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トイレのことは、そんなに心配いらなかった。部屋に戻る手前で、ラクエルが気を利かせて、小さな個室に案内してくれたのだ。
狭い室内の中央に、スイカくらいの大きさの白地に青の花柄の陶製の壷がひとつ。これが便座らしい。
木の蓋を開けると、昔のおばあちゃんちの〝ぼっとん便所〟を想像させる穴が見えて一瞬どきりとしたけど、まったく異臭はしない。むしろ、焚いてある柑橘系のお香が清々しいくらいだ。
用を足して籠に入ったちょっと危険なくらいの小さな紙で拭いて、それも穴に落としておしまい。音もほとんど立たない。ラクエルに使い方だけ教わって一人で済ませ、傍にあった水入れの鉢で手を洗った。
入ってきたドアから出ようとすると、内側のノブがない。ぎょっとしたけど、視線をめぐらせれば壁だと思っていた左の側面に丸いドアノブを見つけた。
――あれ?
ドアを間違えたかとそちら側を開けると、見たことのある部屋の中に出る。ソファと、一段高くなった向こうに天蓋付のベッド。
――これって……元の部屋だよね? 外と繋がってたんだ。
ひょっとしたら、掃除の人が入ってくるドアだったのかもしれない。
ベッドのある部屋に戻ると、ラクエルとタクが立って待っていた。丸テーブルには、また新しいお水が置いてある。
タクは、どれだけわたしの喉が渇いていると思っているんだろう。でも、嬉しい。
グラスの隣には、フルーツみたいなものが小さな器に入れてあった。
どれも皮を剥いて切ってあるので、元がどんなものか想像できない。白いのと黄色いの。ラクエルを振り向くと、手を握って説明してくれた。
『白いものが、リグのシロップ漬け、黄色いものがベイワの実です。ベイワは採れたてですし、どちらも甘いですよ』
添えられている小さな二又のフォークで差して、リグを食べてみた。梨より柔らかくて甘い。ベイワは繊維質で、柿みたいな感じだ。どちらも美味しかった。
甘いものが嬉しくてにこにこと食べていれば、見守る二人も嬉しそうになった。
タクが器を指し、お腹をさすってみせる。お腹は減っているか、ということかも。果物で満足してしまったわたしは、首を横に振った。
『他のお食事はお持ちしなくともよろしいですか?』
大丈夫だというつもりで、首を縦に振る。否定の肯定って、伝わりにくい。
わたしが器のフルーツをすっかり食べ終えてしまったのを見計らい、タクが声をかけた。
「リオコ、キオ ヴィ ソシエンティオ ミ シエフ、プリンセ?」
『リオコさま、これから私どもの主人に会って頂けますか?』
「主人?」
「ミア=ヴェール・アルマン」
『イェドの城主、アルマン王子です』
王子。ここは王国なのだから王子がいてもおかしくないのだけど、本当に現実とは全然違う世界なのだと実感する。
――恐いけど……会わないって言ったら、きっとタクやラクエルが困るんだろうな。
それに、今はその人のお城でお世話になっているわけだし。思い切って頷いた。
ラクエルが励ますように、わたしの手をぎゅっと握る。
『少々ぶっきらぼうですが、王子はいい方です。きっとリオコさまを気に入って下さいます』
王子という言葉で頭が一杯になっていたわたしは、ラクエルが言うことを理解していなかった。気に入る、という言葉の持つ本当の意味に。
そして、それが後々まで影響を及ぼすということも。
わたしと王子の面会は知らないところで内々に進められていたらしく、承諾するとすぐに引き合わされた。漫画に出てくるような大広間に階段状の玉座があって、と想像していたのだけれど、贅を尽くしただけの普通の一室に通される。
通訳のためにラクエルは傍にいてくれたけど、タクは見張り番のように入口近くに立って、そこから先に入っては来なかった。
所在無く部屋の中央に立ち尽くしていると、ほどなく向かいのドアから颯爽と男の人がやってきた。
若い。たぶんわたしと同じくらいの年だ。黒髪を長く伸ばし、上は着物っぽくて下はズボンという感じの織のきらきらした服を着ていて、人の上に立つことに慣れた空気を纏っている。
「ミア=ヴェール・アルマン」
ラクエルが右腕を前、左腕を後ろに回して、深々と膝を折った。慌ててわたしも頭を下げる。
王子は一言声をかけ、礼を直させた。わたしを見て、にっと笑う。
――なんか……すごい迫力ある……。
タクほど色黒ではないけど、カフェ・オ・レくらいの濃さの肌。眉も濃くてはっきりした顔立ち。かなり格好いいほう。
だけど顔の造りより何より眼を惹くのは、くっきりと大きい宝石のようなグリーン・アイだ。
本当に純粋な緑。すごくきれいだ。
観察していたのは、向こうも同じだったのだろう。彼は不躾なくらいわたしをしげしげと眺めあげ、頷いた。
「タキトゥス!」
なぜか戸口に立つタクに声を投げる。わたしを見つめたまま、口早に何かを告げた。
タクは一瞬驚き、ラクエルと同じように礼をした。おどおどするわたしに、ラクエルがそっと声をかける。
『大丈夫。王子はあなたを気に入ったようです』
「気に、入った……?」
『彼が認めたのであれば、きっと天都の王も否とは言いません。大丈夫、上手くいきます』
大丈夫と二度も言われたけれど、不安が増した。
わたしの存在は、一体何なのだろう。そんなに許可を取らないといけないものなのだろうか。
「ジュヌ フィーレ」
王子が呼びかける。右手を差し出すので手を重ねれば、タクと同じように手の甲にキスをされた。この国の人の挨拶って、大胆だ。
顔を真っ赤にしていると、繋いだ手から声が響いた。
『異界の乙女よ。わが国に水をもたらし――我に王冠を授けよ』
どきんとした。口元はかすかに微笑んでいたけど、その綺麗な緑の瞳はなぜだかとても冷たくて、見ているわたしの心を一瞬で凍りつかせた。
わたしから手を離していたラクエルは気付かない。
面会はほんの僅かな時間だったのに、彼の眼差しと声は強烈に頭にこびりついて、しばらく離れてくれなかった。
王子との挨拶の後、周りは急に慌ただしくなった。部屋に戻ると、ラクエルが説明をしてくれる。
『実は、あなたとの意思の疎通を可能にする〝魔法話の指環〟というものが、西の都アクィナスにあります』
「え……」
『それは国の宝。借り受けるためには、王の許可が必要です』
そして王様に許可をもらうには、普通にお願いに行ったのでは無理だ。だからアルマン王子が後ろ盾となって、交渉を円滑に進むように算段されたのだという。
『急な話ですが、これからリオコさまには旅に出て頂くことになります。もちろん、われわれも同行いたします』
それなら少し安心だ。だけど旅ってなんだろう?
不思議そうに首を傾げるわたしに、ラクエルが続けて教える。
『まずは、王のいらっしゃる天都キヨウに。そこで許可が下りれば、アクィナスに指環を借りることができます。現在の持ち主は天都勤めですから、うまくいけばすぐに頂けるかもしれません。その後、南の聖地タキ=アマグフォーラにお連れいたします。水門の鍵が眠るとされる場所です』
なんだかとっても大変そう。唯一心が弾むのは、会話ができる指環があるってことだ。
聞くだけじゃなくて話がしたい。タクやラクエルや他の人とも。
――そうしたら、わたしが救い主の乙女じゃないって言えるかな。
がっかりさせてしまうだろうけど、世界を救うなんて無理だ。
わたしは指環を手に入れることだけを考えて、二人に頷きかけた。そして、旅の支度が始まった。
第2章完了。真紀視点にもどります。
*文中訳(いるのか?)はこちら。
「リオコ、キオ ヴィ ソシエンティオ ミ シエフ、プリンセ?」→「リオコ、俺の主人である王子に面会をしてもらえないか?」
「ジュヌ フィーレ」→「乙女よ」
〝ミア=ヴェール〟はアル王子の称号です。