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いろんなことを考えているうちに、いつの間にかまた眠っていたらしい。
瞼を開けると、カーテンの隙間から差し込む淡い光の帯が目に入った。代わりに部屋の明かりは、かすかに香りを残して小さく消えかけている。
ベッドの下を探ると、履いていた革靴が見つかった。それを足先に引っ掛け、窓辺の帳をそっと引き開ける。
薔薇色の空。見事な朝焼けだ。時間は分からないけど、夜が明けたばかりみたい。
寝た時間はそんなにないはずなのに、緊張のせいか目が冴えている。見ると窓際の机に置かれたグラスには、なみなみと水が満たされていた。たぶん、タクの心遣い。
彼の優しさに、ちょっと頬が緩む。グラスを両手にとって少しだけ飲んだ。
異界。渡り人。伝説。水門の鍵。
昨日聞いたばかりのキーワードが頭をめぐる。こちらの言葉も通じれば、もっときちんと聞けたのに。
でも、話せないのだから仕方ない。ラクエルの魔法で、向こうの言葉が分かるだけでもいいと思わないといけないんだ、きっと。
グラスを戻し、わたしは部屋の中を見て回ることにした。泣きながら寝たので、顔がごわごわして洗いたかったこともあった。
部屋は落ち着いた色味の調度品でまとめられていて、天井は高くて開放的。壁は石だけど太い木の梁が渡してあって、なんとなく目になじんだ雰囲気だ。
――洗面所、ないのかな……。
ベッドの奥は一段低くなってソファが置いてあり、リビングのような感じだけど他に部屋はない。片隅に大きなタペストリで区切られた空間があるけど、水道が繋がっているようではなかった。
仕方なく壁にかかっていた姿見の前に立ち、ほどけかけていたセーラー服のリボンを結び直して、皺の寄った制服を気休めに引っぱる。
癖のある焦げ茶色の髪は腰がなくて、手櫛で整えると、すぐにいつものように肩のあたりでくるくるとまとまった。失くしてしまった鞄があれば、眉を描き直したりできるのに、今はもうほぼすっぴんだ。
だけど今は、お化粧よりも重大な問題がある。
――トイレとかお風呂って、どうすればいいんだろう。
基本的な生活が分からなくて途方にくれる。考え込んでいると、部屋のドアがノックされた。
「はい」
「リオコ?」
タクが顔を出す。ベッドを指差し、寝ていなくていいのかと目顔で聞いてくる。
「ううん、大丈夫。あの……顔、洗いたいんだけど」
洗う、と言いながら、水を顔にかける動作をくり返す。分かったらしく、タクが部屋の外に手招きをした。
絨毯の敷かれた立派な廊下。部屋を出たすぐの横の壁には、最初見た女の人と同じような服装をした人が三人、その向こうには鎧を着た兵士みたいな人が等間隔に並んで立っている。
早朝のせいか、壁に掛けられた灯はまだ赫々(あかあか)と燃えて、廊下の奥は恐いくらい静まり返っていた。
――みんな、昨日の夜からずっとこうしてるのかな?
そういえば、タクも寝ていないような雰囲気だ。
タクは壁際に立つ女性の一人に声をかけ、彼女についていくようにわたしを促す。
「タクは?」
「シ インフェリ トゥエ バニ。リオコ、イリール」
どうやら彼はここに残るみたい。
――知らない人と二人きりはちょっと嫌だな。
そう思っていると、顔に出たのか、タクが困ったように頷いた。わたしの背中を包むように手を回し、左手を差し出す。その手に手を重ねると、にこりと笑ってエスコートしてくれた。
――うわ。なんか、どきどきする……。
わたしは赤くなる頬を気付かれないように祈りつつ、白い布で覆った籠を持って先導する女性の後ろをタクと一緒についていった。
近くの階段を下りると、なんだか石造りの洞窟みたいな場所に出る。明かりはついているけど、薄暗い。やっぱりタクについてきてもらってよかった。
隣を見上げると、安心するように微笑まれた。この笑顔って本当に薬みたい。心が楽になる。
洞窟に足を踏み入れた途端、なんだか前から来る空気が熱くなった気がした。床や壁が、水音がするくらい湿り気を帯びている。道の行き止まりはやや広い円形の空間で、小高い岩が丸く積まれていた。
タクがそれを指差して、バニ、と教える。
わたしはようやく、目の前に現われたその正体を悟った。
「お風呂だ……」
しかも、この匂いは温泉。一気に嬉しくなる。
――うそ、すごい。異世界に来て温泉に入れるなんて……。
タクが身振りで、外で待っていると告げて出て行く。
そうか、タクが最初ついてこようとしなかったのは〝女湯〟だったからかもしれない。大胆なことを言ってしまったと、少し恥ずかしくなった。
侍女らしい女の人が、持って来た籠のひとつを差し出し、脱いだ服を入れるように示す。中にはタオルと湯桶と石鹸。準備万端だ。その上に重ねてあるもうひとつの籠には、見たこともない白い服が入っていた。これに着替えろっていうことかもしれない。
侍女の人が背を向けてくれ、急いで服を脱いだ。
湯船は、一見岩を積み上げただけのように見えたけど、中は木製。部屋の外まで続いている樋(とい)からお湯が流れ続けて、湯船から溢れている。世界が乾燥していると聞いたわりに、すごく贅沢だ。
お風呂に入りたくて仕方なかったわたしは、用意してもらったお風呂セットをもち、樋から流れるお湯で掛け湯して、湯船に足を浸した。
もうもうと湯気がたってすごく熱そうだったけど、意外にそうでもなくて、少しぬるめの三十九度くらい。体感温度だけど。
透明なややとろりとしたお湯に肩まで浸かると、もう最高だった。どこかのおじさんみたいに、「うへえ~極楽極楽」なんて声が出そうになる。
――やっぱ温泉最高ぉ~。
すぐ傍に侍女の人がいるのが気になるけど、そちらを見ないようにしてお風呂を堪能する。
足を伸ばしても全然余裕なのが嬉しい。背は高いほうじゃないけど、マンション暮らしだからお風呂はせまめなんだ。いつも足を折って入ってる。
「ふうぅ、いい気持ちぃ」
体が完全に温まってから一度出て、湯船の陰で体と髪を洗い、もう一度浸かった。岩屋の造りが秘境の温泉みたいで心地よくて、のぼせる寸前まで湯船から離れられなかった。
お風呂大好き。女の子に産まれて良かった、としみじみしてしまう。
ちょっと長湯してしまったけど、侍女の人は辛抱強く待っていてくれた。きっと待つのに慣れているんだろう。ちょっとのことでおろおろしてしまうわたしには、向かない職業だ。
籠の中には、服っぽいものの他に下着みたいなものも入っていた。体を拭き、マイクロミニの短パンを履く。ブラジャーはなくて肩紐のないキャミソールみたいな感じ。頭から被ってもごもごしていると、侍女の人が来て、フロント部分の紐を体に沿うように締めてくれた。
恥ずかしかったけど優しそうな人でよかった。拭いただけの髪から、残っていた水滴がぽたりと落ちる。
「あ、ごめんなさい」
慌てて手にしたタオルで、侍女の人の腕や肩を拭く。その人は少し驚いてにこりと笑い、わたしの髪に新しいタオルを被せて丁寧に水分を取ってくれた。
こんなに親切にしてもらえるのは、救いの主だと信じてるからなんだろうな、きっと。
――期待されても困るよ……。
タクも同じなのかな。戸惑うけど、正直お姫様扱いはこそばゆくて嬉しい。女の子なら誰でもお姫様に憧れるものだから。
白いドレスは着心地のよいシルクかなにかで、すべすべとした質感。侍女の人があっちを引っぱって、こっちを引っぱってとすると、胸元はふわりと、腰まではきゅっと締まって裾が広がるきれいなAラインのシルエットができる。すごく素敵。
その上に、マーガレットに似た袖だけの短い上着を羽織って出来上がり。足元はスリッパみたいな布製の靴を履いた。
――わあ、本当にお姫様の気分。
侍女の人が、だいぶ乾いたわたしの髪を櫛でとかし、結ぼうとしてやめた。
そうなんだよね、わたしの髪って、本当に貧相なんだ。ブローして巻いてスプレーしても、夕方にはくたんとなる。いわゆる猫っ毛。色はもともと目と同じ艶のあるダークブラウンで気に入っているけど、この髪質だけは悩みの種だ。
服装には似合わないぺったりした髪のまま、侍女の人に連れられてお風呂場を出る。出口には約束どおり、タクが待っていてくれた。その横にはボブヘアの魔法士、ラクエルの姿もある。
二人はわたしの格好を見て、目を丸くして微笑んでくれた。変な顔をされなくてよかった、と思っていると、ラクエルがやって来て、わたしの肩に手を置いた。
『ちょっと失礼しますね』
いくらか背の高い彼女は、頭の上からふっとわたしの髪に息を吹きかける。途端、ふわんとつむじ風みたいなものが舞い上がって、一瞬で髪の毛が乾いてしまった。
「うわ、すごぉい」
『髪が濡れたままだと、風邪を引いてしまいますから』
ラクエルはそう言って、手ぐしで髪を整えてくれた。兄弟はいないけど、そんなさり気ない気遣いがお姉さんができたみたいですごく安心する。
――こっちの世界で出会った人がいい人で、本当によかった。
心からそう思った。
*文中訳はこちら。
「シ インフェリ トゥエ バニ。リオコ、イリール」→「彼女が風呂に案内をする。リオコはついていくといい」