20-9
ちょっと時間が遡ります。
9
タクはずるい。『俺を忘れろ』なんて、わたしの恋愛感情を頭ごなしに否定しておいて、『無事で良かった』とかお姫様抱っことか、紛らわしすぎる。
彼のやさしさは万人平等で、それはすごく美点なのだろうけど、反面八方美人だ。そのやさしさに惹かれるのは、きっとわたしだけじゃないと思う。
タキ=アチファに向かう途中、足の遅いわたしは先頭のタクからだいぶ離れてしまって、通じない会話をしながら真紀とじゃれあう彼の姿を後ろから眺めることしかできなくて、すごく胸が痛んだ。
真紀は恋愛音痴だけど、タクに一目置いているらしく、それがいつ恋愛に転ぶか不安で仕方ない。わたしが彼の特別じゃないから、余計に。
二人を見るわたしの様子に気付いたのか、ルイスが斜面を登る手を貸しながら、気を逸らすように話しかけてくる。
『リオコ、二人の住んでいた国の言葉を教えてくれないか?』
『日本語のこと? いいけど、どうして?』
『指環がひとつしかないから、いろいろ不便だろう? 君たちがこちらの言葉を覚えるのも大変だし、だったら私が君たちの国の言葉を覚えるのもいいかと思って』
つまり、真紀がマフォーランド語を覚えるのを待っていられないから、自分も日本語を覚えようってわけだ。分かりやすい理由に笑いがこぼれた。
『ルイス、一途だね』
『これが伝わらないんだけれどね』
本当、それが一番の謎だ。通じているような気もしないでもないんだけど。
『どんな言葉を覚えたいの?』
『まずは挨拶かな。あとは……愛の告白?』
『もう! ルイスってば、単刀直入すぎ!』
『曖昧に言うよりいいだろう? ごまかしようのない言葉で、きちんと伝えたいんだ』
口調は軽かったけど、青い眼は真剣だった。もうじき聖地に辿り着く。旅の終わりに、彼もなにか結論を出そうとしているのかもしれない。
――羨ましいな。
汗ではなく、嫉妬で目の前が曇りそうだ。真紀が悪いわけではないのは頭では分かっているのに、心が、否定する。なんて醜い。奈落に滑り落ちそうな気持ちを無理矢理つなぎ止めて、足元と聞こえる声に集中した。
『リオコの国では、どうやって気持ちを伝えるんだ?』
『うーん、〝好きです〟とか〝付き合ってください〟って言うかなあ。だいたい男の子からだけど、女の子からもありだよ。わたしはしたことないけど』
『〝愛してる〟とは言わないのか?』
『それは付き合った後でお互いよく知り合ってからだよ。最初から言うなんて、ストーカーっぽいし』
『そう思われるのも困るな』
わたしに合わせ、ゆっくりした歩調でやや斜め後ろを歩きながら、ルイスが笑う。
『じゃあ、〝好きだ〟って言うにはどう言えばいい?』
普通に答えようとして、指環で変換されてしまうことに気がついた。左の人差し指から外してルイスに渡し、口に出す。
「〝好きです〟」
「シュキデス?」
「す・き」
「スキ?」
こくこく、と頷くと、ルイスはわたしの手に指環を戻した。
『〝スキ〟が〝好き〟ということか?』
『そう。〝です〟をつけると丁寧な言い方になるの』
『なかなか難しいな。〝スキデス〟……』
なめらかな歩みで山道を進みつつ、ルイスはぶつぶつと何度も復唱する。その後も指環をやり取りしながら、〝こんにちは〟などのいくつかの単語を教えた。片言の日本語を一生懸命しゃべるルイスが、ちょっとだけ可愛い。
――タクなら、きっとこんなこと考えつかないだろうな。
思っていると、ルイスが唐突にその名前を口にした。
『タクは、君になにも言ってこないのか?』
『なんだか……興味、ないみたい』
『そんなことはないだろう。ヒューガラナで気を失った君を見つけたときの彼の取り乱しようときたら、普段からは想像もつかないくらいだったけど?』
『でも、タクはみんなにやさしいから』
ルイスの足が止まる。ふり返ると、青い瞳が戸惑うようにわたしを見ていた。
『彼は君の騎士だろう?』
騎士の意味がよく分かっていないわたしは、首を傾げた。
『アル王子に仕えてるんじゃないの?』
『仕えている主人=騎士の主(あるじ)とは限らない。ブーシエの生まれのものは、すべからく国の騎士であるべしとは言われるんだが、今はもっと個人に捧げることが多くて……』
再び歩きはじめながら、ルイスが言葉を探す。
『主人は職務上の契約だが、騎士がおのれの主と定める相手とは、剣の盟約を交わすことで成り立つ。もっと精神的に結びついた関係なんだ。だから主を持たない騎士の剣は、魂が欠けているとも言われる』
『剣の盟約?』
『誓いを立てるんだ。よく聞いて』
また立ち止まり、ルイスはわたしの左手から指環を抜きとった。
「――ミ ジュエリ クェ ミ ヴィ ディフェニトゥ アル エタルネル」
指環を戻して尋ねる。
『聞き覚えは?』
『ある……ような』
答えながら記憶を探る。聞いたのはかなり前だった気がした。確かベッドにいたわたしの手をとって――キスをして、そんな言葉を囁いてくれたような。
『最初のとき、かなあ?』
『最初?』
『こっちに来た夜、イェドのお城で目が覚めたあとタクと少し話したの。全然言葉は通じなかったんだけど、そのときに言ってくれたと思うよ、たぶん』
眉間にくっきりと縦皺を寄せ、ルイスがきれいな顔立ちをしかめる。
『それは、本当に最初の最初じゃないか』
『う、うん。そうだね』
『……あの堅物め、なにを考えてるんだ。そんなに分かり易いのに、なんでこじれるようなことをするのか、まったく意味が分からないぞ。それだけ覚悟を決めているのなら、さっさと思い切ってしまえばいいものを』
――えーと、こっちも意味不明。
ルイスの独り言に心で突っ込む。置き去りにされた気分で、ちょっとふくれた。
『ね、なあに? 今のが騎士の盟約?』
『ああ、盟約のための誓言――誓いの言葉だ』
『どんな意味?』
その問いに、なぜかルイスはにやりと意地悪く口の端を上げた。
『それは私からは答えられないな。彼に聞くといい』
『どうやって?』
『教えてあげるから、言葉を覚えて』
やっぱりルイスって、Sなんだよね。なぜだか今度はわたしがマフォーランド語を習う番になり、覚えると、またわたしが別の日本語を教えて。慣れない発音にお互い苦労しながら、二人でそうやってしばらく言葉の教えあいこを続けた。
そうしながら、わたしの中で漠然としたひとつの想いが形を成していく。
タクが本当に、わたしを騎士の主に望んだのなら。
騎士が生涯でただ一人選ぶという、剣の主に選んだのだとしたら。
――わたしは、少しでもタクの特別になるのかもしれない。
かすかに抱いた願い。それは、その夜の告白で、あまりにもあっけなく簡単に打ち砕かれてしまったけれど。
『――好きだと勘違いしているだけだ』
『――俺のことは忘れろ』
『――ただの護衛にすぎない』
投げ返された、いくつもの拒絶の言葉。だけど、その中に彼自身の気持ちは含まれていなかった。そのことをどうとっていいか、わたしの答えはまだ出ない。
――……なんにも分かんないよ。
分からないのなら、することはひとつだ。
過去とも呼べない出来事を思い出していたわたしは、生温かいシャワーの雨に打たれたまま、そっと瞼を開いた。壁のタッチパネルでシャワーを止め、〝ドライ〟に切り替える。すぐに銀色のボールは、宙に浮いた状態で温風を噴き出して回りはじめた。あっという間に、体も髪も床まで乾く。
ふわつく髪を手ぐしで整え、脱衣所で白い前合わせのワンピースに着替える。袖ぐりが筒状で、洋風の浴衣のようだ。貧弱なわたしの体も、やさしく包み込んでくれる。
レインの言うとおり、わたしは色仕掛けに向いていない。アマラさんや真紀のような女性的な曲線とは程遠い体つきだ。
だけど、今のわたしはいろんな意味ですごく汚れている気がして、どうしても清めたかった。清潔な澱みない気持ちで、もう一度タクと向かい合いたかった。
鏡の前に立ち、荷物の中から化粧水と乳液を出して顔と首に少量はたく。それ以上はせずに、唇にトリートメント用のクリームを軽く塗った。お化粧ゼロ。この顔で再告白なんて、恐すぎるだろうか。
――だめだめ、余計なこと考えないっ。
カバンの底に入れた肌身守りを、両手でぎゅっと握る。ぺしんと頬を叩いて気合を入れ、勢いよくバッグを締め直した。ピンクのクマが宙を跳ねる。そして、ドアを開けた。
ベッドに座っていたタクは、やっぱり落ち着かなかったみたいだ。わたしを見た途端、はっと腰を浮かせる。すかさず言った。
『タク、話があるの。そっちに行ってもいい?』
『……ああ』
タクが、ベッドサイドの左側に寄って座り直す。空いた空間の端っこに腰をかけると、背が低いから少し足が浮いた。横を向いたまま切り出す。
『あのね』
なにから言おう。息を吐いて、止める。
『〝ミ ジュエリ クェ ミ ヴィ ディフェニトゥ アル エタルネル〟って、どういう意味?』
訊いた途端、タクが凍った。この凍りつき具合は、わたしが『乙女じゃない』って口走ったときで二度目だ。
『誰から……それを?』
『ルイスが教えてくれたの。だけど、意味はタクに教えてもらえって。最初に会った日に言ってくれた言葉だよね?』
重ねて問えば、タクはものすごく気まずそうに顔を背けた。広い手のひらで、さらに表情が隠れる。気まずい沈黙に、さすがに不安になった。
『ごめん、変なこと訊いた?』
『……いや。君の口から出るとは思わなくて、驚いただけだ。今のは騎士の誓言だ。滅多なことで耳に入る言葉じゃないから、一瞬――』
ふう、と大きな息。まだ考えるように額に手を置き、タクがこちらを見る。
『一瞬、誰かが君に剣を捧げたのかと思った』
動揺のポイントがちょっとずれていた。なんで、わたしが他の人の剣の主に選ばれるなんて思うんだろう?
『今のところ、言ってくれたのはタクだけだよ?』
『そうだな。俺も、もっときちんと公言しておくべきだった。君の騎士は俺だと』
――〝君の騎士は俺〟。
頭の中でその台詞が、鐘の音のようにくり返し鳴り響いた。
『なんだか……すごく、特別な気がするんだけど』
『そう、だな。騎士は、剣の主を生涯ひとりしか選ばないから』
その言葉で堪えていたものが切れた。
『なんでっ! なんで簡単にそんなこと言うの?! わたしの気持ち、あれだけ否定したのに、なんで――!』
掴みかかりそうなくらいの勢いで怒鳴ると、タクが瞬時目を伏せた。それでも切れ長の大きな双眸は、逸らされることなくわたしを見つめ直してくる。
『簡単に言ったわけじゃない。どの言葉も……。リオコ』
呼びかけ、伸ばされた右手が、そっとわたしの髪に触れた。
『言い訳をさせてくれ。俺は言葉が下手だから、うまく伝わるか自信がないが……俺は君を守りたかった。だから、君を守るために君を傷つける言葉を言ったんだ。矛盾しているよな』
『なに……それ』
『初めて会った時のことを覚えているか? 君は泣いて怯えて、すごく家に帰りたがっていた。だから俺は君を守りたいと思ったし、無事に家へ送り届けようと心に決めた』
『あの子の代わりに?』
『それもあるが、同一ではない。俺は君を守ることで、この剣と俺自身にはじめて価値を見出せたんだ。だから君の傍にいられるのは嬉しかったし……それがこのまま続けばいいと思わなかったわけじゃない』
藍色の眼に湛えられた複雑な想いの奥を読み取ろうと、彼を見つめる。でも続けられたのは、まったく予想もしない言葉だった。
『だけどスオウシャの姫から、君たちが未来で〝運命のすべてを恨むように泣いている〟と告げられたときに思ったんだ。ここへ来たことが間違いなら、君はこの世界と深く関わりあうべきじゃない。そのために、俺の存在が足枷になってはならないと』
喉が震えた。体の芯が灼けるように痛い。
『なんで、勝手に決めつけるの?』
『君に未来を教えて、後悔するから気をつけろとでも言うのか? 君を困らせるのが分かっているのに、何を言えというんだ?』
苛立たしげに問い返されれば、反論する声が喉で止まった。
『リオコ。君は飛行船で俺に〝正直でいてくれ〟と言った。それを守る気持ちに、嘘偽りはない。だが、〝正直である〟ことと〝すべてを話す〟ことは違う』
『どこが違うの?』
『君が知ったところで、どうすることもできないものもあるからだ。ヒューガラナの襲撃のことも、アルマン王子が隠匿した荷物のこともそうだ。
終わってしまった後なら何とでも言えるが、もしこの先で同じことが起きたとしても、俺はすぐには君に告げないだろう。信頼や誠実さの問題ではなく、知ることで君自身の負担や危険が増すからだ。事の成り行きの目途もたたないうちに、俺は君を下手に不安がらせたくないし、危険なことに巻き込みたくない』
『……』
『君の生まれ育った環境を俺は知らない。だが、世の中には知らないほうが良いこともある。君自身ではどうやっても解決できない問題を、丸のまま投げつけるようなことを俺はしたくない。それが、俺の〝守る〟というやり方だ』
かつてないほど熱心に、一気にタクが語った。その真摯な口調に、うなだれてしまう。
――全然違ってたんだ。
タクがわたしを想ってくれる、その気持ちの根底にあるのは、強い責任感だ。異世界に突然転がり込んだ小娘に、どれだけの配慮がなされていたんだろう。わたしの恋愛感情なんて、所詮そのうえに胡坐をかいていただけの飾り物にすぎない気がした。
『ごめんなさい、タク。わたし勝手なことばかり言って……』
『君が謝ることはない。君を不安させたのは、俺のいたらなさだ』
髪に触れるタクの手が、その逞しさとは正反対の繊細さで撫で下ろす。あたたかい指が頬を滑り、その感覚に自分が泣いていたことに気がついた。
『俺は君を泣かせることしかできないんだな、いつも。君の笑顔が見たいのに』
『だって、タクいじわる言うし……なのにやさしいし。すごく、混乱するの』
『すまない。たぶん、俺自身がずっと迷っていたせいだ。自分の気持ちからずっと目を逸らし続けてきたから。リオコ』
名を呼び、タクは苦いものを吐露するように低く囁く。
『俺は、レインが〝君たちは帰ることができない〟と告げたのを聞いたとき、正直嬉しかったんだ』
『――え?』
『二人が帰るべき場所を奪われたというのに、軽蔑してくれてもいい。それでも、これでやっと自分の気持ちに背を向けなくていいと、きちんと君の傍にいられると思ったんだ。だから』
髪を撫でていた手が肩先にかかり、ぐっと抱き寄せられる。目を閉じ、なにかに祈るように、タクがわたしの髪に額を押し当てる。
『この先もずっと、君の傍にいたい。君の騎士でいさせてくれ』
『どう、して……?』
『君を守ることが俺の存在する意味だから』
心臓が弾け出しそうだった。近すぎる彼の顔に、眩暈がするほど恥ずかしいのに、目が離せない。髪の毛の一本一本に耳があるみたいに、全身が次の言葉を待っている。
もっとはっきりした一言をと欲張るわたしの気持ちとは裏腹に、タクは、そっと両瞼を持ち上げて照れたように微笑んだ。
『あの言葉は〝私は永遠に貴方を守ると誓う〟という意味だ。この誓いは、一度立てたら覆すことはない。言葉も風習も知らない君に捧げたのは、少しずるかったな』
『……ううん、そんなことは』
ないけど、と続けようとして、びくっと体が震える。タクがもう一方の手を、わたしの頬を包むように添わせた。
『俺は、卑怯な男だ。絶対に君を故郷へ帰すと誓ったのに、帰れないと知ったとたん態度を翻すなんて、騎士としては失格だ』
――どういう意味? 期待しても、いいの?
心の中で、不安と希望がせめぎ合う。
『それに、わりと嫉妬深い。もし君が心変わりして逃げたら、この世の果てでもあの世までも追いかけていく。それでも……俺を君の騎士にしてくれるか?』
『……はい』
至近で響く重低音の囁きに、浮き上がる気持ちを必死で抑える。
――だめ。いま期待しては、だめだ。
彼にとっては騎士と主。それだけの関係なのだから。
『じゃあ、もう一度きちんと盟約を結ばせてくれ』
『どうするの?』
『俺がさっきの誓言を言って剣を渡すから、〝汝をわが生涯の剱(つるぎ)と認めます〟と言って、口付けて返してくれ。いいか?』
『うん、分かった』
タクはわたしから離れると、長いマントをざばりと翻してベッドに座るわたしの前で膝をついた。腰の長剣を鞘ごと剣帯から外して、それを右手に水平に持ち、左手を拳にして床につき、こちらを見上げる。
『タカトウ・リオコ。私は、永遠に貴方を守ると誓います』
差し出された剣を受け取ろうとして、あまりの重さに上体が前にのめる。両手で持ち上げることができずに腕を震わせていたら、『膝に置いていいから』と言われた。
仕方なく剣を横向きに膝に乗せ、両手を添わせる。
『タキトゥス・アルディ・ムシャザ。汝をわが生涯の剱と認めます』
少しだけ柄の部分を持ち上げ、唇を触れた。冷たいのに、どこかぬくもりのある感触。未知の金属でできたそれは、使い込まれてところどころ磨り減り、余計に逞しく感じた。
タクの分身にも思えるそれを両手で持って返そうとすると、彼の腕が伸びてくる。だけどその手は膝の上の剣を素通りして、わたしの体の脇に置かれ、あっと声をあげたときにはもう、唇が塞がれていた。
思いのほか柔らかな、やさしい拘束。目を閉じて、その意味を充分知らされた後で、それは言葉として耳元で告げられた。
『好きだ』
『……わたしも、大好き』
その答えに、顔を寄せたままタクはかすかに笑い、これまでの距離を埋めるようにわたしの髪に指を絡ませて引き寄せる。髪から離れないままの親指が、また目尻に浮かんだ涙を拭った。
『やっぱり、タクずるい』
『どこがだ?』
『だって、いきなり欲しかった言葉をくれたりして』
『ずるいのは君だろう。俺がいる前でツークス領主に言い寄られたり、ルイスと親しくしたりしていたくせに』
『そ、それは……』
『それに人が必死で我慢しているのに〝好きだ〟と言ってくるし、挙句の果てに前に恋人がいただと? 異界へ帰す気があれで一気になくなったよ』
――な……なんで、わたしが責められてるの?
急すぎる展開に、頭の中でクエスチョンが飛び交う。それなのにタクは、床に膝立ちになった状態で、鼻が触れ合うほどの近さで文句を言い続けた。
『帰れないというから、これでやっと落ち着いて口説けると思ったのに、湯浴みをするから待てと言うし、出てきたらこんな薄物を着ているし。君は、どこまで俺の忍耐を試せば気が済むんだ?』
『……タク、怒ってるの?』
『君が俺の気持ちを信じてくれるまで、離したくないくらいに』
そう告げる藍色の瞳は笑っていた。そのあたたかさに胸が一杯になる。泣きそうになり、急いで指先で睫毛の先の雫を払った。
『じゃあ、しばらく怒ったままでいいよ』
『……そうだな』
答えるタクは、やっぱり笑顔だった。わたしも笑って、今の幸せな気持ちを閉じ込めるように、彼の首に両腕を回す。頬に零れ落ちた涙は、不思議なほど温もりに満ちていた。
甘い雨音が聞こえる。それは、いつしか音のない雪の降りしきる景色に変わっていた。
タクの腕に包まれ、わたしは久しぶりに懐かしい夢を観た。雪の中、小学校の低学年だったわたしに、お守りと一緒に渡された言葉。
「――辛いことがあっても、絶対理緒子なら乗り越えられるよ」
――ふふ、わたし頑張ったよ。乗り越えたよ……ねぇ。
おぼろな面影にそっと呼びかける。
分かっているよ、というように、その人が首を横に傾けた。丸い毛糸の帽子の下で、肩先にかかるきれいな黒髪がさらりと揺れる。やさしい笑顔が、涙ぐんでいた。
「――……行きましょう、理緒子」
手が引っ張られ、わたしは隣を見上げる。まだ若いママの姿。その隣にはパパ。
――じゃあ、あの人はだれ……?
泣き顔なのに、その人は太陽よりもまぶしく微笑んでいる。
はらはらと舞い散る白い雪の粒。
「――たとえ、この先なにがあっても」
ああ、この人は。
「――あたしは理緒子のxxxだから」
夢の中に消えた言葉。だけどそれは、忘れていたわたしの中の大事な欠片を確かに埋めた。
20章終わりです~。
陰でこっそりルイスのスキルがUPしました(笑)。
最後タク&理緒子の間になにがあったかは、ご想像にお任せします…。