20-8
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お姫様抱っこのまま、わたしをあの青い部屋に連れて行ったタクは、大きなベッドの上にわたしの体をぽすんと載せた。クッションは固めだけど、自分が羽根になったみたいに体重が受け止められる。安物ではないと感じさせる心地よさ。
絹に似たシーツもなめらかな手触りで、何百年何千年も使われていなかったとは思えない。一体どれだけの時間と手間とお金がこの[まほら]に投じられたのだろう。
現実を把握しきれなくて、ぼんやりと室内を見渡すわたしの傍で、立っていたタクがどこか慌てたように身をひるがえす。
『なにか飲み物を探してくる』
『あ、うん』
大股に部屋の隅の方に向かったはいいけど、そこにある扉らしきものは、取っ手もなければボタンも鍵穴もない。当惑して固まったタクの後姿に、わたしはベッドを滑り降りて横から覗きこんだ。壁を四角く区切ったそこは確かにドアに見えるのに、手で触れても何も変化がない。
『センサーが点かないのかな?』
故障かと思って前のほうでひらひらと指を動かすと、細長い光が横にさっと過ぎ、いきなりドアが開いた。その先は洗面所だ。
『なんだろう? 変なの』
《――君は鍵を持つ者として認証されたけど、彼はされていないからね》
わたしの独り言に、突然レインの声が答えた。見回すけど、彼の姿はない。
《僕はこの[まほら]のシステムそのものだと言ったでしょう。君たちが何かをしようとすれば、すぐに分かる》
『だったら、すぐに開けてくれれば良かったのに』
《彼に対しては反応できないんだよ。地球人じゃないから》
変なの。すごく不便で不自然。
『タクとルイスも認証してよ。使用者の命令は絶対なんでしょ?』
《結構システムの根幹に関わることなんだけど……まあ、今回だけ特例ということなら》
語尾が終わると、天井からタクに向かって、金色のきらきらした光の粉が舞い落ちてきた。彼の肩や髪を通り抜け、光が溶け入る。最後の一粒がなくなると、再びレインの声が聞こえた。
《それじゃ、ごゆっくり》
皮肉な香り漂う台詞に、思わずタクと顔を見合わせて苦笑してしまう。恥ずかしくなり、ごまかすように開いたドアの先を覗き込む。するとタクが手で制して、わたしに待つように言った。
『危なくないよ? たぶん』
『君は他人を信頼しすぎる。用心に越したことはない』
『でも、[まほら]の鍵はわたしなんだし』
『それはレインが言ったことだろう。自分の身を守りたいのであれば、少しは疑いを持て』
『それじゃあ……タクたちも疑えってこと?』
その質問にタクは少し黙り、『そうだ』と頷いた。それきり会話を拒絶するように腰の剣に手をかけたまま先に洗面所に入り、奥のバスルームらしき小部屋を開けて誰もいないことを確認する。
『大丈夫だ』
――だから危なくないって言ったのに。
心の中でぼやきつつ、わたしは洗面台に立った。蛇口らしきものはないけど、白い大理石模様のテーブルには楕円の窪みがあって、洗い桶っぽくなっている。
――水、出るのかな。
きれいに磨かれた窪みに手をかざすと、側面の空気孔に見えた小さな穴からシャワー状の水が出てきた。見ていたタクが無言で驚く。
水は数秒で止まり、持ち上げた手に洗い桶の枠から一斉に空気が吹きつけられた。残った水滴が一瞬で乾く。
『うわ、早っ』
顔を上げれば、壁だったそこは鏡に変わっている。体を離すと、ただの壁に。近づくと鏡に。
『おもしろ~い』
遊んでいたら、背後からタクの苦笑が聞こえた。
『すごいな。これが〝過去の文明〟か。俺にはどうなっているか、さっぱり見当もつかない』
『わたしにも分からないよ?』
『だがリオコは、そこから水が出るのも、あの壁に絵が出る仕掛けにも驚いていなかっただろう?』
『うん、似たようなのはあったから』
『そうか……本当にまったく違う文明なのだな。繋がりがあるのだと言われても、想像もつかない。リオコには今まで随分、不便な思いをさせてしまったのだな』
ぽつりと洩らされた終わりの言葉に、驚いてわたしはタクを振り返った。
皮肉で言ったのでも、卑下したのでもない。純粋にタクは、感じたことを喋っただけのようだった。何もてらうことなく自然と他人の立場に身を置いて考えられる人なんだと、今さらながら感じる。
その配慮の深さが彼の善さであり――ときどき、わたしの理解を超える部分でもある。
彼との溝の深さを肌で感じ、わたしは自分の腕をぎゅっと握った。ぎこちない空気をまぎらわそうと、体を動かして部屋のあちこちを見て回る。
奥の部屋は、浴槽はないけど明らかに浴室で、ドアの前に立つと半透明のパネルが現われ、水温や中の環境設定が変えられるみたいだった。部屋の天井付近にある銀色のボールが、シャワーのようだ。
――シャワー浴びたいな。
そう思ったけど、さすがにタクには言い出しにくかった。代わりにさっきに洗面台で手と顔をしっかり洗い、何度か口をすすぐ。しばらくぶりの無味無臭の水に、元いた世界を思い出した。こちらの水は、沸かさないと飲めないものがほとんどだったから。
眉のなくなった自分の顔をぼんやりと眺めながら、ハンカチで拭う。めりはりのない顔立ちは、化粧を落とすと、すごく子どもっぽい。小さなハンカチを押し当てたまま、鏡越しにタクに視線を向ければ、彼の姿はなかった。
――……えっ!
焦って、洗面所を飛び出す。タクは、持って来ていたわたしの手提げ鞄を丸テーブルに置き、広いベッドの手前側に浅く座って考え事をしているようだった。わたしに気付き、目を上げる。
『だいぶ落ち着いたようだな。良かった』
『う、うん。ありがとう』
『じゃあ、俺はこれで』
立ち上がり、出て行こうとするタクを慌てて引き止める。
『え、ちょ……タク。い、一緒にいてくれないの?』
『さすがにまずい。幸い部屋はたくさんあるみたいだし、君もひとりのほうが落ち着くだろう?』
それは確かにタクと一緒だったら、いろんな意味で落ち着かないけれど。
『で、でも、ひとりだと心配だし』
『心細かったら、声を掛ければいい。すぐ隣の部屋にいる』
タクの答えはきっぱりしていた。あのとき体と一緒に掬い上げられた浮き立つ気持ちが、急激にぺしゃんこにしぼむ。
――壁越しになにを話せって言うの……?
昨日のわたしの言葉は、彼にはなにも響かなかったんだと思うと、情けなくて泣けてきた。哀しい。やるせない。悔しい。
負の感情に傾いたシーソーが、部屋を出ようとする広い背中を見た途端、大きく音をたててへし折れた。
『ま、待ってっ!』
呼び止める声がひっくり返る。突然の制止にタクの足は止まったけれど、それ以上なにも考えていなかったわたしの頭は真っ白になった。
『え……ええと、わたし、今からシャワー浴びてくるから、終わるまで待ってて!』
――わ~~っ。もう、なに言ってるんだろ、わたし。
『や、その、か、体を洗ったほうが、もうちょっと気分も落ち着くかなあって。だ、だから、ちょっとそこで待っててっ』
キングサイズのベッドを指差すと、タクがおぼつかなく頷いて引き返してくる。
わたしは小走りになって、自分の荷物をテーブルからひったくると、胸の前で抱えた。絶対に困惑しているはずのタクの表情を見るのが怖くて、絨毯から目が離せない。
『べ、べつにすごく汚いとか、そゆわけじゃないんだけど、でもね』
『分かった。待ってる』
ぱっと顔をあげると、ベッドに腰掛けたタクは、苦笑とも言える微笑みを見せていた。全身が熱くなる。
『す、すぐ戻るから!』
『ああ』
荷物を押し抱いて、また小走りに浴室に駆け込む。不安になり、そっとドアの隙間から窺うと『逃げないよ』と低い声が再び苦笑した。
『ここにいるから』
『……うん』
そんな小さな心配りが嬉しい。ドアを閉め、とろけそうな気持ちにひとりふにゃふにゃと浸っていて――気がついた。
――これって……まさか最悪のパターン?
わたしのタクへの気持ちはバレバレ。さらに告白してふられた。それなのに、『シャワー浴びてくるから待ってて』なんて。
『わたし……痴女?』
ドアにすがりついていた体が、ずぞぞぞ、と床までずり落ちる。アメーバ並みにぐんにゃりと落ち込んだわたしの前髪の先で、きら、と光の粉が舞った。
《自分でそういう結論に達する人もめずらしいと思うけど?》
『……覗き見しないでよ、レイン』
今度は姿を現わした[まほら]のメインコンピュータの幻影に、うらめしく眼差しを送る。両膝を揃えてしゃがみこみ、同い年くらいの秀麗な顔立ちが、間近でわたしを見下ろした。
《いくら僕でも心配するよ。君たちは予想外な性格だしね》
『ごゆっくりって言ったくせに』
《ゆっくりしてるじゃない。床にへばりついてるけど》
両手をついて勢いよく頭を振り上げれば、レインの顔にぶつかりそうになるけど、彼は一瞬で避けて少しだけ後ろに退った。
《色仕掛けって、合わないと思うよ?》
『……分かってるもん。タク、ちょー真面目だし』
《君にも、似合わない》
わりと真面目な顔で言われた。元の造作がいいから、ちょっとどきっとする。海の色の瞳から視線を外し、床に落とす。
『……レインは、好きな人いた?』
《[まほら]が出航するまでの二千年分の恋愛データならあるけど?》
やんわりと話を逸らされた。天使の美貌に皮肉を滲ませて、元は人間だった光の幻影は、膝に載せた握り拳に頬を当て、首を傾げてわたしを窺う。
『データなんて意味あるの?』
《統計学を甘くみないでよ? 占いの多くが統計的な数値に因るものだ。そして、占う内容のほとんどが恋愛相談だ。といっても、異世界人同士の恋愛は、残念ながらデータにはないけど》
『前の乙女は?』
《由梨亜は君と全然違うよ。ぎゃーぎゃー騒がなかったし、護衛をここへ入れてくれなんて言わなかった》
冗談っぽくレインは言ったけど、本当なんだろうと思った。二つ上だと聞いてたけど、[まほら]であんな衝撃的なことを知っても、ひとりでじっと耐えていたってことが想像もつかない。二年後のわたしでも、絶対に泣いていそうなのに。
『大人、だったんだね』
《そういう性格なんだよ。なにかにぶつかったときに、君たちみたいに脊髄反射の感情で反応できない。一瞬止まって、考えて、そこから動く。動きはじめたら止まらないけどね》
『そうなんだ』
《頑固なのは君たち以上。彼女がマフォーランド人として暮らすことを選んだのは、相手の男のストーカーばりの粘り勝ちだ》
『なにそれ?』
小さく噴き出すと、レインも天使の顔をほころばせた。
《やっと笑ったね。面白い話の続きを聞きたければ、体じゃなくて頭をすっきりさせといで?》
眼差しで、ドアのほうを促される。わたしはまたうつむいた。床についた膝頭を両手でぎゅっと掴む。
『別に、今さらタクとどうなりたいとか思わないんだよ? あ、えと思うけど、そこまで強引にどうかしたいわけじゃないの。ただ……ちゃんと話を、したくて』
《じゃあ、彼にそう言えばいい》
『話したくないって言われたら?』
《そんな器の小さい男は忘れてしまえばいい。……理緒子》
ごく自然なイントネーション。初めてわたしの名を呼び、光の少年は碧の双眸を細めた。
《君が今不安に思っているのは、全部〝もし〟や〝たぶん〟の話だ。だけど、僕のように人の考えも読めない君が、本当はどうなのかを確かめる手段はひとつしかない。話すことだ》
『でも……』
《いいかい。二人の間に起こった問題は、君ひとりで解決できるものじゃない。むしろ二人の問題なのに、君ひとりが勝手に結論を下してしまうほうが、相手に失礼だとは思わない?》
そんな考え方ははじめてだ。わたしの知らない時間を生きてきた少年が、微笑む。
《話をしておいで。どうしても無理だったら、神さまから二人で話をするように託宣が下ったとでも言えばいい》
『……強引』
小さく笑えば、彼は悪戯そうに片目を瞑る。
《使えるものはなんでも使うべきだよ。〝求めよ、されば与えられん〟と言うでしょう。欲しいものを指をくわえて見ていても、手には入らない。
君たちの時間は短い。悩むくらいなら、ためらわず手を伸ばせばいい》
光でできた繊細な手が、わたしの頭に乗り、髪を撫でる。ぬくもりのない、だけどやわらかな感触。わたしは頷いた。
『分かった。だけどやっぱり、シャワー浴びてくる』
《なんで?》
『使えるものはなんでも使えって言ったでしょ?』
《そういう意味じゃなくて》
『いいから。あ、着替えとかある?』
《脱衣所の上棚に部屋着があるけど。そうじゃなくてさ》
『なら大丈夫ね。ほら、あっち行ってて』
鍵のある左手で、目の間にしゃがむ少年の肩をよいしょと後ろへ押す。うわっと声をあげ、レインが壁を抜けてひっくり返った。壁から両足の突き出たホラーな体勢のまま、うう、と呻く。
《……ふられちゃえ、とか呪ってもいい?》
『だーめ。ほら、早く出てって。絶対、盗み見しちゃだめだからね?』
上下逆を向いた足を壁に押し込む。どういう仕組みなのか、光でできた少年の体は、難なく白い無機質な壁の向こうに消えていった。
――よし、完了。
脱衣所に立って、服の裾に手をかけ、もう一度宙を見渡す。
『レイン、見ないでよ?』
《僕もそこまで命知らずじゃない》
声だけが降ってくる。空中をきっと睨んだ。
『どういう意味よ?!』
《そのまんまだよ。ま、結果報告愉しみにしてるよ》
それきり声は途絶える。気を取り直して衣類を脱ぎはじめると、清潔なフローリングに細かな灰色の砂がぱらぱらと零れ落ちた。
――せっかく着替えるんだし、洗濯していこうかな。
聖地にいるにしては、あまりにも緊張感がなさ過ぎるかもしれない。
だけど、わたしは今日ここで自分の住んでいた世界の未来を知り、この世界の過去を知り、閉ざされてきた歴史を知った。そして、雨を降らせることを決意した。だから今だけは、少しくらい気を抜いても許されるんじゃないかと思う。
何色でもない透明な雫が一粒、左目から滲んで転がり落ちた。拳を口に当て、喉の震えを押し込める。
――大丈夫、わたしはまだ前に行ける。
こんなところで膝を折りたくない。レインの言うとおり、ためらわず手を伸ばして走り抜けるために、わたしは淡い蒸気のたつ浴室へと向かった。
ごめんなさい、次で章結です。