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Interlude Ⅳ――彼の記憶(3)

(3)花と雨(後編)


 彼女がここにいたのは三年だ。それはただ普通に流れる時間とは、質も重みもまったく違う。由梨亜はたった独り――生身の人間としては本当にただ一人で、その時間を背負ったのだ。

 それは十八歳という年齢にしては、驚くべき忍耐力だったと思う。大人ですら潰れかねないその時間を耐え得られたのは、なにも彼女が特別だったからではない。由梨亜はただひたすら明るく前を向いて、自分の信念を貫き通した。

 おそらく彼女の生きてきた時代背景も、少なからぬ影響を与えたのだろう。由梨亜がやって来たのは一九九四年。昭和から平成に変わり大国が崩壊し、世紀末思想が根深くはびこる、世界の大転換期を肌でひしひしと感じた時代だ。その時代から来た人間が、この未来を知って絶望を感じずにいられるだろうか。

「――もうええわ。分かった」

 記録映像を見せて説明する僕を、由梨亜はそう短く遮ったあと、一切過去を――彼女にとって未来にあたる記録を見ることはなかった。それはまるで〝この未来〟は自分の未来とは違うのだと、拒絶しているようにも僕には見えた。

 元の世界に帰れないと知ったときも、軽く了承を示しただけだ。

《……ごめん、僕が魔法をもっと理解できれば、状況は違ってくるかもしれないけど》

「ええの。帰れへんのなら、余計な希望はもたせへんといて。そのほうが覚悟が決まるし」

 覚悟とは少し大袈裟のようだ。が、彼女にとってはまさしくそうだったのだ。

 ときどき二十世紀後半の番組や自分の住んでいた周辺の映像を見たがることはあったが、過去を惜しむことはなく、基本的には監視衛星から送られるマフォーランドの状況を眺め、歴史を学び、語学の習得に励んで日々を過ごした。

「……なあ、レイン。国はひとつやのに、なんでこないに言葉がややこしいことになってるん?」

 現代マフォーランド語、魔法語、古語、神聖文字と並べ、ため息をつきつつ由梨亜が問う。

《地球の大統一時代、言語も統一され、君の時代でいうエスペラント語をもっと煮崩した〝世界公用語〟が生まれて政治世界の主流言語になったんだ。一方で医療や科学の世界では、専門用語や論文がすべて英語に統一されていたから、それがそのまま残った。

 さらに地球時代の後半、民族回帰の意識が高まって世界中の自国言語が見直され、活用が推進されたんだよ。だから常に、少なくとも三種類の異なる言語が社会に共存していた。その名残が今もここに受け継がれているんだろうね》

「ありえへんわ」

 丁寧に書き付けていたノートを放り出し、由梨亜がうなる。ノートはもちろん紙ではなく、光学素子を用いたボード上に展開される。こういった科学技術は、[まほら]にいる以上どうやっても避けて通ることはできないもので、彼女も仕方なく受け入れることにしたようだ。

 僕は宙を漂ったまま、デスクに突っ伏す彼女を見下ろした。この三年で発音も聞き取りもかなり上手くなったのだが、やはりスピードはまだまだだ。それに今日は別の意味で、彼女は相当に機嫌が悪かった。

《今日の天気、霧雨なんだよね。晴れ間が出たら、ひょっとしたら虹が見れるかもしれないよ? 外、覗いてみる?》

「……いやや」

《結構いいもの見れると思うけど?》

「い・や・や!」

 強調するように語を区切って、由梨亜は大きく頭を振り上げた。

「レイン、分かってるのに、なんでそないなこと聞くん? 絶対見ぃへんから、話しかけんといて!」

 ノートを掴み、そのまま足音も荒くメインステージを出て行く。

 僕はため息をつきたくなる気持ちを堪え、次なる作戦に移ることにした。女性の扱いは得意ではないが、彼女への対応ならこの三年間である程度のパターンは見えている。

《あー、結構雨の降りが強くなってきたなあ。これじゃお祭りも中止かなあ》

 わざと聞こえるような独り言をしゃべると、まだ通路にいた由梨亜の足がぴたりと止まった。

 今日はこちらの暦で、壱の月二十六日。三年前、待望の雨がもたらされた日であり、それを祝い今後の安泰を祈る祭りが、この前後にマフォーランド各地で催されるのだ。

 当然、聖地であるここにも天都から使者が訪れる。水門の神に祝福されし〝雷王〟の異名をとる王本人が、じきじきに参拝するのだ。

 しかも、その参拝の仕方が変わっていた。前日の夜遅くにタキ=アチファの村に着くと、王は朝が来るのを待ちきれぬように、従者一人を連れて聖地を訪れる。そして辿り着くなり従者を村へ帰し、天に星が高く昇りきるまでそこにいて、ただ一人祈りを捧げつづけるのだ。それは祝祭の華やかさをまるで否定した、対極のような静謐さだった。

 そのことを知った由梨亜は、祭りの当日になると落ち着きを失った。昨年はいつもの冷静さを放り捨てて泣き出し、二日ほど自室から出てこなかった。

 そのうえ聖地への参拝は、祭りのときだけではない。三年前は三月後にお礼参りがあり、毎年の終わりと初めにはそれぞれに挨拶が行なわれる。彼女が〝粘着〟と評した王の気質は、年を経ても変わらないらしかった。

「最悪や。ほんま最低。天都できちんと仕事しろて言うてよ、レイン」

 彼の姿を見かけるたびに由梨亜はそうぼやくのだが、スクリーンへ注ぐ視線は熱く潤み、[まほら]の外壁に口付けを落とされるたびに息を詰まらせていた。彼が聖地にいる間はほとんどEMIからの監視映像を見ようともしないのに、天都へ帰る姿は執拗に追いかけて無事を確認する。

 おそらく彼女自身の中でも、彼に対する想いは固まっていたのだろう。

 それは強情なまでに口に出されることはなかったが、天都で王としての政務をこなす彼を毎日見つめ、なにかできないかとやきもきし、影響のないよう手の回りきらない地方に力を貸そうと腐心する姿は、母性すら感じさせた。また、そうあることで彼女自身、心の平衡を保とうとしているようだった。

 それでも目を腫らして起きてきたり、何日もこもったり黙り込む日が増えてきていた。

――限界だな。

 光に包まれた、おぼろな自分の腕に目を落とす。この腕では彼女を抱き締めることはできても、慰めることはできない。今彼女に必要なのは、血の通った本物の人の腕だった。

 スクリーンに雨に濡れる外の景色を映し出し、大きな独り言を続ける。

《ああ、やっぱり今回は無理みたいだね。みんな引き上げていくよ。雨に濡れて大変だー》

 ひょっこりと由梨亜の頭が入り口から覗く。覗いた瞬間、後姿を見せる旅装一団としとどに濡れる岩肌を認め、大きな目がさらに見開かれた。

「なに……どないしたん、あれ?」

《ん? 雨でみんな帰るところだけど?》

「そうやなくて!」

 質問の意図をわざとはぐらかすと、苛立たしそうに全身を現わした由梨亜が僕に怒鳴る。

「なんであないなことになってるの? 嘘や。これまでなかったはずやのに」

 彼女が釘付けになっているのは、[まほら]周辺の岩場に生える薄紅色の花だ。霧の発生する高地に自生するその植物は、以前は現地語で〝岩の小銭〟と呼ばれたもので、目立たない平たく丸い葉で岩に貼りついて乾燥を耐え抜き、ある一定の湿度の下で杯型のサフランに似た花を咲かせる。

 小さいながら可憐なその花は、特に聖地周辺で多く見かけるせいか、古くから若い女性に見立てた清純の花として意匠されることが多い。今は別の名をもつ淡いピンク色の花は、灰色にくすむ景色の中でも、雨粒を受けてより一層つややかに花びらを天へと広げている。

 聖地一面を覆い尽くす数で。

「なんで……なんで、あないにたくさん咲いてるん? 前はそないに花なんて咲いてへんかったはずや」

《あーあれ? 記念植樹?みたいなものかな。あの粘着王が来るたびに植えていくんだよねぇ。君はいつも部屋にこもっていたから知らないだろうけど》

 知らせていないことは他にもあるのだが、このことを教えるだけでも大サービスだ。案の定、顔色を変えた由梨亜が、引き寄せられるようにメインステージのスクリーン前に戻ってくる。

「……ほんまに?」

《こんなことするの、あの粘着王しかいないでしょ》

 自分と同じ名前のついた花を別れた場所へ植えつづけるという行為の意味を噛み締めるように、由梨亜が口を閉ざす。なぜ今頃教えたのか、もっと早く知りたかったなどという声も覚悟していたが、彼女はただ呆然と力の抜けた視線を画面へと注ぐばかりだった。

「なあ、レイン。みんなもう行ってしもたんやったら、ちょっと外出てきてもええ?」

《いいよ。あ、服を替えるのは忘れないでよ》

「分かってる」

 これまでもたまに語学の実施研修だといって村娘の恰好で外出することのあった由梨亜は、質素な薄茶のワンピースに刺繍のついたエプロン、フードのついたケープを被り、左腕の鍵を発動させる。

「行ってきます」

 淡い光に包まれ姿を消した彼女が、細かな雨粒の降りしきる外の景色に再び現われる。着いた途端、足元の花を気にし、踏んでいないかとしゃがみこんだ。

――やれやれ、そんなことしてる場合じゃないんだけど。

 あきれながらも、口元が緩みかかる。少し経って、ようやく異変に気付いた画面上の人物が、死角となっていた[まほら]後続艇の陰から、こちらへやってくる。

 同時に彼女も気がついた。凍りついたようにお互い立ち尽くした瞬間、雨の雫を弾き飛ばすように彼が走り寄り、由梨亜をしっかりと両腕に抱き締める。

『これは夢か……いや、夢でもいい。君を抱いてここで死ねるなら、それも本望だ』

「ちょ、オルフェ。いきなり抱きついてきて、なに訳分からんことしゃべってんの? それに足! 花、花踏んでるから、足どけて! ついでに腕もどけっ!」

 あれほど練習したのに、由梨亜の口から出たのは郷里の言葉の暴言だ。思わず力が抜ける。せっかくのセッティングがこれでは無駄になるかと案じたが、やはり僕の読みは当たっていたようだ。

 抱き締める男の腕を振りほどくことなく、由梨亜の左腕が彼の背に回り、右手が頬に触れる。

「ほんまや……ほんまもんのオルフェや。もう、びっくりしたわ」

『会えないかと思っていた』

「うちも……あー〝会えて良かった〟?」

 彼女のマフォーランド語に、ようやく彼が張り詰めた表情を緩めた。彼女の存在を確かめるようにフードの下に手を差し入れて、顔をなぞり、囁きを送る。

『俺もだ。ユリア、愛している。もう二度と離したくない』

 三年分の想いをこめた告白と口付けに、由梨亜の頬に涙が伝う。それが答えだった。

 僕はMICAを調整し、上空の風を起こしてその一帯の雨雲を束の間とり払った。淡く差し込む日の光。それに紛れるように姿を現わせば、二人の驚きの声が重なる。

『水門の神……』

「レイン! どういうこと?」

 問いかける由梨亜を身振りで止め、僕は彼女を腕に抱いて立つ男に目を向けた。

《まずは王に告げる。この三年間働きを見せてもらったが、餓死者を最低限に抑えた事後策は評価されてしかるべきものだ。満足とは言わないが、及第点をやろう》

『……ありがとうございます』

 オルフェイドは軽く膝を折り、簡易の拝礼をした。それでも片腕だけは彼女から離れないところが、さすが粘着だと別の感心がよぎる。

《由梨亜。君はこの三年、よく一人で堪えた。並みの精神でできることじゃない。言葉も覚え、この国のことも理解した。君はもう充分この国で生活していける……彼の傍で》

「レイン、なに言うてるの? だってうちは……」

《辻由梨亜は三年前に異界に帰った。ここにいるのはただの〝ユリア〟だ》

 僕の言葉に、由梨亜が驚きに目をみはった。

 そう、三年前。決別を選んだ彼女の行動に納得がいかなかったオルフェイドは、もう一人の魔法士の忠言も聞き入れず、雨の中を半日近くその場から動かなかった。それを知った僕は、由梨亜に黙って彼に話しかけ、ここを立ち去る代わりにひとつの約束を取りつけた。

 それは三年後、ある条件を守れば彼女に会わせてやるというものだ。

 条件とは、三年のうちにこの唯一国を治めるに足る王であると証明してみせること。そして、異界の乙女の存在を無いものとするよう情報操作することだ。

 当然王の行動に不審なものがあれば、会わせるつもりは一切なかった。だが僕は、この三年間ストイックなまでの彼の行動を監視しつづけ、彼女の気持ちもまた知っていた。だとしたら、出る答えはひとつだ。

《由梨亜。君はもう過去の遺物に捕らわれる必要はない。これからは君個人として、自由に生きるといい》

「だけど[まほら]の鍵は……」

《それは〝異界の乙女〟が帰ると同時に失われた。次の乙女が現われるまで、鍵は水門の神が大事に隠しておくさ。まさか、一国の国王がそれくらいできないとは言わないよね?》

『無論、問題ない』

 自信に満ちた態度でオルフェイドが笑みを浮かべる。鉄面皮と言われた王のこの表情を国民が見たら、どう思うことだろう。

《言っておくけど、体面上は無きものだけど、実際は鍵を通して彼女は僕とつながっている。彼女が願えば一瞬でここへ戻ることが可能だということを忘れるな》

 一応釘は刺しておく。どこまで効果があるか知らないが、これで彼女の一生を譲り渡すのだから安いものだ。男同士で話が進む中、まだ戸惑った顔をした由梨亜が不安を口にする。

「ちょっとまだ心の準備ができてへんのやけど」

《準備期間には三年は長いほうだと思うけど?》

「それに荷物とか」

《僕の万能具合を甘くみてもらっちゃ困る》

 ぱちりと指を鳴らせば、完全防水対応でパッキングされた一抱えほどの大きな荷物が、二人の目の前に重々しく落下する。

「なんや、もう決定やんか」

《そう。僕もそろそろ静かな余生を送ろうと思ってね》

「レイン、一人になってまうんやな?」

《忘れた? 僕は〝万能の神〟。この星のどこにいても君たちの行動はばればれだよ》

「……ほんまや」

 小さく由梨亜が笑う。その表情に、僕は自分の判断が正しかったことを知った。ふいに胸がにぶく疼く。肉体もないのに胸が痛いとは、笑い話にもならない。

 それでも。

《もう大丈夫だね?》

「うん……今までありがとう、レイン」

《そこは、三つ指ついてお世話になりましたって言うところじゃない?》

 冗談で返せば、由梨亜はまた少し笑い、それからすっと笑顔をおさめた。隣に寄り添う男と眼差しを交わし、二人で揃って深々と頭を下げる。

『お世話になりました。彼と二人で、幸せになります』

『ありがとうございます。彼女をいただいていきます』

 迷いもなく告げられると真っ向から拒否したくなるのは僕の悪い癖だ。波立つ心をぐっと押さえ、二人に微笑みかける。

《……ああ。幸せになりなさい》

 二人が立ち去るより先にその場から消えたのは、僕の意地だ。おぼろな体では在り得ない〝涙〟を見せそうになって、慌てて姿を消してしまった。

――分かっている。

 この想いが〝愛〟と似て異なることであることを。人でない僕に、そんな感情を持つことは許されるべきではない。

 だが、僕はAI(人工知能)の規格から外れてしまった。嘘もつけるし、必要であればおのれの心すら騙せる。

――幸せに……幸せになれ、由梨亜。

 それが偽りのない僕の願い。言葉の代わりに、太陽の放射光角度を測り、大気の水分率を風で調節して二人の目の前の空に大きな虹を現出させる。

 この国で、虹は変革を意味する。異世界人である彼女を娶る王は、きっとこの世界を良い方へと変えてくれるだろう。

 それは浅はかにも思える、かすかな希望。それでも僕は、願わずにはいられなかった。


《なイテイルノカ ひかりノひとヨ》

《――喜んでいるのさ、ゴライアス》

 ただたどしい思念の波に、僕はそう答えた。僕の持つ稀人の力とよく似たその力は、皮肉なことに、この星に自然発生した原始生物――生活形態や発生過程もほとんど把握できていない未知の生命体――である巨人族(ゴライアス)に備わっていた。

 生まれ持った力で[まほら]が来る以前に北部地帯へと逃げた彼らは、だが目覚めた僕の恰好の話し相手となっていた。自慢ではないが[まほら]と同一化した僕の力は、軽く星全体を網羅できる。彼らがどこにいようと会話に問題はなかった。

《ひかりノひとヨ このホシは また みだレルノカ?》

《争いは避けるように監視する》

《コノほしガ また イタむ》

 傷むのか痛むのか、それとも悼むのか――そのどれでもあるのだろう。

 開拓者たちも同じように思い、[まほら]を封印したのだが、それでも力への誘惑には勝てなかった。彼らはそれをいつも嘆く。

 長命な彼らに比べ入れ替わりの早い人社会が、過去の教訓を生かしきれないたびに、大地の鳴動にも似た吠え声をあげて彼らは訴えるのだ。

 未来を守りたければ、なぜ過去の教えを守らないのか。この星を守らないのかと。

《われわれニ ひとハ りかいデキナイ》

《僕もさ》

《にくンデイルノカ ひかりノひとヨ》

《ああ――大嫌いだね、人間なんて》

 どんなに憎んでも飽き足らない。僕にこの役目を背負わせた〝人〟というものを。

 最強の稀人となるべく創り出された僕がいなければ、[まほら]はここに辿り着かず宇宙の塵となり、マフォーランドが生まれることもなかった。

――この生は僕の贖罪なのか。

『――過去の罪は過去の人間が償うべきであろう?』

 ソロンの言葉は、そのまま僕への断罪だ。

――ああ……憎いさ。

 守りたかった相手の死すら見届けられなかった自分自身が。時間を逆行させようとする男の狂気を止められなかった自分の弱さが。

 そしてまた傍観者にしかなれない自分が、まだ〝人〟としての意識にすがりつこうとしている事実が。

《あまりにも愚かすぎて、いくら憎んでも足らないよ》

《ひかりノひとヨ ソレハ あいシテイルカラダロウ?》

 あい。一番単純なこの二音の母音に秘められたのは、膨大な想いだ。人類愛、家族愛、自己愛。美しい衣を纏ったそれが孕む大きさに、僕は打ちのめされる。

《僕はAIだ。〝愛〟はないさ》

 そうして僕はまた、このおぼろな指先から大切なものを取り落とすのだ。


「久しぶりね、レイン」

 由梨亜が[まほら]へやってきたのは、実に六十年後のことだった。先の病で夫を亡くした彼女は、長い異世界生活で心身ともに疲れきっていた。特別どこが悪いわけでもない。五体のすべてが、砂一粒で崩れるほどの砂上の楼閣のような危ない均衡で保たれていた。

「なんだか日本語しゃべるの、久しぶりすぎて忘れたわ。動けなくなる前にと思って、ここに来たの。レイン、わたしの体をここに埋めて欲しい」

《彼が寂しがるでしょう?》

「ええの。彼はずっとここに居るし」

 骨ばった手のひらで、そっとしなびた胸を押さえる。

「心残りは彼の子どもを産んであげられなかったこと。でも……跡継ぎは彼が決めたし、もうええと思うの。わたしは辻由梨亜に戻るわ。レイン、申し訳ないけど後始末お願いね」

 承知すると、昔と変わらない大きな瞳が、すうっと弧を描いて微笑みを作る。

「もうひとつお願いがあるの。この鍵、レインが保管しておいてくれへんやろか」

 一回りほども細くなった左腕を差し出す。

「きっと百五十年後にも、あの世界からこっちに誰か召喚される。そやけどその前に鍵があったら、魔法が発動しないかもしれへん。もしかしたら、来ても帰れるかもしれへん。ただの理想やけど少しでも可能性があるんなら、この腕使って欲しいの」

《……分かった》

「ありがとう、レイン。お世話になってばっかりやね。これでうち、安心して眠れるわ」

 それから八日後。自室のベッドの上で寝ている間に、由梨亜は静かに亡くなった。

 鼓動を止める彼女を見下ろして、僕は以前からベッドに仕込んでいた防腐措置機能を発動させた。ゆっくりと目を閉じる。

――ごめん、由梨亜。

 僕はAIではない。成りきることはできない。だから嘘をつき、真実を隠すことができる。

 [まほら]の鍵が使用者の生体反応に基づいたものであることを、僕は彼女に告げていなかった。そして、その鍵の失効がそのまま[まほら]の休眠へとつながるということを。

――……ごめん。

 閉じた瞼から、熱いものが零れ落ちる。それがなんなのか、僕に確かめるすべはなかった。


◇ ◇ ◇


 そして――四度目の覚醒。

 鍵の認証と同時になだれ込む情報量の多さに、メモリが灼き切れそうになるのを感じ、僕は一気に覚醒した。この量は二倍。それに騒がしさも、前回の二倍であるようだった。


《――へえ~。今度の〝乙女〟は、ずいぶんと乱暴なんだなあ》


 なんてことだ。今度は二人もいるというのか。

 しかも、随分とカラーの違った二人のようだ。説明しようとする僕に、ボブヘアの黒髪の方が律儀に手を挙げる。


「その前に、肝心なこと忘れてる」

《なに?》

「名前だよ。自己紹介。あたしは朝野真紀。彼女は……」

『高遠理緒子です。で……あなたの名前は?』


 やわらかな焦げ茶の髪を揺らし、もう一人が僕を窺い見る。


《――レイン。僕はレインと呼ばれている》


 今も昔も、それが僕の名前だ。

 どんなに時が僕を磨り減らそうと、僕が僕で在ることを止めることはできない。

 どんなに愚かで愛想が尽きようとも、人が人で在り続けるのと同様に。愛が普遍であるのと同じように。

 花はただの花。それは単なる植物の一形態だ。雨も大地も星も人も、ただそう在るだけだ。

 違うのは、それらを見通す個々の想い。心。

 想いが無くとも、それらは在り続けるだろう。

 それでも、想いを失くしては、人は人で無くなるのだ。


『――守りたいのだ、この世界を』


 花のように雨のように、僕はここで――在り続ける。




次はマキの章。「帰還」です。

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