21(前)-2
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――なんで、ハダカ。
アルの上半身裸を見たときも思ったけど、身内と他人の裸ではインパクトがまるで違う。他人と知人じゃなおさらで、それがついさっき好きだと自覚した相手なら、動揺が激しいなんてものじゃなく。
あたしはルイスを直視することができず、といって目を離すこともできずに、しばらく洗面所のドアの前で固まってしまった。
大きくはだいたシャツから覗く素肌は、腕や顔よりもやや淡いミルクティー色。どうやら着やせする性質らしく、胸から脇、お腹にかけてきれいな筋肉の隆起が彫刻のような陰影を描いている。無駄のない線は締まったウエストにそのままのびて、その先の部位にも余計な脂肪など微塵もないことを感じさせた。
力仕事や見せるためではなく、全体的な身体機能を上げるためについた筋肉。これが生身じゃなかったらガン見しちゃう、惚れ惚れするようなアスリートの体だ。
だけどまあ現実は、そこにルイスの顔がついてるわけで。筋肉の凹凸にやや癖のある金髪が絡みつくように落ちているさまは、色香としか呼びようのないものがたち昇っていた。
――ゆ、湯上りでよかった……。
そうじゃなかったら、のぼせたようになる顔色がごまかしきれない。体中が火照る。
強烈すぎるフェロモン結界に、洗面所に飛び込みなおしたい気持ちを必死で抑えていると、ルイスのほうから近づいてきた。
髪かきあげないで下さい、首のあたりが見えてさらにまずいですから!
「思ったより早かったな。湯浴みは気持ちよかった?」
指環の力で違和感なく聞こえる日本語。うなずく仕草が、首振り人形みたいにぎこちなくなる。
「さっきからどうしたんだ?」
困ったように笑い、ルイスがあたしの髪に手を伸ばす。身を引きかけ、やっとそのとき気がついた。体を包んでいた熱が、すっと冷える。
「ルイス……濡れてるの?」
「ああ、着替えをもってくればよかった」
裸を意識しすぎてきちんと見てなかったけど、彼は金色の髪の毛から足先まで、しっとりと湿っていた。服のままシャワーにうたれたみたい、と考えて分かった。
「ひょっとして外に出た?」
「レインに頼んで、さっき出させてもらったんだ。ここでの滞在が長引きそうだから、アマラたちに伝言をしにね」
「……あっ、忘れてた!」
三人ともごめん、と心の中で正座する。いろんなことが起こりすぎて、すっかり待ちぼうけをさせていたのに頭から抜けていた。
崖下からどこまで見ていたんだろう。あたしたちやルイスが消えたのを目撃したのなら、大騒ぎだったかもしれない。しかも今は雨だ。
「みんな大丈夫だった?」
「とりあえず、なにがあっても状況を見守っていろと言ってあったから、不用意なことはしない。心配しないように言付けたし、今頃は気を休めているだろう」
ふと、あたしたちが[まほら]の中に消えたときのルイスたちの言動を思い出す。神さまに攫われたと思って取り返そうとしてくれたのは、すごく嬉しかった。だけど。
「ねえルイス。もしあのままあたしたちと離れてたら、本気で聖地壊す気だった?」
「……ああ」
「それって、いつから考えてたの?」
そう、レインは彼を見て呟いた――《わりと早い段階から決めていたんだな……心中とはロマンティストなことだ。あの男をここまで引き寄せたのもそのためか?》と。
泣きそうな目で彼を睨む。
「ヴェルグと戦ったときも、本当は死んじゃってもいいって思ってたってこと? なに考えてるの。そんな簡単に死んじゃうなんて、どうかしてるよ。なんでそんなこと考えたの?」
「……どうかしているからかな」
口元は微笑むくせに、青い瞳は静かなままだった。せつなくなり、冷えたシャツの裾を握る。自然と頭の先が、濡れて光る彼の肩口に落ちた。
「伝説の結末が乙女の死で終わることを、私はずっと恐れていた。くり返し悪夢を観たよ」
頭の上で、ルイスの声が低く語りはじめる。
「最初は、水門など存在しないと思っていた。聖地は特別な場所だが、こんな荒れ果てた地になにかが眠るとは思えなかったんだ。だが君たちが来て伝説が本当になり、水門の存在も真実味を帯びた。それは同時に〝人に直接影響を及ぼす神がいる〟という可能性を示唆することでもあった」
異界から人が来た=伝説は真実である=神は存在する。
氷を押しつけられたみたいに、肌が粟立つ。
飛躍しているようだけど、それがこの世界の常識に基づいた正しさなのだと、この半月で分かっていた。今さらながら、とんでもないことに足を突っ込んだのだと思い知る。
「聖地の気の流れは特殊でね。外界から隔絶され、まるではじまりと終わりのすべてが集約されているような場所なんだ。そんなところに人々を救ってくれる寛容な神などいない。いるとすれば、問いを投げかけ対価を要求する無慈悲の存在だ。
特にここに祀られている原初の神イシェンナとイシュナムは、その血と肉から他の神々を産み出したとされるしね」
はっとルイスを仰ぐ。雨を浴びた顔は陶器のように艶めいて、その中で人の温かさを宿す瞳が、少し苦しげにあたしを見ていた。
「対価が必要とされ、私がそれに値得るならそれでも構わなかった。鍵がなんであれ、君たちを犠牲にさせないこと。それだけを考えていた」
湿った冷たい手が、つつむようにあたしの両頬に添えられる。
「君が無事で本当に良かった」
「王様に、ちゃんとあたしたちが水門を開くか見届けるように言われたんじゃないの?」
「誰がそんなことを? まあ、そう思うのも仕方ないか。名目上はそうだからな」
眉尻を下げて苦笑したルイスは、「もう言っても構わないだろう」と前置きして教えてくれた。
「王が私に命じたのは、水門の所在の確認と鍵の確保。それに神の存在の見極めだ」
「見極め?」
「〝神〟と呼ばれるものがどういった存在か、魔法士としての目で確かめるということだ。だから万が一を考えて、千里眼をもつアマラを同行させた。魔法士長様に次ぐ力だからな」
アマラさんの言っていた〝仕事〟の意味がやっと掴めた。
頭が混乱する。吹き込まれた言葉と思惑がばらばらで、信じていた事実が簡単に崩れていく気がした。確かなものにすがるように、頬に触れる両手に手のひらを重ねる。
「聖地が絡んでいる以上、武力的排除よりも強力な魔法士の介入が危険であることは分かっていた。ムシャザが右腕として呼んだ男が原始型マーレインだったのは偶然だが、幸運だったよ。
この状況でフージェ・ハランが使うとすれば、一番強力な闇の魔法士であるファリマだ。仕掛けるなら聖地の近くだろうというのも見当はついていた。私たちの力が一番削がれる場所だからね。それでも単独で来るとは見くびられたものだが」
口調に自信が垣間見える。〝想定内〟がどこまでのものだったかは知らないけど、お互い相当の覚悟で臨んでいたのだろう。
「あのとき、すぐに君の元へ行けなくてすまなかった。私とやつが直(じか)に戦う中に、君を巻き込みたくなかった。君を捕らえたあの男を目の前にして、自分を抑えられるか自信がなかったんだ」
黙って、うんと頷く。ルイスの本気がどれだけ人外か目撃しちゃったから、もしあれを間近で見たら、たぶん相当いろいろと無事じゃなかったと思う。
「私がやつの攻撃を容認したのは、その魔法力の高さだ。二人の魔法力が力場内で衝突を起こせば、ただでは済まない。うまくいけば神を揺り動かせるかと期待したんだが……さすがにそこまで筋書き通りにはいかなかったな」
「まさかルイス、王様から聖地壊してもいいなんて許可もらってないよね?」
「不測の事態が起これば、あらゆる手段を尽くしていいとの許可は頂いてある。この旅での指揮は、私に任されているしね」
――あたしのこと抜きでも絶対、本当に本気で聖地壊す気だったこいつ……。
さすがにちょっと呆れた。それが顔に出たのか、ルイスが悪戯っぽく口の端を曲げる。
「君たちに危害はないよ?」
「それでも聖地壊したらだめじゃん。雨降らなくなっちゃうよ?」
「そうだな。彼が目覚めてしまった以上、私の力では破壊するのはもう不可能だろうしな」
目覚める前ならいけたのか、なんて聞くのは禁句だ。
「さすがに〝神〟を自称するだけはある。敵にすべきではないな」
「レインに敵わないって分かってて、なんで喧嘩売ったりしたの?」
「君たちが無理強いをされているかもしれないのに、なにも言わないでいろというのか? 第一、歴然とした力の差があったところで強者がいつも勝つわけじゃない。要領だ」
ルイスって、ひねくれてるのかストレートなのか分からなくなってきた。
――すごく恐くて……心配したのに。
文句を言おうと思って、止まった。あたしを覗き込む瞳が、急に深くて切ない光を宿していたから。頬に添えられていた指先が、ゆっくりと髪をすき下ろす。
「君がリオコと姿を消したときは、本当に心臓が止まるかと思った」
あれはあたしも予想外で、こっちはこっちで心臓止まる勢いだったんだけれども。
――だけど、やっぱりここは〝ごめんなさい〟だよね。
あたしもルイスが急にいなくなったら、死ぬほど心配すると思うから。
「勝手にいなくなってごめんなさい」
「私の息の根が止まるのは、君を失ったときだけだ。二度といなくならないでくれ」
さらりと殺し文句。う、あたしの息の根が止まるってば。
ふう、と息を吐いて、ルイスがあたしの頭におでこを乗せる。
「今も少し信じられない。このまま手を離したら、君がどこかにいなくなりそうだ」
かすかにルイスの声が震えていた。やたらべたべたしたがるのは、不安だったからなのかもしれない。
――ひょっとして……ひょっとしてルイスも同じ、なのかな。
もし同じように想っててくれてるのなら。
飼い主とか保護者とか以上の気持ちを、もしあたしに向けてくれているのなら。
――い、言っちゃっても、いいかな……。
女は度胸、と自分に言い聞かせて、そっと口を開く。
「ルイス……」
ふいにルイスの頭が離れる。なんてタイミングの悪い。
「困った。このままだと全身で君の存在を確認したくなる」
大袈裟な言い方に、少しだけ笑った。まだ重ねていた手をぎゅっと握る。
「あたし、ここにいるよ?」
「うん。分かってる」
かすかにルイスの眼の縁が赤い。頬に触れる手も、心なしか熱くなっている気がする。
――風邪でもひいたのかな?
声が震えていたのは、寒いからかもしれない。確認しようとルイスの顔に手を伸ばすと、片手で止められた。
「せっかく湯浴みをしたのに、君が濡れてしまう」
「じゃあルイスも入ってくれば? 着替えならレインに借りればいいし」
そう言った途端、ルイスの高い眉間に皺が寄る。どうも相性悪いな、この二人。
「たぶん、お金払えとかは言われないと思うけど?」
「……そう、だな。このままでもいられないか」
濡れたシャツをつまみ、ルイスが複雑な息を吐いた。
「じゃあ、入ってくるよ。冷えるといけないから、マキはベッドで待ってて」
「う、うん?」
雨の湿り気を帯びた唇が、あたしの頬を軽くかすめて離れる。そのまま洗面所に消えていく後姿を眺め、素直にベッドに上がりこんだあたしは、なんだかすっきりしない頭をふかふかの特大枕に乗せて天井を仰いだ。
どことなく事態がおかしな方向へ進んでいるような気がする。いや、気がするじゃないのか。
――寝間着じゃないけど、風呂上がりでベッドで待つって、どうよ?
そこでようやくネジが噛み合い、遅ればせの思考が結論に辿り着いた。
――あれ……〝全身で確認〟て。
親愛のハグのことでもなく、単なるリップサービスでもなければ答えはひとつ。
ショートした脳から、幻の火山がちゅどんと噴火を起こした。
――うわあああ、まずい。まずいこれ。こ、これで告白したら、あたし……食われる?
その前から充分すぎるくらいまな板の上の鯉だったことを自覚して、ルイスがお風呂から出てくるまでの数十分、あたしは恥ずかしさにひとり悶絶した。
マキの囲い込み終了(笑)。