Interlude Ⅳ――彼の記憶(2)
(2)花と雨(前編)
三度目に目が覚めたときは、前回とはまったく異なる感覚だった。夢と現の狭間を推移したような曖昧さはなく、指先ひとつ、髪の毛の一本一本までが新たに生まれ変わる覚醒。
――新しい〝使用者〟が現われたのか。
読み込まれていく使用者の遺伝的背景とそれに付随する記憶が、雪のように音もなく自分の中に降り積もっていく。
――生きている。
その脈動までも感じとった瞬間、光に包まれ、気がつくと目の前に漆黒の波が広がった。それが髪の毛だと認識すると同時に、おぼろな自分を通り越して床へと激突するその持ち主を、反射的に力で押し戻す。目線を下げれば、こちらを覗き込む大きな瞳と出会った。
『あなた……誰?』
声に纏わりつくわずかな違和感は、かつてここを訪れた男に与えた翻訳機のせいだとすぐに分かった。本当に現われてしまったのだ、それを必要とする人間が――過去の人間が。
泣いていたのだろう、濡れた両目は黒々とした落ち着きのある褐色。先程まで宙を舞っていた癖のない黒髪がさらりと肩を覆っている。象牙色の肌をもつ輪郭はまろやかで、小作りな顔立ちは浅く仔猫に似て、日系アジア人の特徴をあらわにしていた。
ばちりと電子波動を感じて見回せば、お互いのすぐ横に幽霊のごとくうっそりとたつ長身痩躯の男の影。
――そうか……。
どうやら新しい使用者は、彼の遺した言葉に動揺して暴れたらしい。室内のカメラ・アイから情報を引き出すと、ソロンのメッセージが終わったのちにホログラムへ殴りかかる彼女の姿が再生される。
当然空を切った拳は反対側の台座にぶつかり、バランスを失って転びかけたところに自分は現われたらしい。力を巡らすと、思った以上に揮えそうだった。調節して呼びかける。
《八つ当たりは止めたほうがいい。無茶をしても怪我をするのは君のほうだ》
『……誰、なの?』
イントネーションのやや揺れた問い。その揺れは彼女の心を映しているようだ。どう答えるべきか少し悩む。
《簡単に言ってしまうと、この[まほら]のメインコンピュータ、ってとこかな?》
『人型のコンピュータなん?』
《正確には元人間なんだけど》
言いはするものの、本当に自分が人間であったのか、もはやその事実が遠すぎて思い出すこともできない。名を呼びかけてくれた声ですら、夢の中の出来事のようだ。
元人間で今はコンピュータ・ホログラム(のようなもの)だという状況が理解しづらいのか、拳の先を赤くしたまま、彼女はその場にしゃがみ込んだ。左腕には、指先から肘にかけて流麗な認証コードの紋が淡く輝きを放っている。
『ほなら、うちもあんたみたいになるの? このまんまここに居続けるんやろか』
《僕みたいになる人はたぶんいないよ。それに、なにもここに居るように制限するつもりはない。外の世界で彼らと暮らすという選択も考慮に入れるべきだと思うけど?》
すると少女は、濡れた大きな瞳できっとこちらを睨みあげた。
『そんなことできるわけない! だって……うちは過去の人間で……ここは未来で……そやけど文明捨ててるから、うちは未来人扱いで……あー、あかん。なんや混乱してきた』
《愚痴なら聞くけど?》
『愚痴よりも説明やろ。あの幽霊の言うてはったことは、どこまでほんまなん?』
そうして小一時間ほど、彼女の質問に答える形で、この世界の成り立ちと地球の未来についての説明が繰り広げられた。
この彼女こそ、辻由梨亜。[まほら]に取り込まれ、再び芽生えた自意識を初めて〝僕〟という個としての存在に目覚めさせた少女だった。
冷たい床に立てた両膝を抱え込む形で座り込み、由梨亜は静かに泣いていた。その静けさがかえって痛々しかった。
由梨亜の意志は強固だった。できるだけこの世界から[まほら]の影響を排除しようとし、MICAの再起動すらためらうほどだった。
結果としてそれは遂行したのだが、新人類たちが聖地と呼ぶこの地まで彼女に付き添ってきた二人の男性に対しては、頑なといえる態度でこれ以上の関わりを拒否した。翻訳機であるあの指環も返し、まるで外界の一切を閉ざすように[まほら]内に閉じこもる。
長い雨音の隙間から聞こえ続けた彼女の名を叫ぶ声がついに途絶え、やがて彼女の両瞼が見る影もなく腫れあがった頃、僕はそっと声をかけた。
《もう彼らは行ったよ。諦めたみたいだ》
「……だといいけど。ほんまにあいつ、粘着やわ」
あいつ、と由梨亜が呼ぶのは、マフォーランド王国の現君主オルフェイド・マフォーラスのことだ。彼女から聞いた話によると、自宅で風呂上りに浴室のドアを開けたところ、なんと王である彼の寝室に落ちたのだという。どうやらソロンが定点に仕掛けた魔法は、ある意味過不足なく発動したらしい。
冗談にしか思えないその出遭いに、僕は柄にもなく〝運命〟という言葉を当てはめてたくなった。からかい混じりに訊いてみる。
《王子様との恋愛って、女の子の夢じゃないの?》
「王子様やなくて王様。あないな粘着、いややわ。好みとちゃうもん」
ならば、なぜ目が変形するほど泣くのか。答えは分かりきっていたので、あえて追求はしない。
《粘着っていうよりは濃そうだけど》
「濃いし、暑苦しいねん。顔も性格もしゃべることも、一緒に居てるだけで2℃はちゃうわ。キリくん居てへんかったら、あれがこの国の平均やて誤解してたかわからへん」
《王様の評価が散々じゃない?》
「ほんまや。この国潰れるかもしれへんなあ。……そうはさせへんけど」
最後に洩らしたのは彼女の決意。
「約束やから。オルフェが天都でこの国のために生きるんなら、うちはここで、この国を守る」
ひっそりと口元に浮かんだ表情は、微笑というにはあまりにはかなく、だが誰も否定することのできない靭さを秘めていた。
「だいたいな、ここの世界の人は高度な文明をあえて捨てて、自分たちの社会を築こうとしはったんやろ? それやったら絶対[まほら]を目覚めさせたりしたらあかんやん。ソロンさんも、たいがいな人やわ」
ひとしきり泣いたあと、由梨亜はぶつぶつと文句を言いはじめた。僕が差し出したハンカチを手に、まだ時折こぼれる涙と鼻水を拭いながらも苦言は止まらない。
「ほかにもっと方法を探すべきやと思えへん?」
《悩んで方法を探しまわった挙句がここなんだよ》
「うちは納得でけへんわ。あ、召喚されたことを怒ってるんやないの。簡単に神さんに頼ろうゆう根性が許せへんの」
《僕は神じゃないけどね》
「万能具合は似たようなもんやろ」
訛りのある口調はやわらかいが、内容はわりときっぱりしている。それはたおやかな外見をもつ彼女に似合ってはいるのだが。
《ねえ、君。なんでそんなに訛ってるの?》
「……いややわ。女の子になんて口利かはるの。いけずやわあ」
《僕の前で上品ぶっても無駄。あのさ、指環してたときはわりと標準語だったじゃない? なんで、しっかりどっぷり京言葉なのさ?》
由梨亜が、紅い唇をきゅっとすぼめた。
「だって、訛っとったら話通じんかもしれへんやんか。うちかて、余所の国に来やったら気ぃ遣うわ」
《……わりと万能なんだけどね、あの指環》
「え、ほんまに? 方言対応もしてはんの?」
《その代わりマフォーランド語も訛るけど》
黒い頭ががっくりとのけぞった。
「……だめやんか」
《趣きがあっていいと思うけど?》
「お国言葉は好きやけど、でも……」
強気な彼女が口ごもる。まあ、心を読むまでもなくだいたい理由は察した。気になる異性と同じ言葉を喋りたいというのは、当然の心理だろう。
「そういえば、あんたの名前聞いてへんかったな。なんてゆうの、名前」
《そんなの忘れたよ》
まだ模様の光る腕で膝を抱きこんで、由梨亜がくすりと笑う。
「おっかしー。自分の名前やろ?」
《自分の名前なんて呼ばないから》
呼んでくれる相手がいないのに、名前など必要ない。わりとあっさり言ったつもりなのに、傷ついた顔をしたのは彼女のほうだった。ごめん、と小さく謝る。が、一瞬後、ぱちんと手を打ち合わせて明るい声をあげた。
「あ! それやったら、うちが名前つけたげるわ。なにがいい?」
《なんだか微妙に選択権が狭そうな気がするんだけど?》
「かっこいい名前がええよね。そうやな……雨の神さまやから〝レイン〟は?」
――……レイン。
記憶の海の彼方で響く声。
どうして人はこうも、忘れたいと思ったことを思い出してしまうのだろう。
――僕はまだ〝人〟なんだろうか。そんなはずないのに……。
僕が人だったことを知るものすべてを時の向こうに置き去りにし、メモリを積み重ねるだけの途方もない時間を得た僕に、人である資格などない。
黙ってしまった僕に、由梨亜が不安そうな顔をした。ごまかすように笑いかける。
《単純すぎだよ、それ》
「じゃあ、なにがええのん?」
――なんでも構わないんだ……僕を呼んでくれるのであれば。
呼ばれるその音こそが名前。僕という存在を指し示す言葉だ。
《……いいよ、〝レイン〟で》
人でなくなった今でも、その名がふさわしいのかは分からない。
だが、呼んでくれる人がいるなら、それに答えるだけだ。僕自身のすべてを賭けて。