酷いものだったんだろうか。言葉をかけるのをためらうくらい表情が沈んでいて、ついには、
「ごめん。お互いの意見聞くと迷っちゃうから、それぞれで考えない?」
と提案されてしまった。
孤立無援。状況を知ったアルノやミルテ、シグバルトやジャムも少し遠巻きにあたしたちを窺うばかりだ。様子が違うことが分かるのか、パンだけがことさらあたしにまとわりついてくる。
忙しくしているほうが気が紛れるかと侍女のお勉強に戻るけど、心は途中でどこかへ飛んでいってしまう。気晴らしに廊下の鏡を磨きはじめれば、瞼を腫らし、顔のむくんだ糸目の女と目が合った。
――ひどいわ、これ……。
笑ってください、と言ってくれたクルスさんの言葉が脳裏をかすめる。笑顔を作ろうとすると、鏡の向こうの顔がいびつに歪んだ。
『――ひどい顔だな』
ふいに送心術が響き、あたしはふり返った。侍女のペタ靴に、上質な革の靴先がくっついている。柱の陰にいたそのひとが、長髪を揺らしてあたしを覗き込んだ。思わず日本語で返す。
「アル。そういうのは思ってても、口に出して言わないもんだよ」
『……帰るのか、おまえ』
単刀直入に訊かれ、〝ヤー(はい)〟とも〝ネイ(いいえ)〟とも答えられなかった。
「アル、あたしね……」
通じないことを承知で想いを吐き出そうとすれば、アルは緑の瞳を優しく細め、あたしの腫れぼったい目元を指で撫でた。
『引き止めて欲しそうな顔をしてる』
「……」
『いや、俺が引き止めたいだけかな』
せつなそうに言われると、どうしていいか分からない。もっと言うなら、
――今の台詞をルイスが言ってくれたら。
反射的にそんな思いがよぎり、いたたまれなくなった。どこまでも身勝手すぎる、あたしは。
だけど、そう考えて少しだけ頭が冷えた。あたしはルイスに依存しすぎてる。
――ルイスに帰るなって言われたから決めるとか、そんなのあり……?
そうしたら、きっと将来あたしは帰ったときのことを理想化して、ルイスのせいだと後悔するんじゃないだろうか。そんなのはいやだ。
「――ボルヴォーレ リーディ(笑ってください)」
あたしはこの世界でいろんな人に助けられてきた。水門を開けたことなんて霞んじゃうくらいに、たくさんのものももらった。その人たちと向こうの世界にいる人たちとを天秤にかけるなんてできない。
違う。最初から天秤に載せるものじゃないんだ。問題はあたしが――どんな未来を選びたいかということ。あたしが望む未来の理想図を、どちらのキャンパスの上で描きたいかということ、それだけだ。
『マキ、俺は――』
囁きくらいのアルの送心術が、頬に触れた指先から伝わる。
泣きそうな顔。感情は伝染するというから、あたしの気持ちがうつったのかもしれない。だけど、こんな悲しい顔をいつまでもさせたくはなかった。
――あたしが決めないと、みんなが悲しいまま、なんだよね。
「ダンカス、アル(ありがとう、アル)。ミ ファルン(わたし 平気)」
彼の頬を指先で摘む。
「リーディ(笑って)。ミ アモス……ヴィーア(わたし みんな、大好き)」
そう告げれば、アルは十五才の少年の顔で微笑んだ。それを見て、あたしも少しだけ笑った。